ある種の人間は子どもの頃からあるテーマを持っていて

 たまにその子が頭がよいと、学者みたいにもなってしまうのだが、学者になれるのは、その学の方法論において、テーマをうまく整合させた結果でもある。
 残念ながら、そのテーマがうまくそういう型嵌めにいかないこともあり、珍妙な結果になるにはなる。
 そういえば。
 その後もこれやこれはぼちぼちと読んでいる。
 ⇒「多宇宙と輪廻転生―人間原理のパラドクス(三浦俊彦)」読んだよ - finalventの日記
 ⇒年末読んでいた本 - finalventの日記
 三浦は本人は洒落気はあってもトンデモ本のつもりはないだろう。ジェインズのほうは、学会的にはもう埋葬され、トンデモ本になっている。
 二著を並べたのはというか、この二著にひっかかっているのは、人の個の意識というのは、ある種、濃度のようなものなんだろうというあたりだ。
 先日、アダムスミスの評伝を読んだのだが、アーレントでもそうなのだが、Common Senseというものの奇妙さを思った。Common Senseはデカルト的にmindと言い換えていいし、計算機と言ってもよいのだが、この神学的な体系のミニチュアみたいなものの、デカルト的な焦点が問題ではなく、むしろ、Common SenseのCommonである部分で他者性が問われるところにこの問題のキモがありそうだ。いや、そんなのアリストテレスの時代から当たり前だろうではあるのだが。
 ただ、この構造は、sum (I am)というのがCommon SenseのCommonにおける濃度として問われうるということなのではないか。それが、マイケル・ポランニのいうような層の問題の上位のハーネスの原理というのではなく、一種の覚醒に近いものなんだろう。
 そういえば、下條も先の本で、実はこっそりと、この先はオカルトなんだよなとつぶやくところが二箇所くらいあった。三浦ほど方法論でプロテクトすれば、言っても安全ではあるのだろうが。
 そういえばの続きだが、気楽に好きな本が読めるのは学を離れたわずなか恩恵かもしれない。まあ、トンデモの道でもあるのだろうけど。