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キリンが逆立ちしたピアス このページをアンテナに追加 RSSフィード

2016-02-22

[][]小池一夫氏の二次加害発言について

 昨日からネットで話題になっているのが、小池一夫氏の二次加害発言である。小池さんは「子連れ狼」などの漫画原作で有名であり、ツイッターでも28万人以上のフォロワーを持つ。非常にネット上で発言力のある人物だ。

 その小池さんがある事件の被害者に対し、次のような発言を行った。

【今日の家人】今日も中1の女の子を連れ去ったと、馬鹿な男が捕まっていたけど、きっかけはネットの出会い系サイトなのよ。中1で男が欲しかったのか、お金が欲しかったのか分からないけど、中1で出会い系サイトで男と知り合う女の子は、もう女の子じゃない。女。しかも、倫理観も貞操観念もない女。

https://twitter.com/koikekazuo/status/701261058237812737

 上記の発言の主な問題点を以下に列記しておく。

(1)「家人」という女性を隠れ蓑にすること

  「家人」とは小池さんの女性のパートナーを指す。男性である小池さんが直接発言するのではなく、「女性」の口を借りて話すことで、女性同士の発言をほのめかしている。また、男性の性差別意識を「女性」を隠れ蓑にして批判を避けようとしている。本来の発言者の女性が言ったのかどうかも真偽は明らかではない。(「女性」のアイコンを使った悪質な創作である可能性がある)

(2)古い性規範の押し付け

 「貞操観念」とは、女性が自己の欲するままに性的に行動することを抑制し。社会規範によって抑圧する観念である。この背景には「男性が女性を所有する」という古い価値規範がある。女性が誰とどのような性的関係を持とうと個人の自由であり、「倫理観がない」などということは性差別にあたる。

(3)未成年の女性の性的欲望の否定

 思春期に入ると性別にかかわらず、性的な欲望が顕著になっていきやすい。自我の目覚めや、社会的な性意識の学習、ホルモンバランスなど、様々な理由が合わさって「性的なもの」へ惹きつけられたり、拒否感を持ったりする。男性のこうした性的な関心は肯定的に語られることが多いが、女性の性的関心は否定的に語られることが多い。その理由には(2)が大きい。

 未成年の女性が、「女」であっても「女の子」であっても自由なことではあるが、性的欲望によって分断することはできない。思春期子どもたちは、大人と子どもの境目で逡巡している。そのため、性に限らず、未知の「大人の社会」へ同化と反発を繰り返しながら参入することで成長していく。子どもたちの「倫理観」はこうした「大人の社会」社会への挑戦の中で育まれていくものである。

 だから、女性であっても、性的なものへの好奇心の高まりから、「出会い系サイト」を使うことは何もおかしなことではない。未成年の使用が禁止がされていれば、いっそう興味を持つことだろう。同時に、社会経験の少なさから、「出会い系サイト」を通じて、大人にだまされたり傷つけられたりする危険も高い。こうした状況から、「出会い系サイト」をゾーニングフィルタリングによって未成年から遠ざけることが良いのか、危険性を明示的に教えることが良いのかは議論があるだろう。どちらにしろ、危険物子どもたちの手の届くところに置いている責任は大人にある。

(4)出会い系を利用せざるをえない未成年への無理解

 出会い系サイトを使う未成年のうち、非常に困難な状況に置かれている子どもたちもいる。貧困虐待から生き延びるための金銭を得るために利用する未成年もいれば、孤独な心を埋める方法を他に知らずに利用する未成年もいる。この背景には日本の児童福祉が全く足りていないことがあることは、何度も指摘されてきた。少し調べればわかることの手間を惜しみ(または知っているのにあえて事実を隠して)偏見のままに発言している。

 以上のように、非常に問題のある発言だと言える。ネット上で知名人によるこうした発言は、小池さんに限らず何度も繰り返されているのだが、ツイッターだと流れてしまいやすいので備忘録として記録していく。

 「出会い系サイトに登録する少女たちを止めるべきだ!」「自衛のために必要なんだ!」という方のために、過去記事もリンクしておきます。

「性暴力は自衛可能か?」

http://d.hatena.ne.jp/font-da/20091208/1260272432

「風俗で働くことを怒ることは百害あって一利なし

http://d.hatena.ne.jp/font-da/20131211/1386736392

 困難な状況に置かれている少女たちについての本はこちら。

 大変な状況で犯罪に至ってしまった少女たちについての本もあります。

生きのびるための犯罪 (よりみちパン! セ) (よりみちパン!セ)

生きのびるための犯罪 (よりみちパン! セ) (よりみちパン!セ)

セカンドチャンス!―人生が変わった少年院出院者たち

セカンドチャンス!―人生が変わった少年院出院者たち

 

2016-01-01

[]あけましておめでとうございます。

 博士論文を提出いたしました。現在、審査中です。

 大学院に進学するまでも、七転八倒して悩みました。入ってからも何度も「大学院にいることに何の意味があるのだろうか」「学術論文を書く価値は何なのだろうか」と疑問に思うばかりでした。今もその答えは出ていません。

 それでも、私は大学院に進学してよかったです。博士論文を書けて良かったです。とても、一人では続けられませんでした。教員や先輩たち、同期のみなさん、研究会のみなさんの励ましの言葉で最後までやり通せました。ありがとうございます。

 10年前の今頃の私は、どこにも所属がなく、先行きも何も見えませんでした。「文章を書くことをやめたくない」という気持ちだけで、インターネットにしがみついていました。当時の私のウェブサイトアクセス数は1日に10前後でした。でも、ネットだけが私の居場所でした。周りの反応は「そんなことをして何になるの」と冷たいものでした。

 私はネットが好きです。嫌な目にもたくさん遭いました。それでも、ネットで読んでくださる方に支えられて、今まで書いてきました。本当にありがとうございます。今の私があるのは、ネットの読者のみなさんのおかげだと思っています。

 いつも「私が書かなくても誰も困らないんだよな」と思いつつ、今日まで書くことをやめられませんでした。続けられるところまで続けたいと思っています。ブログの更新は少なめかもしれませんが、元気でやっています。今年もよろしくお願いします。

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*きりんのイラストは、今年も素材屋音きりんさんからお借りしました。ご好意で小規模で素材を配布されています。毎年ありがとうございます。楽しみにしています。

2015-11-18

[]我妻和樹「波伝谷に生きる人びと」

 波伝谷とは、宮城県南三陸町にある地域の名前である。その地に暮らす人々は、波伝谷を「部落」と呼んでいる。海と山に面し、漁業農業を営む部落は、2011年3月11日に起きた震災津波におそわれた。しかし、この映画では、ほとんど「震災」の映像はでてこない。我妻監督が2008年から3年にわたって収録した、波伝谷に暮らす人々の日常風景を記録するドキュメンタリーなのである。(以下、盛大にネタバレしているので閉じておく)

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2015-09-22

[]小松原織香「対話の効果と赦しのプロセス

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 「赦し」と修復的司法についての、私の講演会の記録冊子を、一般社団法人メディエーターズが刊行しています。9月20日(日)の文学フリマ大阪頒布したところ、好評であっという間に完売しました。(在庫切れでお渡しできなかったかたには申し訳なかったです)

 こちらの冊子は、メディエーターズにメールで注文すると、送料込みで600円でお手元に届きます。よろしくお願いします。

昨年度の小松原さんの講演録「対話の効果と赦しのプロセス

 1冊 600円(送料込)にて送ります。(A5版 54ページ)

 ご関心のある方は info@mediators.jp までご連絡ください。

お支払いは振込みでお願いしています。詳細はメールにてご連絡します

一般社団法人メディエーターズ

https://www.facebook.com/mediators/

2015-08-02

[]中村一成ヘイトクライムへの修復的アプローチを考える」

法学セミナー2015年7月号

法学セミナー2015年7月号

 2015年法学セミナー7月号に、中村一成ヘイトクライムへの修復的アプローチを考える」が掲載されている。これは、日本でのヘイトクライム*1に対する、修復的司法(restorative justice)の可能性を模索した、おそらく初めての論考である。ヘイトクライムに対する修復的司法実践の可能性については、マーク・A・ウォルターの『ヘイトクライムと修復的司法』が公刊されたところで、国際的にも注目を浴びている分野である。ヘイトクライムは、加害者が被害者に対して深い憎悪を持っているため、長らく修復的司法では禁忌とされてきた。しかしながら、そうしたヘイトクライムは、裁判で厳しい判決が出ても加害者の更生につながらず、難しいとされてきた。加害者は差別意識によって、自己正当化を続けるからである。そこで、被害者との対話を通して、加害者が変容していく可能性を修復的司法は探るのである。

 中村さんは、この問題について考えるきっかけには、京都朝鮮学校襲撃事件があったという。以下のように述べている。

 筆者がヘイトクライムにおける修復的司法の可能性を感じたのは、京都朝鮮学校襲撃事件(以下、京都事件)の被害の聴き取りを本格化させた2013年、二人の保護者の言葉に触れたことが契機だった。事件当時、オモニ会(母親会)の会長を務めていたある保護者は、民事法廷の柵の向こうで繰り返される無反省な加害者の暴言を浴びながら、それでも弁論を傍聴していた。その理由を尋ねると、彼女は次のように答えた。「悔い改めるのを見たい。やったことは許されないことだけど、どこかで同じ人間として通じる部分を見つけたい」。もう一人は事件時、アボジ会(父親会)副会長だった人物だ。彼が加害者を決して「奴ら」などと呼ばないことを指摘すると、彼は言った。「どこかで彼らが同じ人間であることを手放したくないんです」。

 二人は加害者の可変性に賭けていた。綺麗事の話ではない。彼らは今後もこの社会で、マジョリティとの厳然たる「力関係」のなかで、彼らと共に生きていかねばならない。(後略)

(49ページ)

 以上で中村さんが述べるように、京都事件に直接関わる保護者たちのなかには、「加害者が変わること」と望む人たちがいた。朝鮮学校は、直接的な襲撃事件の前からも、多くの「日本人」の差別や偏見にさらされ続けていた。この後の記事で中村さんは、「日本人」の見学を受け入れる朝鮮学校の姿勢を例に出し、相互理解を進めることでやっと「生きる権利」が護られるマイノリティの厳しい状況を述べている。地道に積み上げてきた、共に生きるための信頼関係が破壊されたの京都事件であり、それを再構築することを模索する保護者がいたことを、中村さんの記事は明らかにしている。

 他方、裁判において、京都事件の加害者は刑事・民事で厳罰に処せられることとなった。これは歴史的勝利であり、裁判所判決に「人種差別」の文言を書き込ませた功績は大きい。それでも、こぼれ落ちる被害者の気持ちがあったことも、中村さんは次のように書いている。

 保護者たちの傍聴理由で最も多かったのは、なぜあんなことをしたのか、「理由を知りたい」、「なぜ私たちを敵視するのか」だった。だが、被告の大半は何一つ反省していなかった。法廷で開陳されたのは、加害者の理解不能な朝鮮人敵視や差別と、まるで正義に殉じた「受難者」のごとく振舞う態度だった。「いかに加害者が愚かで、かつ無反省か」を法廷で示すことは、裁判上は「勝訴」へと繋がる。原告側にとっては、ある意味、歓迎すべきことである。法廷での対立状況が先鋭化すればするほど、加害者の言動は酷くなり、裁判官の心証を悪くし、被害者を有利にする。それは勝訴の「レベル」を上げるのだが、しかし、そうなればはるほど、「悔い改めるのを見たい」「人間として通じ合える部分があるかもしれない」という被害者の思いからかけ離れていく。

(50ページ)

 以上のように、法廷闘争ではヘイトクライムの被害者の思いが、なかなか通じないことが、中村さんの記事でわかる。そこで、被害者と加害者の対話を重んじる修復的司法に焦点が当たるのである。日本ではヘイトクライムに対する修復的司法の実践例はないが、中村さんは、2003年に発生した「大量連続差別ハガキ事件」にその可能性を見出す。

 中村さんによると、この事件では、約2年間の間に、400通の差別ハガキが、部落解放同盟ハンセン病国立療養所「菊池恵楓園」などに贈られた。中でも、浦本誉至は100通もの差別ハガキを送られている。浦本さんは警察に届けるが、「自作自演である」とみなされる差別を受けた。そこで、仲間とハガキの書き手を探すことになった。苦しい状況ではあったが、ついに34歳の男性が逮捕されて私的偽造・同行使などで実刑判決を受けた。だが、裁判中も加害者は「表現の自由」を主張して浦本さんの受けた苦しみや痛みに向き合うことはなかった。

 そこで、浦本さんは手紙によって対話の準備を進め、3年後に糾弾会を開いた。もともと、糾弾会は被害者と加害者が「対話」する場ではない。だけれど、冷静な言葉のやり取りの中で、加害者は浦本さんの痛みに思いをはせるようになったという。浦本さんは次のように語っている。

「事件の時は見つけ出して徹底糾弾してやると思っていたけど、実際に交流する中で私自身、変わった。数々の挫折を経験し、高い自己イメージの一方で、非正規を強いられている彼の境遇も分かった。私が彼の立場なら、同じような犯罪をしなかったとは断言できない。私たちを攻撃対象にした原因が無知であることも見えた」

差別をする人とされる側に明らかな断絶がある。それをどうやって乗り越えるか。一方的にぶつけては乗り越えられないと思う。まず断絶があることを理解する。理解して目的意識をもっていかに乗り越えるかを考えないと何も変わらないと思う。この社会には無知を改め、反省を促す回路がない。大きく言えば、日本で死刑が続くのは、見える形で人が反省に至るプロセスがこの国にないからだと思う」

 浦本さんは、糾弾会での交流を通して、「自分も変わった」ことを述べている。そして、加害者が「反省するための回路がない」ことを指摘している。学ぶ場や、後悔を促す場がないのである。だから、加害者に「反省しろ」といっても、本人にも反省する方法がわからない。もちろん、「無知でいられること」「反省を強いられないこと」はマジョリティの特権でもあり、加害者に責任がある。しかし、「無い」ものは「無い」。

 中村さんは同じことが京都事件でも起きているという。白々しい「反省」の身振りは空疎であるし、本当に後悔しているとしても、自己の行為を批判的に省みて、謝罪と更生に結びつける力も助けもないのである。以下のように述べている。

 本人も言語化できない段階で表出される「反省」の芽を育て、花開かせる筋道がないのだ。その芽を育てること、それは加害者の「更生」のためだけではない。加害者の可変性ーー加害者もまた、被害者の痛みに思いを馳せうる人間であると示されることーーは、何よりも被害回復に必要なのだ。とりわけ確定的悪意と憎悪を知ってしまった子どもたちが世界と「和解」するためには。

 以上のように、中村さんは加害者の反省が、被害者の回復にも寄与することを指摘している。ヘイトクライムに対する修復的司法とは、加害者を免じたり、罪の意識を和らげたりするものではない。一度壊れてしまった、マイノリティマジョリティの間の、信頼関係を再び築いていくために、一歩を踏み出すうとするステップである。

 もちろん、すべての被害者が修復的司法を望むわけではない。厳罰を望む場合もあれば、加害者を強い言葉で非難する場合もあるだろう。それでも、これまで省みられなかった、被害者の思いを修復的司法が拾い上げることができる可能性はある。中村さんの記事は、その繊細で小さな営みを丁寧に描き出していると思う。

 私は、個人的にマーク・A・ウォルターに会って話をしたことがある。徹底的な被害者への寄り添いから、ヘイトクライムに対する修復的司法を思考している研究者だと感じた。また、実践者ともあったが、日々繰り返される、差別行為の中で、なんとか抵抗の糸口を探そうと修復的司法に取り組んでいることを教えてくれた。まだまだ、模索中の分野ではあるが、注目が集まると良いと思っている。

*1差別に基づく憎悪感情によって起こされる犯罪