万葉集と古今集…

 若い日の勘違いが悪いものでもないのは、そのお陰で、多数の万葉秀歌を覚えていることだ。といって暗記テスト的にいくつ覚えているかはちょっとわからないが、茂吉の上下巻はすべて暗誦できた時期はある。
 しかし、今、私にとって、万葉集は、ただの歴史政治資料でしかない。
 古事記偽書である。日本史学がそれをトンデモ説というなら、言うがいい。というか、その手の議論はもうどうでもいい。
 書紀は偽史であり、改竄書である。それも、ある意味では、どうでもいいことだ。
 記紀がその状態ではそこから日本の古代など遡及はできない、はずだが、万葉集という史書はその綻びを見せている。ただ、正確には史書ではないし、そこから史実を描くことは難しい。
 古今集になると、ようやく、日本語でできはじめる。そして、初めて詩歌なりのものに出来あがる。古今集ができることで、そのポストモダンのような反照の意識で万葉集が詩歌と見えることになった。それだけのことだとも言えるだろうし、それが重要なことだとも言えるだろう。
 古今集以降の詩歌の歴史は定家に至るまで独自な洗練でもある。まさに文学ともいえるだろう。あるいはもっと肯定的にハイデガーの「森の道」のように、ヘルダーリン詩のように読むことも可能だろう。ま、それほど私は関心はない。