そういえば夢というか

 昨晩ぬるい湯にひたりながら、ゲームとルールの関係について考えていた。例えば、サッカーというゲームのシミュレーションをインプルメントする、という課題。継続して夢のなかで考え続けていた。
 で、ルールと選手でゲームは成立しないんじゃないか、というのが考えていたこと。
 問題は簡単で、ルールと選手を定義するとゲームが定義できるか? 
 ヴィトゲンシュタイン的な考えだとゲームとルールというのはある種、本質論の回避みたいによく利用される。だけど、というあたりが背景。
 ルールのインプルメントはそれほど難しくない。そして問題は選手というのをインスタンスとした場合、クラスが書けるか。もちろん、書ける。
 で、そうしたクラスとルールでゲームがシミュレートできるかというと、できないんじゃないか。
 フォワードはゲームの文脈上あれこれをせい、というのが、事実クラス定義されなくてはならない。
 でだ。
 その場合、選手クラスのスーパークラスには、何が書かれるのか?
 単純な話、オメーはこのチームなんだからこのチームに勝つように行動性よというのが書かれなくてならないのではないか。
 馬鹿な与太話ではあるのだが。
 が、というのは、実際のゲームにおいては、チームワークとその目的性というのは暗黙化されていて、実はルールから逸脱しているんじゃないか。
 いや話はこう与太になる。
 私は愛国心というのは結果論だと思う。まあ、それはそれでいい。で、日本国というのはルールだとする。国民はインスタンスだとする。クラスは?
 というとき、実は、愛国心というのは、先のサッカーのモデルのようにこっそりスーパークラスに書かれているなにかだな。
 もっと一般論。
 スーパークラスだとするとこれは最終的にはインスタンスに出てくる。
 で、ルールというのはインスタンスの内側ではないというか、別のインスタンスか。
 で、先の愛国心とかこのゲームの意味はみたいな部分というのは、本当にメンバーのクラスのスーパークラスなのか? 違うんではないか。
 仮にいうと、スーパークラスというより、メタルールだろうか。ルールのスーパークラスだろうか。
 しょうもないことを考えつつ、ルールとゲーム的な、ヴィトゲンシュタイン的な考えというのは基本的な間違いか、つまり、本質をすべて回避してみせたけど、そうすると最後に奇妙なメタルールを残してしまう。
 というか、そういうメタルールという点では、ヘーゲルの精神とかハイデガー(後期)の存在とかみな同じような振る舞いをする。
 話をべたにして。
 実際ところ、サッカーゲームのシミュレーションはできる。そしてそれはいわゆるサッカーのルールじゃなくて、別のルールインスタンスと選手のインスタンスで構成されるのだろう。っていうことは別にメタルールは不要だ。
 ただ、そうか?
 実際にはサッカーのゲームでは個々のインスタンスはメタルールを使って、インスタンスのビヘイビアを創発的に変更してしまうことがありうる。というか、その創発性を許すものとして実際のルールが存在している。
 っていうことは、やはり、メタルールがある。