先週、なびす画廊で松浦寿夫展を見ていた。とても微妙で繊細な感覚を与える作品で、この、こまやかな感覚を、どのように言葉にしていいのか。私は最近では、2004年、2006年の同じギャラリーでの松浦氏の展示を見ていて、あとは府中美術館の公開製作を見ているのだけど(更に遡れば、初めて松浦氏の絵画を見たのはセゾン美術館の「視ることのアレゴリー」展だった)、その中では一番いいと思える展示だった。キャンバスにアクリルで描かれている絵画には、なんとなく、おおきなグリッド構造のようなものが見えてくる。グリッド、というよりは青や桃色の方形が、けしてはっきりとした輪郭ではなく、ぼんやりと浮かび上がりながら、すこし斜めにかしいだ様子で並んでいる、と言った方がいいのかもしれない。


この方形は、画面に秩序を与える、というようなものとは異なると思う。また、それはキャンバスの存在と切り離されて自立しているわけでもない。こういう言い方が適切かどうかわからないが、それは、いわば、それ自身が描かれることによってキャンバスもまた立ち現れる、というようなありかたをしているのだ。もちろん、現実の問題として、キャンバスは絵が描かれる前からあるだろう。しかし、そのキャンバスが、生き生きとした存在になってゆくのは、そこに絵の具が載せられてゆく所作によってだろう。画家はここではあきらかにキャンバスと絵の具の相互作用を読み取りながら、その出来事を導くように手を入れていて、その結果が、描きと同時に(生き生きとした)キャンバスが開かれていったような感覚を与えるのだと思う。


作る、描く、という積極的な言葉が今ひとつフィットせず、おもわず「導く」といいたくなるようなその所作は、多分、松浦寿夫という画家にとっての製作のポイントが、能動的に「描く」というようなものであるよりは、どこか受動的な「見る」ところにあるからだと推測できる。何らかのインスピレーションはあったとして、しかしそれに製作を従属させるのではなくて、いわば種を撒いた畑に水をやりながら、種が芽をだして成長してゆくのを、要所要所で少しだけ助けるような、そんな製作。このような製作は、100%操作的ではないからこそ、かなり不安定なものだと思う。例えば私は府中美術館での公開製作の作品を単調だと思ったのだけど(参考:id:eyck:20061027)、ここでは、松浦氏の「導き」は上手くいっていなかった。しかし、おそらくそんな事は松浦氏にとっては二次的なことなのかもしれない。ある時の描くという認識はある軌跡を描く、というだけの事かもしれない。


このような、ほんのわずかの事で異なる物語に変異してしまいそうな画面で、松浦氏の意識では、はっきりと「色彩」に比重が置かれている。そこでとりこぼされているものがあるとすれば、それはアクリル絵の具のマテリアル、というかテクスチャーだと思う。何かメディウムが混ぜられているような、ぴかぴかした表面をした樹脂の質感と、下地の施されたキャンバスの材質は、近づいてみると明らかに不協和をかんじさせる。これらの絵は、だから、はっきりと、一定の距離、色彩がピュアに色として見えてくるような独特の距離から見られることを求めている(そう考えると、銀座・京橋の画廊の中でも比較的広いこの会場で展示されているのは、とても大きい要素だと思う)。その点が私はどうしても疑問で、基本的に色彩と物質性は分離できないものだと思うし*1、である以上、その色を見るのと同じようにテクスチャーが見られていない感じがする作品は、どうしても納得できない。


そういう意味では全体として存在の視覚性(視覚の存在性、といってもいいのだけど)がふっと心地よい感覚を作り出していたのは、細長い段ボール紙を重ねて厚くした表面に色が塗られていた小さなピースで、これはちょっと「ずるい」感じがしないでもないのだけど、文句なしでチャーミングだ。思わず買おうかと思ったくらいで(確か1万円とかだったと思う)、しかし自宅に松浦寿夫作品を持つ、というのは値段の問題以上に贅沢な貴族的行為に思えて、結局黙って出て来た。展覧会は1.30(金)まで。


松浦寿夫

*1:だから「色彩と物質性」という二元論はナンセンスなのだ