偽日記@はてな

2016-08-24

●お知らせ。勁草書房ウェブサイト「けいそうビブリオフィル」で連載している「虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察」の第七回、「仮想現実フィクション 『ソードアート・オンライン』『電脳コイル』『ロボティクス・ノーツ』(2)」が公開されています。前回からのつづきで、今回は主に『ロボティクス・ノーツ』について書いています。

http://keisobiblio.com/author/furuyatoshihiro/

ここでは、虚構没入型(『ソードアート・オンライン』のヘッドマウントディスプレイ)、虚実一体型(『電脳コイル』の電脳メガネ)、多重フレーム型(『ロボティクス・ノーツ』のポケコン)という、VRのデバイスの形式の違いが、物語のあり様とどのように絡み合っているのかについてみています。

技術的に考えれば、虚構没入型の『ソードアート・オンライン』のような形が究極のVRの形で、『ロボティクス・ノーツ』のVR(AR)のデバイスとしてのポケコンは、現在既に可能な技術からそんなに遠くないし(いや、むしろ後退している?)、やっていることもポケモンGOとそんなに変わらないという程度のものと言えるでしょう。しかし、フィクションについて、あるいは、フィクションと現実との関係について考える時には、多重フレーム型のポケコンこそが最も興味深い形だと考えます。

(『ロボティクス・ノーツ』に出てくるポケコンというデバイスは、大型のスマホ、あるいは小型のタブレットPCのようなものです。スマホと違うのは、フォーマットが横長で固定されているところでしょうか。その点も含め、デザイン的にちょっと古い感じはします。)

以下、本文から一部を引用します。

《『ソードアート・オンライン』の世界にあるHMDは、完全に別世界である虚構世界への没入を可能にし、『電脳コイル』の電脳メガネは、現実と虚構とが同一平面として混じり合う世界を出現させますが、どちらも、デバイスを用いることで、身体がある一つの世界へと入って行くことになります。勿論、その世界は決して単層的な世界ではありません。『ソードアート・オンライン』の「ALO」というゲームには、古層としての「SAO」というゲームが埋め込まれていました。『電脳コイル』では、現実と仮想、新しい仮想と古い仮想、古い開かれた仮想と古い閉じられた仮想というように、世界はいくつもの層の重なりでした。HMDや電脳メガネは、それらのすべての層を貫いて、「一つの多層的世界」を出現させるためのデバイスと言えます。

しかしポケコンは違います。ポケコンという「一つのデバイス」が、世界を複数の層や、複数の目的・機能へと分岐させてゆくのです。世界のさまざまな層や目的が、ポケコンの上で重なりながら、それぞれ別の方向へと分かれてゆきます。海翔(かいと)もあき穂もポケコンを使いますが、ポケコンでゲームをする海翔と、ポケコンアニメを観るあき穂とでは、ポケコンを用いる目的、ポケコンから得られる利得、ポケコンの生活への影響、ポケコンに対して行われる働きかけなどが、それぞれ異なるのです。》

ポケコンはたんなる「画面」であり、身体はそのなかには入っていけません。しかしだからこそ、現実世界で使えるツール(メールやSNSができる)であり、虚構世界へアクセスする窓(オンラインゲームをしたり、アニメやテレビを観たりできる)であり、そして、現実と虚構とを重ね合わせる媒介装置でもある(ジオタグや3DマッチムーブなどARの機能がある)のです。一つのデバイスの上に、世界の複数の層(現実/虚構/現実+虚構)が交錯することで、それに関わる身体にとっての世界を多平面的に分岐させてゆきます。それは、『ソードアート・オンライン』や『電脳コイル』のように、層を重ねることで世界の深さをつくるのではなく、世界を、いくつもの並行世界へと分岐させつつ、複数の並行世界がその都度クロスする場面としての「この世界」を、複数の並行身体がその都度クロスする場としての「この身体」を出現させるでしょう。

●夏は、もうすぐ終わってしまうのだなあ。



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2016-08-23

池田剛介さんのテキスト、すごく面白い。「グローバル時代に「作品」は可能か?(下)」

https://madcity.jp/note10_ikeda/

●確かに、赤瀬川原平の「千円札」はプロトタイプだと言えるし、「宇宙の罐詰」は、掌にのるような小さなオブジェクトによって宇宙全体の内と外とを反転させる、いわばボルヘス的な作品だろう。それは、小さくて、輪郭が閉じているからこそ、トポロジカルな反転が可能になる。そして、赤瀬川原平の「反芸術」の数々が、裁判所に持ち込まれることで「芸術」へと反転し、その反転が法廷という場を別様なものへと変容させる、という議論はとても刺激的だ。ここでもやはり、トポロジーが重要になってくるのか。

《これらのモノたちは、法と芸術という区別を能動的に破壊することで、法の場を変容させるのではない。むしろ法的なプロセスに則りながら(いわば法の「輪郭」に相即するしかたで)、あくまでも裁判内の証拠品として運び込まれ、証拠品としての役割を徹底することを通じて法廷の場を変容させてしまう、そうした方法であった。それは例えるならば、靴下の表と裏をひっくりがえす(inside-out)ような方法であり、単にアウトロー(法外)であることとは似て非なる、インサイドアウトロー(法のひっくり返し)とでもいうべきものでしょう。法と芸術を「区別ある」ものとしながら、むしろ徹底して法のルールを受け入れることによって、法の場に「インサイドアウトな変革」をもたらすこと。》

●このテキストを読みながらマイケル・フリード議論を思い出していた(「芸術と客体性」)。フリードは、(モダニズム的な)良い「作品」は閉じてなければならない、観者への効果が意識されていてはならないということを言う。作品を観るということは、ある行為に没入していて、こちらの視線に気づいていない人の行為を観るようなことで、演劇のように、観客の存在を意識して演技されているものを観ることではない、と。要するに、作品は閉ざされていて、(観者に対してあるのではなく)それ自身として自律した生を生きているようにあるのでなければならない、ということだろう。モダニズムの作品から強く影響を受けている者からすると、感覚的にフリードの言いたいことはすごくよく分かる。でも、では何故「〜でなければならない」と言えるのか、という部分は弱い。観者と直接対面するような作品は、作品の構造があらかじめ(事前に想定される)観者との関係性を組み込んでしまっていて、それに規定されてしまうから駄目で、対して閉じられた作品と観者との関係は事後的にのみ成立し、未だ決定されておらず、その関係は未来に対して開かれている、と。作品が閉ざされてあるからこそ、観者は、作品に対して観者として自律した介入が可能になるのだ(つまり、お互いに閉じているからこそ、場の空気を読んだコミュニケーションではなく、一対一の出会いがあり得る、と)、ということで、これもまた、感覚的にはすごくよく分かるのだけど、理論的にびしっと示すことができているとは言えないと思う。だから、「そんなのはモダニズムの慣習でしかないでしょ」と言われれば返す言葉はない。実際、フリードは、それがモダニズムの「約定」なのだと言ってしまっている。

池田さんが「物化」と言っているような地点から考え直すと、このフリードの議論モダニズムという文脈を外した上で再検討することも出来るのではないか、と(これは、ハーマンの「代替因果」という話とも近いと思う)。

わたしたちはすでに「魚の楽しみ」をめぐる議論において、他なる存在からの触発によって「わたし」の輪郭が変容しうるヴィジョンを荘子に見てきました。「わたし」と「魚」の世界には区別がある。しかし具体的な配置の中で魚との「近さ」の関係に入ることによって「魚の楽しみ」へと開かれうる。互いに閉じられた区別ある世界の只中で、他なる存在との近さを通じた触発によって「わたし」の同一性が揺らぎながら変容へと開かれること。物化とはつまり、「個別・個体性」の論理と「変容」の論理とを結びつける概念として理解することができるでしょう。》

2016-08-22

台風のあとの川



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2016-08-21

●虹がでていた。



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2016-08-20

●「ポコラヂ」というインターネットラジオアーカイブ映像を観た。話されている内容が面白いというのも勿論あるのだけど、何より、この「カメラに対する態度」に衝撃を受けた。こういうカメラへの態度もアリなんだな、という驚き。こういう映像は他では観たことがないように思う。

https://www.youtube.com/watch?v=aRlsfMJXmmA

まあ、考えてみれば、普通にラジオ放送をしているスタジオの隅に無造作にカメラを置けばこうなる、ということかもしれない。ただ、そうだとしても、このスタジオ全体に流れているサロンっぽい雰囲気は独自な感じだし、いい感じ。

http://fnmnl.tv/2016/08/16/6446?articleview=more

●原稿書いていた。三週間に一度締切がやってくるのはけっこう大変。大変だけどとても楽しい。でも、やっぱり大変。締め切り前の週末は他のことがまったく出来ない。