記憶についてのあれこれ 55 <ダムを見て歩く>

1990年代初めの頃に、私がホームステイしていた東南アジアのある地域では、日本やアメリカの開発援助あるいは世界銀行やアジア開発銀行の融資で大型のダム建設計画があちこちで進んでいました。


その地域に住む大半の住民がその計画を知るのは、立ち退きがすでに決まった時でした。
そういう計画があるらしいということは噂では広がっても、役所に行っても誰も情報を得られない状況でした。


話し合いもなく、しかもダム建設用地に住む多くの住民は少数民族であり個人で土地を所有することはない社会の人たちが先祖伝来の土地も、文化も全て失う状況でした。


「expropriation(土地の強制収用)」「deprived(奪われる)」という言葉をしょっちゅう耳にしました。


ある少数民族の地域では、第二次大戦中に日本兵がその地域の田畑の収穫物をすべて収奪したり、教会を焼き払って行きました。戦争が終わり平和な日々が戻ったと安堵したのもつかの間、今度はアメリカがいくつものダムを建設したそうです。


土地を失い、共同体も大きく変化しました。


そして半世紀ほど過ぎた頃、ダムは堆砂が50%を越え、雨が降ると洪水が頻繁に起こるようになりました。
それらのダム周辺の山は、日本を初め先進国向けの森林伐採が行われていたことも堆砂の一因のようです。


そして洪水対策と電源開発のために、戦後すぐに作られたいくつかのダムを沈めて新たな巨大ダムを作る計画が進められていました。


ダムが作られるということは、これほどまで人の生活に大きな影響を与えるのだということを知りました。


1990年代は世界中で、こうした巨大ダム建設への批判が高まっていたことと、国内でも公共事業に対する厳しい批判が聞かれるようになった時期でした。


私は、日本の豊かな生活のために遠い東南アジアの少数民族の人たちが苦しみ続けていることに、感情を揺さぶられたのでした。


<村井さんとダムを歩く>


1990年代半ばに、村井吉敬(よしのり)氏とその仲間であちこちのダムや大型公共事業の現場を見に行きました。


先日の八ッ場ダムもそのひとつでした。


二風谷(にぶたに)ダムにも行きました。
苫小牧東部開発計画の工業用水確保が目的でした。


1994年にアイヌ初の国会議員となられた萱野茂氏のご自宅で、話を伺いました。
Wikipediaの説明に「1993年 二風谷ダム着工のため行われた用地強制収用裁決の取り消しを求めて札幌地裁に提訴」とありますが、すでに二風谷ダムは建設されていましたから、アイヌの土地、いえ土地というよりも「生き方」を取り戻すための裁判なのだと理解しました。


萱野茂氏が竹でできたムックリを演奏してくださった記憶があります。


私が一時期暮らした東南アジアの地域の少数民族の人たちも使っていた竹笛です。
アイヌの人たちと東南アジアの少数民族の人たちの置かれた状況が似ているので、私は心がえぐられるようでした。


感情で「ダム反対」「ダムは悪」に突き進みそうになる私を抑えたのは、やはりここでも静かに語り合う萱野氏と村井氏の姿が印象に残っているからかもしれません。


のちに出会った「折り合いをつける」という言葉にたどりつく伏線だったのかもしれないと、村井さんとともに「当事者」の話しを聞いて歩いた日々を思い出しています。






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