「あと千回の晩飯」山田風太郎


 ふた昔ほど前、朝日新聞に連載されていたエッセイを再読。高齢者社会を憂いた編集者とのやりとりがおかしい。4人に1人が65歳の時代を迎えるという、高齢者氾濫予防法について:


『「僕のアイデアでは、ボケ老人を一同に集めて、集団でトワの眠りについてもらう。ーー中略ーー。
そこに花をつめた柩をびっしり並べて、そのなかに横たわってもらう。そのうちガスがしずかに全館を満たす....。」
「そりゃアウシュビッツじゃありませんか」
「全然待遇がちがう。が、そういわれるならウイスキーをガス化して、噴霧状にふきつけてもいい。ーー後略。」
「それはともかく。そりゃ強制ですか」
「いや志願だ。65歳になったとき、将来ボケてクソジジイ、クソババアの兆候があらわれたら、この国家的埋葬の儀に参加させてくれと登録しておくんだ。ーー後略。」 編集者はしばらく首をひねってからいった。
「まあ、志願者はありますまいな、だいたい人間は、生きているのがイヤになっても死にたくないもんですよ」
「そうだろうか」』


 ーーーそのころ山田風太郎はまだ70代前半で、奥さんに好きなものをテーブルいっぱいに並べさせて、朝酌、晩酌をしていた。この高齢者氾濫予防法は夏目漱石が「吾輩は猫である」で書いたことがヒントになっている。漱石いわく:
『文明が発達すると人類はみな神経衰弱になり、生きていくのがいやになる。しかし当人はなかなか死ねない。そこでそんな世の中になると、巡査が棍棒を持って天下の公民を撲殺して歩く。ーー後略。』


 そして、会話の結びが、

『「それに、いまのお話のようなことを、あまりおおっぴらに聞かれると、ジジババ連にそれこそ棍棒で撲殺されますぜ」
「なに、僕もそのお仲間のひとりなんだがね」』「あと千回の晩飯」ー吾輩もボケであるーから


 ーーー言いたい放題辛口のエッセイは好評で、わたしも楽しみに読んでいた。苦情の手紙が届いたそうだが、ばあさまからは来なかったそう。いざとなったら女の方が潔く、ジタバタしないのかも?