偽日記@はてな

2018-06-18

ロバート・アルトマンの『三人の女』をDVDで。77年の映画。『ロング・グッドバイ』とかもそうなのだが、七十年代の地味目のアルトマンの映画は空間的にとてもかっこいい。ここに既に、相米慎二黒沢清デイヴィッド・リンチもいる、という感じ。以下、ネタバレあり。

●三人の女というより、二人の女と一組の夫婦という感じで、群像劇ではなくミニマルな関係によって成立している話。二人の同じ名(ミルトレッド)を持つ女。一人はミリーと呼ばれ、もう一人はピンキーと呼ばれる。田舎から出てきたばかりのピンキーには(出身地も名も同じ)職場の先輩であるミリーが完璧な存在にみえ、強い憧れをもち、二人はルームシェアをするようになる。そしてピンキーはミリーにストーカー的に執着する。

一方、ミリーは、実はそんなに憧れられるような華々しい存在ではなく、現実を無理やりにでも自分の理想に従えさせないと気が済まないという性質であるらしく、そのために虚言癖があると言ってもよいくらいの見栄っ張りで、周囲の者たちから疎まれ、避けられている様子だ。ピンキーによるミリーへのあまりに強い憧れと、しかし実際にはかわいそうなくらいに周囲から軽く扱われるミリーの描写とのギャップが、映画のはじめから軽いノイズのような不穏さ(痛さ)としてあり、その歪みが次第におおきくなっていく。

元ルームメイトだった女友達がボーイフレンドを連れて部屋に遊びに来るというので、ミリーは張り切ってホームパーティの準備をする(張り切っている割には料理は粗雑なのだが)。その気合の入れように対し、準備を手伝うピンキーがあまりにドンくさいので、ミリーは苛立っている。そしてミリーは、いつものようにドタキャンされる(デートも平気でドタキャンされるなど、ミリーは本当に軽く扱われている)。ミリーはキレてピンキーに当り散らして気晴らしだと外へ出る。そして夜になって、アパートのオーナー夫婦の夫を部屋に連れ込む。それはよくないことだと言うピンキーを、ミリーは罵倒して部屋から追い出す。ショックを受けたピンキーは、アパートの二階から、中庭のプールへと飛び込み、意識不明になる。

三人目の女は、二人の住むアパートや二人のよく行く酒場を経営する夫婦の妻(ミリーが部屋に連れ込んだ男の妻)ウィリーで、彼女は無口でほとんど喋らず、性器がむき出しの爬虫類人間のような不気味な壁画を自分たちが所有する土地のあちこちに描いている。彼女は妊娠していてお腹がかなり大きい。プールに飛び込んだピンキーを発見して助けたのはウィリーだ(妊娠しているのに夜中に冷たいプールへ入る)。

罪の意識を感じたミリーはピンキーに対して従順になり、意識を取り戻したピンキーは記憶を一部失っていて、かつての呼び名である「ピンキー」と呼ばれることを嫌い、自分が憧れていた虚像としての「ミリー」であるかのように振る舞うようになる。オーナー夫婦の夫を部屋に連れ込むようになるし、ミリーが書いていた(そして自分が盗み読みしていた)日記のつづきを、まるで自分の日記のように書くようにもなる。つまりここで二人の関係が逆転する。ミリーは、手を尽くしてピンキーの両親を探し出してピンキーの意識が戻るまでアパートに滞在させるが、ピンキーはそんな年寄りたちは知らないと拒絶する(ピンキーの両親の描写の異様さはリンチ的だ)。ミリーは一生懸命にピンキー復職できるように職場に働きかけるが、かわいそうなくらい相手にされないし、その間にもピンキーは男を部屋に連れ込んでいる。

ピンキーは、自らの抑圧された欲望をミリーを鏡としてそこに映し出していたが、ミリーからの拒絶されることで、その像を自分という場に折り返して投影する(自ら「虚像としてのミリー」になる)。そしてミリーは、自分という場に投影しようとしていた理想像(虚像)をピンキーに譲り渡したかのように虚勢を張ることをやめ、ひたすらピンキーに尽くすシモベのようになる。しかしこれはたんに主従の入れ替えでしかなく、二者の関係は根本的に変わっていない。ここで効いてくるのが三人目の女であるウィリーだ。

ある夜、オーナーの男(夫)が二人の寝ている部屋に合い鍵を使って忍び込んでくる。驚き、男を罵倒するミリーに、男は「妻が出産しようとしている、自分は彼女には不要な人間だ」というようなことを言う。ミリーとピンキーの二人は車でオーナー宅のウィリーのもとへ駆けつける。子供は今にも生まれそうだ。ミリーはピンキーに急いで医者を呼んでくるように言い、自分はウィリーについて世話をする。しかしピンキーは離れた場所からその様を見ていて医者を呼びに行かない。ミリーがウィリーについてなんとか出産を果たすが、子供は冷たく、生きてはいない。ピンキーもこの様子をしっかりと見ている。この死産という出来事が三人の関係を変える。

おそらく男(夫)は、三人の女によって始末された。そして、ミリーとピンキーの関係はまるで母と娘のようなものになり、二人で酒場の経営を引き継ぐ。ピンキーはまるで子供のように振る舞い、オシャレだったミリーは野良着姿になる。ウィリーは、その死産という出来事によって、ミリーとピンキーの「母娘関係」を産みだした第三項のような存在として、二人と同居する。つまり、死産は、子供だけでなく子を出産する者としての母をも殺し(幽霊化し)、それによって空席となった母と子という二つの位置に、ミリーとピンキーが代入されたと言える。ウィリーは「死産する」ことによって母と子という二つの空欄をつくったと言え、「母の母(=祖母)」ではなく、「ミリーとピンキーの母子関係」そのものを出産した「母子関係の母」という位置についたのだと言える。

一方に、鏡像的、想像的な、二項的主従関係があり、もう一方に、関係の破綻しかけた夫婦という二項関係がある。夫婦は、出産によって父-母-子という三項関係になるはずだったが、そもそも夫婦の関係は破綻しており、かつ、ミリーとピンキーの関係も不安定だったこともあり、死産という出来事を媒介として、(男性=性的なものは排除され)「母」と「娘」と「母-娘関係の母」という三項関係へと変質したところで、この映画は終わる。

2018-06-17

●今日、雨は降っていない。緑。


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2018-06-16

マルクスガブリエル(『なぜ世界は存在しないのか』)は、対象領域のなかにあらわれる対象と、意味の場のなかであらわれる現象とを分けて考える(意味の場は、対象領域を含むより広い概念)。対象領域のなかで現れる対象は、検証可能である必要があり、間違っている可能性がある(より「正しい」ものに向かっての追求がありえる)。対して、意味の場にあらわれる現象は曖昧で、多義的でもあり得る。そして、そのどちらも「実在する」という(実在の定義は、「何らかの意味の場のなかに現象すること」である)。

たとえば、物理学という対象領域には「民主主義」は実在しないが、政治という対象領域においては実在するし、厳密に検証可能である(「厳密さ」のありようもまた、対象領域によって異なる、物理学と政治とでは、厳密さの意味が違う)。検証可能だというのは、あらゆる対象領域における対象は、それぞれの対象領域に見合った仕方で「存在論的還元」を行うことができるという意味だ。気のくるった人の妄想もまた、その人の心という意味の場に現象しているという意味では実在している。しかし、それは対象領域のなかの対象とは言えない。妄想の内容は、それ以上検証---存在論的還元---ができない(精神病理学という対象領域においては、その妄想は別のあり方で実在する対象と言えるし、存在論的還元も可能であるだろう)。

対象領域のなかにあらわれる対象について判断するには、その対象領域について精通している必要があるが、意味の場にあわらわれる現象についてはその限りではない。芸術作品については多様な解釈があり得るが、物理学的な対象にかんしては多様な解釈は許されない。

●このように、実在するものの「実在の仕方」は、それがあらわれる意味の場によってそれぞれ異なっており、フラットではない。故に、実在論であって唯名論ではない。個物がまずあるのではなく、個物(トークン)はタイプ(意味の場)に依存する。どのような対象(図)も、文脈(地)があってはじめて実在する。

たとえば、ある対象(個物)の同一性は、「絶対的な区別」(それ以外の、ほかのあらゆるものとの差異)によって成立するのではなく、ただ「相対的な区別」(その対象と、対照関係にあるほかのものとの差異)によって成立する。ライン川同一性は、この世界にあるライン川以外のすべてとの区別によって成り立つのではなく、地球上にあるほかの川との区別、あるいは、行政上でのほかの土地との区別など、さまざまな対照関係のなかの区別によって成り立っている。物理学的な対象としてライン川をみるならば、そこに同一性はない(水は流れ常に変化している)。対照関係(意味の場・文脈・タイプ)抜きに、「そのものそれ自体」はあり得ないことになる。

つまり、個物は個物それ自体として実在することはできず、意味の場に現れる現象(文脈上の意味、タイプのなかのトークン)として、はじめて実在する。故にトークンが実在すれば、タイプ(文脈・意味の場)そのものも、実在する。

(ここで、タイプ/トークンという言い方は便宜的なもので正確ではない。対象領域における対象とは、互いにはっきり区別された可算的な対象である。だからタイプとトークンと言える。しかし、現代の論理学の間違いは、そのような可算的な対象のみを「実在する」としていることにあり、あらゆる存在が、数学的に可算的な対象の集合というわけではない、と書かれている。それより広い実在の領域としての「意味の場」があるのだ、と。)

文脈(対象領域、意味の場、地)は、われわれ(の認識能力)が世界に対して付与するもの(連続的な世界をわれわれが分節化する)ではなく、それ自体として実在する。多義的だったり曖昧であったりしても、それはわれわれの解釈の問題ではなく、そのもののもつ性質である。世界そのものが、実在する無限にさまざまな文脈としてある。この部分が、カント的な構築主義とも、ポストモダン的な相対主義とも異なっているところだろうと思う。

ここに、メレオロギー的な合成の正しさという問題が出てくる。ある対象は、さらに多くの別の対象の合成によってできているが、しかし、どのような対象でも、ただ合成すれば新たな対象が生まれるというわけではない。世界が、無限に多様なさまざまな文脈としてあったとしても、すべてがフラット(同等)だというわけではないし、なんでもありという訳でもない。

存在論的還元(検証)が可能な対象(対象領域)があり、それが可能でない、経験としての現象(意味の場)がある、という違いがある。存在論的還元によってあきらかになる真/偽の違いもある。そして、間違った意味の場に自分を位置づけることもある(たとえば、心という意味の場に位置づけられるべき現象=妄想=経験の性質を、精神病理学という対象領域に位置づけて還元できたと思ったりする)。つまり、われわれは常に世界に対して(「真/偽」のレベルでの取り違えだったり、不適切な「意味の場」への位置づけだったりして)「間違っている」ことがあり得る。あらゆることがらが等価に相対的であるわけではない。われわれは間違うことができるし、検証を通じてそれを発見し、修正することもできる。

《(…)多くのひとには、あたかも自分のそとに世界があり、自分がある種の部屋や映画館にいて、そのなかで現実を眺めているかのように見えてしまいます。そこから「外界」という概念が生ずるわけです。しかし当然のことながら、わたしたちがいるのは現実のただなかです。ただ、現実のなかのどこに自分がいるのか、この現実全体は何なのか、どのような映画のなかに自分がいるのかといった点について、見当がつかないことが多いだけなのです。》

2018-06-15

huluでの配信が今日で終わってしまうというので、あわてて『ストレンジャー・ザン・パラダイス』を観た。気づいたのが午後十時過ぎだったので---十二時には観られなくなってしまうので---本当にギリギリという感じで観られた(『ダウン・バイ・ロー』までは観られなかった)。

ストレンジャー・ザン・パラダイス』は、革命的な映画だといえて、ジム・ジャームッシュという映画作家はこの作品があってこそ存在しているといえるのだけど、今、この映画を観るとき、どうしても「懐かしさ」という感情と切り離して観ることができない(充分に面白いし、改めて、奇跡的に成立している映画だとは感じるのだが)。このことは、ゴダールの『勝手にしやがれ』を今観ると、ちょっとびっくりするくらい普通にみえてしまうのだけど、それは、われわれが普段から普通に観ている様々な映像に、ゴダールの影響がそれと分からないくらい自然に既に浸透してしまっているからだという事実と、少し似ている。これらの映画から、公開時にそれをリアルタイムで観たときと同等の衝撃や驚き、違和感といったものを感じることはできなくなっている。そのような意味で既に歴史的な作品というべきかもしれない。

●それにしても『パターソン』はすばらしかった。観てから数日たって、じわじわと、ジャームッシュの映画のなかで一番良いのではないかという気持ちが湧いてきている。

もし君がぼくの元を去ったら、ぼくは心をずたずたに引き裂いて、二度と元に戻さないだろう、とパターソンがノートに書きつける時、そこで呼びかけられる「君」とは、実際に彼の奥さんである女性であるというより(もちろん、そういう意味もあるが)、彼の書いている言葉たちであり、それが書き付けられたノートそのもののことであるだろう。これはわかりやすい「フラグ」でもあり、ノートはその後、実際にずたずたに切り裂かれてしまう。

これによってパターソンは、バーで会う、恋人を失った(ふられた)男と同等の深い悲劇のなかに陥ることになる。彼は実生活ではパートナーを失ってなどいないが、ヴァーチァルな次元でかけがえのない「君」を失う。このことでバーの男と同じ位置にたつのだ。パターソンにとってこれは自分を見失うほどに大きな危機であり、バーの男と同じように、とりみだして騒ぎを起こしてしまいかねないくらい彼は動揺している。しかし、それを実生活の次元でどう処理(あるいは表現)したらよいのか分からない。

そして、(アクチュアルな次元で)バーの男がパターソンにとりなされたのと同じく、(バーチャルな次元で)パターソンは永瀬正敏にとりなされることで、なんとか平静をとりもどすことができる。

ヴァーチャルな次元で「君」を失ったパターソンをとりなすことは、アクチュアルな次元での彼のパートナーである奥さんでは無理で、バーチャルな次元で彼と交流し得る、(大阪から来てたまたま出会った、見ず知らずの)詩を書く永瀬正敏でなければならない。実生活ではきわめて近く親しい位置にいる妻だが、バーチャルな次元では見ず知らずの永瀬正敏の方が「近く」にいるのだ。これは、彼が妻と十分に分かり合って(愛し合って)いないということではなく、愛の次元が異なっているということだ。

(パターソンの奥さんもまた、彼女独自の---モノクロームな----バーチャルな次元の生の流れがあり、パターソンは、それを受け入れてはいるが、その次元での彼女を深く理解しているというわけではないだろう。)

●『パターソン』では、アクチュアルな次元とバーチャルな次元は双子のように現れている。彼の奥さんの表現する白と黒の対や双子の夢、冒頭ちかくでブルドックが実物と絵との両方で示されているなど、いたるところにその徴候はある。そしてこの映画でバーチャルな次元での出来事が際立つのは、なにより、アクチュアルな次元の実生活描写がすばらしいからだ。

2018-06-14

●昨日の日記にも書いたが、『パターソン』(ジム・ジャームッシュ)で重要なのは、パターソンの二つの生の流れ(バスの運転手であり、妻と二人で暮らす生活と、詩を書くということ)が、絡み合いながらも、分離しているというところにある。

自分の住む土地と同じ名前である(つまりnobodyである)詩人にとって、詩を書くことは、生活からも、彼自身の内省からも自律している。発表を前提とせずに秘密のノートに書かれる詩はきわめて内密的であるが、その内密性は彼のプライベートな生活とは別にあり、書くことそのものが彼の別の生の流れを形づくる。

ナレーションによって語られる映画というものがあり(たとえば『アブラハム渓谷』や『そして僕は恋をする』)、登場人物が手紙を書くことが特徴的な映画があり(たとえば『アデルの恋の物語』や『エル・スール』)、あるいは、ゴダールの登場人物のようにノートに文字をやたらと書きつける映画がある。ナレーションのテキストは画面内の出来事に対してメタ的な位置にある。手紙は、画面内の人物と同時的であり、内容が極度に内省的であるが、「誰か」に宛てて書かれるテキストである。そして、ゴダールの映画でノートやいろいろな平面に書かれる文字はいわばハイパーテキストであり、デモンストレーションであるので、はじめから内密性をもっていない。

『パターソン』においてテキストは、それらの映画とはまったく異なる位置をもつ。パターソンの書く詩は、登場人物であるパターソンが現在書きつつある(考えつつある)ものであり、登場人物による事後的な語りではない。つまり、画面のなかでパターソンが今、歩いている、今、妻の肩に唇が触れている、のと同様に、その言葉は、今、書かれている(今、考えられている)。しかしそれは「手紙」とは異なり、誰かに向けられているものでもなく、生活描写でもない。詩が、テーブルの上に置かれたマッチ箱から着想されたとしても、それはマッチ箱がテーブルの上に置かれている部屋に住む彼の生活を表現したものではなく、そこから、詩として独自の展開をみせ、それが独自の、もう一つの生の線をつくりだす。

一方に生活の流れがあり、もう一方に、詩が生成されていく流れがある。彼の生活が、誰かに見られるためにあるのではないのと同様に、匿名的な詩人である彼の書く詩もまた、誰かに読まれるためにあるのではない。二つの生は、一人の人物において並行的に生きられ、映画はそれを、並行的に示している。

生活のレベルで、彼は妻やブルドックと共に暮らし、職場の仲間や酒場で会う人物たちと関係する。一方、詩を書くというレベルでは、過去のさまざまな詩人たちと関係し、十歳くらいの少女や大阪から来た永瀬正敏と偶然出会って、そこに交流が発生する。

ここで、書くことはあきらかにヴァーチャルな次元にある。この映画において重要なのは、映像(+音声)とテキストとの関係ではなく、アクチュアルな次元での(開示的な)生活と、ヴァーチャルな次元での(内密的な)書くこととの関係であろう。これはとても特異的なことであり、このようなあり方の映画を、ぼくは他に思い出すことができない。

もちろんこれは映画だから、ここで描かれる「生活」もまたヴァーチャルなものだ。昨日も書いたが、こんな風な感じで生活している夫婦など実際にはこの世界に一組もいないとしても、ヴァーチャルな次元において、この生活は非常にリアルである。