偽日記@はてな

2017-01-21

山本現代に「Malformed Objects」を観に行った。

http://www.yamamotogendai.org/japanese/exhibitions

初日に行ったのは、なによりキュレーターの上妻世海によるステイトメントが(直接的にこの展覧会のステイトメントではないようだけど、展示がはじまる直前に発表されたのだから関係は深いはず)すごくクールで驚いたから。

「消費から参加へ、そして制作へ」(エクリ)

http://ekrits.jp/2017/01/2243/

《僕の考える現代社会の特徴は「情報空間」と「物理空間」の境目が曖昧になったというよりも、むしろ「情報空間」と「物理空間」が入れ子状にフィードバックループを形成しながら相互生成することで、「現実空間」を仮設的に瞬間的に構築している点にある。僕たちは事後的に「情報空間」と「物理空間」を区別するが、実際は持続する一つの「現実空間」を経験している。》

《僕たちは「現実空間」を、ユークリッド幾何学で記述されるような客観的かつ数量的なものとは考えていないし、主体心理的体験空間であるとも考えていない。「現実空間」は「情報空間」の部分的かつ瞬間的な現勢化であり、現勢化するや否や未だ現実化していない問題提起的な潜在的「情報空間」として再度問い返される。「物理空間」は即座に「情報空間」の素材として可変的かつ流動的な課題へと変化する。そしてまた、僕たちは「情報空間」を別の仕方で「物理空間」へ転用しようとする。そのループの中で、僕たちは仮設的な「現実空間」を体験している。》

《上記の構造上の変化を、人々が各々に都合の良い虚構を生きるようになったとして非難することは容易であるし、「ポスト真実」の時代と名付けることもできるだろう。しかし「複数の虚構と実在性」という図式は、そもそも「近代社会システム」が格差を隠蔽することで共有されている一つの虚構に過ぎないことを浮き彫りにもしている。近代社会システムは、「自由」という理念労働力を売り渡すという自由すら内包することで、資本家労働者という主従関係を隠蔽し、利己的な主体功利主義的に利害計算することで、社会が調和するという神話によって保たれていたのだから。》

●このような状況認識の上で、「制作」というものが次のように考えられている。

《僕たちは、この不可逆な時代の変化を「透明なコミュニケーションによる共同主観的共同体の再建」という課題で捉えるのではなく、素朴に「差異を肯定」するのでもなく、各々の虚構を継続可能な仕方で制作しつづけることにしよう。現代の環境を考慮した上で、別の仕方で規範性を、継続可能性を、安定性を制作するという課題に挑戦しよう。他者が用意した虚構を消費することでも、そこに参加することでもなく、各々が制作することにしよう。そのために必要な武器は揃っている。》

《もちろん「観察から制作へ」という枠組みで世界を捉えていたのは、今日生きる僕たちだけではない。いつの時代であっても科学者にとっての「物理空間」は、リテラルなモノが敷き詰められた場としてだけでなく、様々な複合的な謎に満ち満ちた場として立ち現れているし、工学者にとっての新たな技術は、便利で快適な新しい「商品」としてだけでなく、次なる課題や目的を生み出す「プロトタイプ」として見えるだろう。また美術家にとっての他者の傑作は、ただ美しいだけでなく、次なる挑戦を突きつけるものとして現前している。つまり、彼らにとって現前しているものは〈今ここ〉にあるだけでなく、謎やプロトタイプや課題として即座に過去と未来へ折り返されている。》

《人類は初めから今の形で自動車を知っていたわけではない。そのようなイデアは存在しなかった。幾何学物理学、工学、化学、車輪、蒸気機関の発明が、それぞれの潜在的な課題を湛え、それらが出会い、結合することで、蒸気自動車を生み出したのである。さらに、蒸気自動車のもつ魅惑がガソリンエンジンを、その熱を冷ますための冷却技術を、高度な計算が可能なコンピュータや計測装置がより空気抵抗の少ないクールなフォルムを、そしてそれらのモノとモノの結合が、現在の自動車を生み出した。そして、今も自動車は、あるいは自動車を構成する各々のモノたちは、制作者たちを魅惑し、課題を湛え、様々な周辺的な技術と結合しながら、異なる仕方で変容しているに違いないのだ。》

《過去の枠組みで世界を額面通りに認識し、今にも溢れ出しそうな余剰を抑圧しようとする人々はまだ存在するし、これからも存在しつづけるだろう。僕たちは彼らとも協働していけばいいのであって、彼らを敵だと思う必要はない。僕たちは新しく始まったばかりのこの世界で、これからの芸術について思考し、対話し、実践していこうと思う。世界を止めるのではなく動かそう。》

●ここで特に、《各々の虚構を継続可能な仕方で制作しつづけることにしよう》と、《別の仕方で規範性を、継続可能性を、安定性を制作するという課題に挑戦しよう》という二つのことが重要であるように思われる。一人一人が別々の「現実」を生きていることを認めた上で、可能な様々な共同性の制作が試されなければならない。あらかじめ「自動車」というイデアが存在しなかったのと同様に、そのような共同性の理念も事前には存在しない。何と何と何とが組み合わせられた時に、どんな効果が生まれる、あるいはどんな問題が生まれるのかは事前には分からないし、テクノロジーや環境変化によって世界の条件にどのような変化が起こるのかも事前には分からない。だから、敵も味方も(事前には)存在しない。

そして、何か新しいものが生まれた時、それが真に新しいものであるなら、それが本当に新しいか新しくないかを、リアルタイムで正確に知ることは出来ない(新しさは事後的にしか分からない)。本当に新しいものは、未だ誰もその新しいものの「新しさ」を知らないのだから。その「新しさ」は、《過去の枠組みで世界を額面通りに認識》する人によって、既に過去にあった何かとしてカテゴライズされるだろう。だからその時、直観的に「これは新しいのだ」と言う人がいなければならない。その直観は、当たるかもしれないし外れるかもしれない。そのリスクを背負ってでも「これは新しいのだ」と言う必要がある。そうしなければ、せっかく生まれた新しさは、気付かれないまま、その可能性を充分に試されるより前に消えて(なかったことにされて)しまうかもしれないから。制作するとは、そのような新しさを出現させるべく努力することだろう。そして、そこで間違うリスクを背負って「これは新しいのだ」と言うのがキュレーターの役割だと、おそらく上妻世海は思っているのだろう。

(そして、このテキストを読んでぼくは、このようなテキストを書く人の「直観」ならば、信じる方に賭けることに値するのではないか、と感じた、ということ。)

●この展覧会には「指示書」があるのだけど、初日だったので行ったときにはまだ出来てなくて、ぼくが指示書を手に入れたのは盛況だったオープニングの最中だったので、指示書の通りの行動は出来ていないので、この展覧会に関してぼくはまだ「制作者」ではなく「観察者」であるにすぎません(「制作者」になるためにもう一度行きます)。

●その限りでの感想なのだが、ぼくには、大和田俊、池田剛介、永田康祐、篠崎裕美子の作品に関心を惹かれた。特に、篠崎裕美子の陶器(多分)の作品(「不滅ポルノ」)は、上妻世海のテキストの(たんなる図示ではなく)物的証拠のようなものとしてあるように思われた。

●オープニングパーティの盛況ぶりとリア充感がすごかった。「上妻世海来てる」感。おそらく人として似たところがあるのだと思われる(アグレッシブというか、喧嘩っ早いというか)上妻さんと清水高志さんが二十歳以上の年齢差を越えて意気投合している様は、まさに胸が熱くなる展開、という感じ。

(以前、中沢新一読書会でご一緒していた石倉敏明さんに、まさか「ここで」お会いするとは思わなかった。清水さんのツイッター友達が大阪名古屋から日帰りで来ていたり、そういう不思議なこともいろいろあった。)

2017-01-20

●『ヘリコプターマネー』(井上智洋)を読んだ。

井上さんとはじめてお会いしたのは五年くらい前、西川アサキさんとのトークイベントの打ち上げの時で、とても印象に残っているのだけど、西川さんは井上さんのことを「この人は世界を救う理論を持っている人だ」と言って紹介した。その後、信用創造の権利を銀行から剥奪して貨幣発行益をベーシックインカムとして国民に配当する、という論文を読んで、なるほど、このことかと思った。

でも、この前に出た「 人工知能経済の未来」にはこの話がまったく出てきてなくて、あの話は何か問題があって引っ込めてしまったのだろうかと疑問に思っていたのだけど、『ヘリコプターマネー』では、まさにそのことが、前に読んだ論文よりももっと広範囲な根拠を示すことで増強された形で提示されていた。入門書的に描かれているけど、これはガチな本ではないか(AIとBIに加えてCIが登場する)。

(あるいはこの話はあまりに危険だから---銀行の利権関係者から暗殺されかねない---大々的に出すことに慎重になっているのか、とも思っていたけど、けっこう無防備に出してきた。)

井上さんの話は、マクロ経済学知識のない人(ぼくもないですが)には、まったく常識外れでリアリティがないように聞こえるかもしれないけど、『ヘリコプターマネー』は、かなり分かりやすく、そして論理的に描かれているので、ロジックをきちんと追って読めば、そんなに突飛な話ではないと感じるはずだと思う。というか、世界の見方が革命的に変わると思う。

(「信用創造とは何か」という初歩的なことから説明されているので、この本を読むのに必要なのは、知識ではなく、論理をきちんと追ってゆく姿勢だと思う。)

勿論、理論があるだけでは何も変わらない。マクロ経済学は、国家規模の経済制御に関する理論だから、それを知っても個人にできることはない(選挙時の投票に多少影響したりはする)。ぼくは、今の日本を不幸にしているのは様々な「常識」だと感じていて、常識の根深さにかなりうんざりしているのだけど、しかし(これは、良くも悪くも、だけど)頑丈そうに見えた「常識」も、何かきっかけがあるとあっさり捨て去られてしまうこともある(トランプが大統領になってしまったりするのだから、負ではない方向で、そういうことが起こらないとは言えない)。こういう本が多くの人に読まれることが、常識が変わることの下地をつくる可能性もあると思う。

井上さんは、専門家たちとの議論を通じて理論を検証したり深めたりする一方、政治家とか官僚とかと具体的な接触をもったりするのだろうけど(ぼくには想像もつかない世界だけど)、くれぐれも、利権関係者から殺されたり、妙な不祥事を捏造されて追放されたりすることのないよう気を付けて、「世界を救う理論」を現実のものとするために活躍されることを期待しています。

《無からお金を作り出すという意味では、政府が紙幣を発行しようが銀行が信用創造しようが同じである。それなのに、政府が自らお金を作り出す権限を放棄しているがために、わざわざ銀行から借金をしなければならず、これまでに膨大な利子を支払ってきたのである。

こんなバカバカしい話があるだろうか。銀行への利払いは国民の増税によってまかなわれるわけだが、銀行をタダで儲けさせるために、なにゆえ国民がそんな負担を強いられなければならないのだろうか。》

貨幣発行益のすべてを国民に還元するには、民間銀行による信用創造を廃止しなければならない。ダグラスはまさに民間銀行の信用創造を廃止し、貨幣発行益のすべてを国民に配当するように提言している。》

2017-01-19

●おお、芥川賞、山下さんだ。おめでとうございます。

受賞作ではないですが、去年「文學界」11月号に書いた『壁抜けの谷』の書評(「わたし」と「あなた」と「ここ」と「そこ」)をnoteにアップしました。受賞作『しんせかい』の書評は、今出ている「新潮」2月号に載っています。

https://note.mu/furuyatoshihiro/n/nb09857a6ce91

●先週いろいろ忙しくて中断していた『有限性の後で』の第三章をようやく読み終わった。メイヤスーは本当にねちねちと論理を重ねる(この過程が本当にビリビリ痺れる)ことで、即自的なもの(もの自体)は、まちがいなく存在し、そしてそれは「非理由律」と「無矛盾律」に従っているという結論に辿り着く。あらゆる存在者に理由はない(必然的存在者は存在しない)が、そんな何でもありの即自的世界も矛盾は許容しない、と。矛盾を許容しないからこそ、数学によって即自を思考することができる、と。それを証明することでようやく、偶然(別様である可能性)を確保できる。

(たとえば、量子論的な重ね合わせは、世界が矛盾を許容しているようにもみえる。しかし、量子論数学的には何の矛盾もないのだから、それは即自における矛盾ではなく、ただ〈私たちにとって〉の矛盾であるだけだ、ということになる。)

すべてが予め決まっているという単線決定論でもなく、すべての可能性が存在するという多世界解釈でもなく、非理由律と無矛盾律に従う即自という世界像でのみ、偶然(別様である可能性)が生じる。すべてが決定しているならそれ以外ありえないし、すべての可能性が既にあるのなら、他のものに変わり様がない。そして、科学的な世界の描像は、究極的にはそのどちらかに収束するしかない。そこで哲学が、理屈に理屈をぐちぐちと重ねて、(科学を受け入れた上で)なんとか「可能性」の可能性のある世界像をひねりだす。この思弁が何の役に立つのかといえば、おそらく何の役にも立たない(この本では社会は良くならない)。でも、すごく勇気づけられる。

(思弁的実在論がこの本からはじまっているというのも納得できるような、何かを必死で切り開いていこうとする力に満ちた本だと思う。まだ四章と五章が残っているけど。)

●追記。お知らせ。明日、1月20日の東京新聞夕刊に、東京国立近代美術館でやっている「endless山田正亮絵画」についての美術評が掲載されます。

2017-01-18

●お知らせ。けいそうビブリオフィルで連載している「虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察」の第14回、「量子論的な多宇宙感覚/『涼宮ハルヒの消失』『ゼーガペイン』『シュタインズゲート』(4)」」が公開されています。

http://keisobiblio.com/2017/01/18/furuya14/

以下、本文から引用します。

《『シュタインズゲート』の基本的な世界観は、(1)で書いたエヴェレットの多世界解釈にとても近いと解釈することも可能なものです。様々に異なる世界(現実)が無数にあるということもできます。しかし物語中にエヴェレットという名前は一度も出てきません。タイトルからもわかるように、意識されているのはアインシュタインです(つまり、古典物理学です)。世界が無数に分岐していることを示す「世界線」という言葉も相対性理論からとられていると考えられます(ただし、そうだとすると用法が間違っているのですが)。この物語の無数に枝分かれする「世界線」という概念は、タイムパラドクスを解消するためのアイデアとして考えられたもので、量子力学から導かれたものではないようです。》

《『シュタインズゲート』は、第一にはタイムマシンの物語です。タイムマシンによって過去の分岐点に介入することで「世界線」が移動し、今ここがいきなりがらっと変わってしまう、というのが物語の主な展開です。しかしその世界の変化(による落差)を知ることができるのは、主人公の岡部だけです。「世界線」が移動すると、過去の分岐点から未来に渡ってすべての現実が変化するのですから、その世界内の人にとって齟齬はないはずなので、それは当然です。岡部だけが変化前と変化後の両方の記憶をもつということは、彼(の記憶)だけが前の「世界線」から今の「世界線」へと移動してきたとも考えられます。ここで「世界線の移動」という出来事によって、世界そのものが変わったのか、主人公の「わたし(視点)」の位置が移動したのかという点については両義的です(この点は後で詳しくみていきます)。》

《主人公の岡部は、東京電気大学に通う普通の学生ですが、中二病であり、自分は狂気のマッドサイエンティストで(「狂気」と「マッド」が被っていますが)、世界の支配構造を変革するために世界を裏から支配する「機関」と闘っているという「設定」を演じています(常に白衣を着ています)。これは、何不自由のない大学生の呑気な妄想(遊技)に過ぎませんが、この遊技がそのまま現実となり、彼は、CERNという「未来の世界」を支配する機関と闘い、未来の世界を変えることになるのです。妄想と現実がシームレスにつながるのです。(…)しかしこの「革命」とは、過去に遡って分岐点で方向を変えるということなので、世界の内部では何事も起こらず、革命があったことを(CERN支配するディストピア第三次世界大戦が避けられたことを)知っているのは、岡部とその周辺の人物だけなのです。》

《私たち(観客)は、この物語をただ岡部の視点からのみ経験します。「世界線」を移動してもなお、それ以前と連続した記憶を保ちつづけられるという岡部の能力(この能力は中二病的にリーディングシュタイナーと名付けられています)がなければ、過去への介入によって世界がいきなりがらりと変わるという、この「物語」そのものが構成されないからです。つまりこの物語は、主人公である岡部の主観上に構成される物語なのだと言えます。そうである以上、「世界線の移動」という出来事が、現実そのものが移動したのか、岡部の記憶と意識が移動したのか、どちらか決定することはできないはずです。前者であれば現実は一つですが、後者であれば現実が一つだとは言い切れません。あらゆる「世界線」は現実であり、生きて、動いているかもしれません。》

《しかし、背景にある無数の多世界を認めてしまえば、つまりあらゆる可能性が同時に実在するとなれば、物語が成り立たないし、そもそもそれ以前に、あらかじめすべてがあるのなら、「何かをする」ということの意味もまた消えてしまします。これはこれで、単線決定論とは別の意味で「出口なし」になります。しかし仮に、あらゆる可能性が実在するのだとしても、「わたし」はそのうちの限定されたどこかにいるしかなく、その位置からの限定された視点しか持つことができません。『シュタインズゲート』という物語を可能にする主人公岡部は、無限にとりとめのない「地」としての世界から、いくつかの部分を切り出してきて縫い合わせることで、「図」としての物語(認識可能な世界)を紡ぎ出すための、一つの限定的な視点であると言えます。》

《ここで「重ね合わせ状態/固有状態」という不連続を表すスラッシュの位置に観測者がいます。つまり、重ね合わせの量子状態と決定論的古典状態の間にある「非決定論的出来事」を引き出すためには「観測者」が必要なのです。》

2017-01-17

●久しぶりにリアル書店に行ったのだけど、リアル書店は恐ろしいところだ。なかをぶらぶら歩いているだけなのに、一万円を超えるお金が消えている。

●「現代思想」のビットコインとブロックチェーン特集はまだ出ていなかった。この前、西川アサキさんにお会いした時、200枚書いたのに100枚分しか載せてもらえなかったと言っていた。10+1には理念だけ書いた、と。「ブロックチェーン」とレボリューション──分散が「革命」でありうる条件とはなんですか?

http://10plus1.jp/monthly/2017/01/issue-10.php

●買った本。



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