2011-09-29 「きっと何者にもなれない」あなたへ
■[雑記][WEB]「きっと何者にもなれない」あなたへ

この参考リンクの記事を読んでから、ずっと「僕は何者なのか?」と考えていた。
いやそもそも、何者になりたかったのだろうか?
僕の父親は医者だったのだが、仕事を終えたあとは飲みに外に出ることが多かった。
それで酔っぱらって帰ってきて、酒臭い息で説教されるのも悲しかったのだが、仕事のことではなく、「飲み屋での自分の顔の広さ」を自慢するのがすごくイヤだった。
「あなたは、何者なのだ?」って。
医者というご立派な職業についたからには、もっと仕事を熱心にやって、その世界で認められようとするのがスジではないか。
にもかかわらず、夜の街でのこと、「あんな人と知り合いなんだ」とか「あの店は俺がいないとやっていけない」みたいなことを自慢するのは、すごく恥ずかしいことだ。
でも、いまもうすぐ40歳を迎えようとしている僕には、あの頃の親の気持ちが、なんとなくわかるような気がする。
「反面教師」のおかげで、とりあえず「夜の街での人脈自慢」には陥らないですんでいるけれども。
医者というのは、世間的にみれば、「ご立派な職業」のひとつだろう。
しかしながら、世の中はそんなに甘くはない。
医者の世界のなかで、他者とは代え難い「何者か」になるのは、本当に難しい。
この世界には「呼吸をするように勉強する人たち」がいるのだ。
ちょっと勉強ができて、世のため人のためになる仕事がしたかった、という人たちは、学問の世界で上り詰めていくのは至難だ。
結局のところ、「医者としての評価を極める」ことに限界を感じると、高級外車を乗り回したり、夜の街で顔になったり、お金を稼ぐことに執着しだしたりする。
なまじっか、「何者かになろうとして」医者になってしまったばかりに、「自分が何者でもなく、医療という大きな機械のなかの、いくらでも代わりがいる1個の歯車」でしかないことがつらくてしょうがない。
中には「医者らしくない医者」として、「存在証明」をしようとする者も出てくる。
と、他人事のように書いてきたけれど、「ブログを書きまくる医者」である僕も、その一味であるわけだ。
こうして「書くのが好きなんですよねー」なんて言いながら年を取り、こんなはずじゃなかったのに、と内心思いながらも、みんなに「ありがとう」とか言い残して死んでいくのかなあ、と悲しくなってもくるのだ。
これはたぶん、医者の世界に限ったことではないはず。
というか、医者という職業だけで、「あなたは何者かになった」と評価してくれる人もいるけれども、当事者にとっては、そういうものでもないんだよなあ。
「写真」とか「文章」というのは、「何者かになるはずで、なれなかった人たち」の最後の受け皿になりやすい趣味だ。
いくらなんでも、僕の年齢になって、「プロ野球選手になって、カープを優勝させる」とか、「政治家に転身して、首相になる」なんていうのは、妄想でしかない、それは理解できる。
ところが、写真とか文章というのは、「プロとアマチュアの違いが、(素人には)わかりにくい」だけに、「いまからでもできるかも!」と思いこみがちなのだ。
僕にも、「夏目漱石がデビューしたのは、30代後半だった」などという特例に希望を見いだしていた時期がありました。
ところが、その気になって少し勉強をはじめてみると、その世界の奥深さに愕然とすることになる。
作家の文章をプロ野球の1軍とするならば、ブログの文章は2軍だ。
(本当は四国アイランドリーグくらいなのだろうけど、わかりやすいように今回はこれで話そう)
もちろん、2軍ですぐに頭角を現し、1軍で大活躍する選手もわずかだが存在する。
だが、大部分の「2軍のエースや4番」たちは、1軍に行けば敗戦処理でも打たれ、代打に出れば振り遅れて三振だ。
そのくらいのレベルの違いがある。
裾野が広くて、みんなができそうだと思い込んでいるというのは、裏を返せば、チャレンジャーが多いということ。
そして、狭き門のわりには、そんなに儲かるものでもない。
僕がこの年齢になって感じるようになったのは、「自分は何者にもなれないのだ」と知ってから、本当の「人生」がはじまる、ということなんですよ。
僕が村上春樹さんの作品の登場人物に惹かれるのと同時に、「浮世離れしている」と批判したくなるのは、彼らはみんな「何者でもないけれど、自分のやるべきことを、淡々とやっている人」であり、「それを自分で受け入れている人間」だからなのです。
『コクリコ坂から』という映画を観ながら考えていたのだけれども、結局のところ、大部分の「何者にもなれない人間」にとって根源的な「しあわせ」みたいなものって、「おいしい朝ご飯を食べて、おひさまの香りがするふんわりとした布団で寝ること」に尽きるのではないだろうか。
「何者か」であろうとするより、「生物としての根源的な喜び」を積み重ねていくほうが、「正しい」のかもしれない。
何も好きなものがなく、感情移入することもなく、ひたすら「生物として生き続けること」に集中できれば、ラクになるよねきっと。
いや、それほど味気ないこともないのかな……
アルコールとかギャンブルとか恋愛とかネットとか、「やらなくても死なないこと」なのにね。
……というようなことを文章にしているだけでも、僕はこの「何者かになりたい病」から抜け出せない人間であることを証明しているのですけどね。
うーん、思っていたことがうまく書けていないのだけれども、僕のなかでもうまく整理できていない話でもあり、未完成のままとりあえず置いておきます。
- Twitter / @utarico
- Twitter / @gotaitouchi
- Twitter / @j_rod
- Twitter / @_SIRORIS_
- Twitter / @yokomok
- Twitter / @den_km
- Twitter / @huguri99
- Twitter / @SeikeYuho
- Twitter / @NoisesioN
- Twitter / @chidoriashi1990
- Twitter / @lemp3
- Twitter / @deathcult2009
- clipping affair - [LIFE][PSYCHOLOGY] [雑記][WEB]「きっと何者に...
- シロクマの屑籠 - 40歳が「何者かになりたい」と欲求すること
- pon99の気になるニュ〜ス@@ - ★★★ 「きっと何者にもなれない」...
- 社会時評/書評 - 「きっと何者にもなれない」と考えるのは社会から...
- 駄目人間の書いたことが何一つ世の中の役に立たないとは言い切れな...
- 儀狄の雑記帳 - イチローですら、嫉妬する。あるいは『何者かになる...
- msioの日記 - 何の話
- 憧れ産業 - 「仕事による自己実現」と「消費による自己実現」
- 常夏島日記 - 40にもなって、自分が何者かだなんて問うことのいやら...
- 北の大地から送る物欲日記 - 「何者にもなれない」自分の認識と他人...
- Life like a clown - オレは自分の手の届くところは守りたいって思...
- さぬきみちるちる - 静穏
- SightSeeingの日記 - 引用句
- 普通のサラリーマンが歌手を目指すブログ - 「何者」になりたくてス...
- 道ログ - 何者にもなれないというか、なりたいと思ったことがない。
- tsucchiiの日記ではないなにか - 締め切りに追われない日々
- 琥珀色の戯言 - 「17歳」さんへの手紙
- 琥珀色の戯言 - 「17歳」さんへの手紙
- teruyastarはかく語りき - きっと何者にもなれないであろう僕達の生...
- 関西日記 - 「きっと何者にもなれない」症候群。
- 玖足手帖 - 輪るピングドラム第17話「許されざる者」を決める口実。...
- 世界の美人を365人集めてカレンダーを作るブログ
- ハックルベリーに会いに行く - 投影する人々
- wood stock speech - 何者でもない自分
- 琥珀色の戯言 - 2011年の『琥珀色の戯言』を振り返って
- techlog - 大切にしているものは、何ですか?
- yumulog | 社会人博士の日記 - 人生の転機・道に迷ったときに読み...
- 「きっと何者にもなれない」あなたへ - 琥珀色の戯言

私も「きっと何者にもなれない」ひとりです。
受験生で阪神大震災を体験し、生きてるのは奇跡だから一日も無駄にできないと思って始めた大学生活。でも、時とともに初心は薄れて行くものです。
その後、仕事をガムシャラに頑張って、しばらくして母親がガンに…また、いつ終わるともしれない命を実感しました。(母親ば無事回復しましたが七年後またガンに幸い、只今術後治療中)
自分自身も生まれつきのホルモン異常があったりと、生きていることへの感謝と生き物に与えられている不公平への気持ちがごちゃごちゃになったまま、三十半ばになりました。
いまは、今後の自分の目標に向けて努力しつつ、「お日様の匂いを楽しむ」ことを第一に過ごしています。何者にもなれない焦りとの戦いは終わりませんが、いつ命が終わるともしれないのだから、会いたい人に会い、やりたいことをやり、日常を大切にすることを後回しにしなくなってから随分と前向きに楽しく過ごせるようになりました。
…とほんとにただのコメントになってしまいましたが、なんだか書かずにはおれませんでしたので。
ぼくはそれは、何となく危ういと思います。社会でどう認められるか、という他人の目線が入り込みすぎてるので。
僕が『コクリコ坂から』の学生達を見て感じたのは、
何かになりたいとか社会にとってどうありたいとかゴチャゴチャした欲望抜きにして
「それがやりたいから、やらなくちゃいけないからやる!」みたいなエネルギーでした。
カルチュラタンの面々にしても、海ちゃんにしても。
何というか逆説的に、将来どうなるかなんて考えないでいいほどの希望があったんだなぁと思います。
そういう意味で、「きっと何者にもなれない」とか言ってすぐ未来のことを予想する現代人は寂しいですね・・・
私が受けたカウンセラーの方が、いわゆる「自己実現」について、
本来それは精神病になるかどうかというほど気が狂うような孤独や
精神世界を体験した果てに、自己と世界の繋がりを持つことを確信することであって
それを行うことは生易しいことではない・・・といった旨のことを
言っていたことを思いだしました。
こういう考えはきっと人間自体が持つ根源的な悩みでしょうし
だからこそこの世に文学や哲学や心理学がある…と僕は思っているんですが、
そういうもので名を馳せた偉人ほど何かの病を持っているのは
偶然ではないのだろうと思います。
どちらにしろ、生きるのは難しいものですね。
フロイト的に言えば、断念の術さえ心得れば人生は楽しいもの…
なのかもしれませんが、断念すること自体が難しい気もします(笑)
不完全であっても未完成であっても、自分で考え地に足をつけて生活している他者の存在を感じられるのは素敵なことだと思っています。
この桶職人は「何者か」に該当するのか?
左打席でも右打席でも自由自在にホームランを打てるし、投げれば170km/h超、でも野球で生計を立てることには全く興味がなく、メディアにも一切出ない。
この人は「何者か」に該当するのか?
職業:医師・弁護士・会社役員 年収:6億円 資産50億円 健康状態きわめて良好、妻は超美人で家族円満、友達500人以上・親友30人以上。でも常に虚無感で胸がいっぱい。
この人は?
結局、主観の問題のような気がします。
※確かに、伝えたい事を伝えられる技術は重要なのだが。
私感として、この事を重々に感じ取っている方々は、名も無き人々や子供達の一筆や一言に心を躍らせたり奪われたりするのでは無いだろうか。
http://swinglike.ojaru.jp/
生意気ですが言いたかったので言わせてもらいました。失礼しました。では。
私は何者か――要するに「個の確立」ですよね。
大まかにいって、「個の確立」には2つの方法があります。ひとつは他人から承認をうけること。水平型。もうひとつは、自己を探究することによって個を確立すること。垂直型です。
水平型はこの記事で書かれている通りでしょう。その限界も指摘されている。しかし、垂直型が出てこないんですね。だから漠然と「生物として生きる」といったようなところに帰結する。上のコメントも垂直的なところに触れようとしていますが、核心にまで届いていない。
私は山林作業者でそれこそ社会的には「何者でもない」存在ですが、自身が何者であるかは十分知っているつもりです。日々の労働を通じて〈世界〉にアクセスしているからです。技術は人間社会に貢献するための術である以上に、〈世界〉へアクセスするための、自己探求のための方法です。そしてそれは人間以外の生物にはできないこと。
この視点から見れば、家族愛ですらひとつの技術です。
現代社会は水平型へのバイアスが強すぎて、垂直型を見失ってしまっているのです。この記事は、そのバイアスへの無意識の抵抗が書かせたのだと思いました。上のコメント群も同じ無意識を共有していると感じます。
多分、「お勉強」と「勉強」を分けて考えた方がいいのではないでしょうか。
何のために? あるいは究極には誰のために? を突き詰めると、両者の違いははっきりします。
つまり「お勉強」は誰か(母親とか具体的な誰かでも構いませんし、世間といったような目に見えない人でも構いません)、に認められたくて勉強すること。
ブログでのアクセス数を気にした更新や、目標値を決めたダイエットなどもそれです。
これは他人から承認されることを目標としていますので、他人から承認されないと辛いんです。
一方、「呼吸をするように勉強する」人は本当に自分のために勉強ができる人だと思います。
これが「勉強」。
例えばアインシュタインは特殊相対性理論を一般化するのに10年以上かけています。
一般化しても誰も褒めない、むしろ無駄な作業だって言われていたらしいんですけどね。
話を元に戻しますと、本当にやりたいことを見つけられるかが何者かになれる鍵だと思いますよ。
乱文失礼しました。
「何者かになる」という事を考える……これは、所謂、若者が「自分捜しの旅に出る」ようなものなんでしょうか?こういうことを感じたり考えたりするのは、日本人独特なものなのか……それとも世界共通、人類共通で感じたり考えたりするテーマなのか…。。。そのあたりがもの凄く気になります。
>>shizukushizuさん
若者が自分探しの旅に出るのは、若者であるということ以上に「暇である」のが大半の理由です。
大学で特に拘束もされず、ただただ自由だけを与えられる日本人特有の症例と言っていいでしょう。
それは逆説的に、社会に出てからは旅行をする時間も与えられない、という共通認識の裏付けもあります。
僕は大学で近代的人間の主体意識(簡単に言うと、なぜ人間は「自分らしさ」に固執するのか)を研究しているのですが、
このエントリが非常に盛り上がっている所を見ると、まだまだ日本人はアイデンティティの確立において迷いが多いのだと実感しています。
思想の世界では既に多様な概念が登場していて(「飽和した自己」やdividualなど)、現代人のアイデンティティを規定しようとする様々な試みが為されています。
確かに理論だけでは納得いかない部分も多いかとは思いますが、もし時間があれば関連図書にあたってみるのも一つの案かもしれません。
なんだか哲学者の中島先生の私塾を思い出しました。
若者たちがここにこうして、思いのたけをぶつけることにより、満足して日常にもどれたらいいな、くらいに、私は思っております。
気づくと、定年まであと10年。いったい自分は何者なのか? 昔を振り返り、本来やりたかったのはこういうことではないか? などと考える今日この頃です。ふらついて、個の確立が未だにできていない。
30台、40台と違って、もう後がないと感じてしまう。しかし、自分が生きた証しとして名前(自分自身)以外の何かを残そうとしています。
小5から野球を続けていましたが、決して上手くはなかったです。それでも、努力すれば結果が必ず返ってくると信じてやってきました。
結局、最後まで結果は残らずに終わってしまいましたが、粘り強さと根性を…
と、これは面接のときに言う台詞にしか過ぎません。私が本当に欲したのは野球の上手さです。実際に、私と同じような人は大勢います。その中でも、結果が残る人はわずかです。そういう人たちを基にした話が、「やればできるんじゃないか」という気にさせてくれるのだと思います。しかし、私は本来欲しかったものに手が届かなくて、悔しさと虚しさでいっぱいでした。この記事を見て、省みさせられました。
しかし、私は研究者になるために大学へ行きます。研究者は自分の論文が評価されなければやってけない仕事です。そこでまた挫折を味わうかもしれません。むしろ、そうなることを確信しています。自分は、呼吸をするように勉強をしている人間ではありません。そういう人間には足下にも及ばないでしょう。
それでも私は進みたいと思います。根拠は、生き物らしく生きるためです。私がしたいことをしたいからです。この考えはバカで無謀で愚策かもしれません。でも、バカっていうのは悪いことじゃない気がします。「バカだな俺は、どうしてこんな道選んだんだよ」というのが私の夢です。運良く成功したらそれとなく喜びます。
なんにしても、難しいフィールドで競争することが人間、いや、生物にとっての淘汰であり、人間が生き物らしく生きるための「生存戦略」であると思います。
私は、きっと何者にもなれないということを、わかった気でいるのでしょうか?
何者かになりたいという欲求は、言い換えれば"生きている間に"他人から評価されたい、という邪心に近いプライド心の成せるわざかと。名前を残したいという気持ちがどこかに残っている。他人が評価もせず、自信も無いと、自慢に走るしかなくなる。
私は”無名の職人“という言葉が好きです。結果だけを残せばいいという健全なプライドが感じられるから。いい結果を残すことが、それを残した“何者か”の存在を示すことになる。”誰“でなくてもいい、それが、本来の何者かになることじゃないかと。
「何者にもなれない」と言ってると「はいはいワロスwwwww」
先行きの見えない30代フリーターが同じことを言ってると
「お、おう…がんばれ…」って感じですなぁ。
発している人のステータスによって印象が大分違います。
私も以前ブログやってましたが
文章や写真はコストがかからず手軽にはじめられる趣味だから、
今はネットで自分の文章や写真を公表できるからやってるだけで
何かになりたいどうたらは関係ないし、普通にそれが大半だと思いますが。
意外と40代〜50代の人のほうがこういうこと考えるんですかね。
私は20代ですが育児して、家庭を守って、節約して、
ダイエットして、不妊治療して、社会復帰する時のために資格の勉強をして、
やることいっぱいで自分が何者かとか
そんなことはホントどーでもいーです。