偽日記@はてな

2017-02-19

●「現代思想」のビットコインとブロックチェーン特集の対談で、斉藤賢爾という人がブルース・スターリングの「招き猫」という短編小説を紹介しているけど、これって、「ガッチャマンクラウズ」の元ネタの一つっぽい気がする。

《これは近未来の日本を舞台にしているのですが、「招き猫」はコミュニティの名前で、コミュニティの仲間であることを示すのが招き猫のポーズなのです。これは一九九七年に発表された作品で、当時はスマホがまだなかったのですが、作品の中では似たようなものが「ポケコン」と呼ばれています。そのコミュニティではポケコンから人間に指示が常に飛んできて、貨幣経済とは共存しているのですが、独自の経済をつくっています。例えば、スターバックスに行ってコーヒーを頼んだら、ポケコンから「同じものをもう一杯買え」と言われます。それで了承して、貨幣を用いてもう一杯買って、家に向かって歩いていくと、ベンチに座っているやつれたビジネスマンがいて、「この人に渡せばいいの?」とポケコンに聞くと、「そうです」と言われてコーヒーを渡します。すると、見ず知らずのその人が「あなた誰?」と驚きつつも、コーヒーを飲んだら「これは私の好きなコーヒーだ。ありがとう!」となるのです。ネットワークが裏で勝手に調整してくれていて、シェアリングエコノミーの極みみたいなことが起こります。この小説のなかでは「ネットワーク贈答経済」と呼ばれていますが、つまるところ贈与経済ですね。この世界では、ネットワーク化された人工知能が働いていて、その人が欲しいと思っているものを検出して、マッチングしてくれ、ひっきりなしに人助けをしないといけないのですが、人助けをしていると気分がよいのであまり気にならず、それにより皆が助けられています。これによって貨幣経済は縮小するのです。それでアメリカが怒りに来ます(笑)。アメリカ経済エージェントが怒りに来て、「あなたたちのやっていることは脱税だ」と。政府が認める規則経済を弱体化する悪党どもとして怒られるという話です。》

●そして、対談の相手である中山智香子の発言。

《不当な権力が支配権を握っている状況を覆すための戦略に関して、アメリカ政治学者のジーン・シャープが一九八個の具体的な方法をまとめた著作(…)がありますが、最後の項目が「二重統治や並行政府を打ち立てる」でした。これを見たときには、「いやいや、そんなことはなかなかできないでしょう!」と疑念を持ったのですが、実はデジタル貨幣がそれなりの規模で機能すれば、意外とあっさりそれに類する状態ができてしまうのではないかと思います。特に二重統治や別の政府、別の銀行などを名乗らなくても、実体(実態?)としてできてしまう。昨今、既存の政治システムのなかの一員としては、三権分立の原則はどうなってしまったのかなど日々怒りと絶望にさいなまれている現実があるのですが、他方でそういう意識を必ずしも持っているとは限らない人びとが、既存の権力を出しぬいてしまうのは驚きですね。》

●しかし、そのような別の銀行、別の経済が、ある程度成功し、ある程度以上の影響力をもつようになると、それにより国の定めた貨幣経済がその分縮小する(課税もできない)ので、国の利益とぶつかり、国と闘わなくてはならなくなる。国が、《あなたたちのやっていることは脱税だ》と怒りに来る。それは違法だ、として禁止されれば抵抗できない。でもその時既に、その「別の経済」が社会の奥深くまで浸透してしまっている場合は、黙認せざるを得なくなるかもしれない。

2017-02-18

吉祥寺A-thingsで、「“Things” never die. It only changes its form./Kenjiro Okazaki paintings +」を観た。すごく良かった。特に下の作品は、今までのおかざきさんの作品には無かったものが出てきている感じで、すばらしかった。

https://twitter.com/Athings1/status/824253837867290624/photo/1

画面にあるブロック状の絵の具の一塊が、周囲に開かれていながらもある程度自律した一つのゆるいフレーム(一つの図と地関係)をつくっていて、それ自体として自律している複数のフレームが、画面というより上位のフレーム(フィールド)内でひしめきあっていたり、重なり合っていたりする。

ただその場合、画面という固定的なフィールドが先に決定してしまっていると、あらかじめ決められた範囲で遊んでいることになってしまう。この、描く前から支持体が固定されてしまっているという絵画のやっかいな問題を、複数パネルによってうまくキャンセルしているように見えた。

実際にどうやって制作しているのかは分からないけど、複数のパネルを用意して、一枚一枚をある程度自律的なものとして制作しつつ、途中で並べてみたり、並べ替えてみたりしながら描いていって、最後に、フィルムをモンタージュするように配置を決めているのではなないかと思った。

四枚一組の作品、二枚一組の作品、三枚一組の作品が展示されていたのだけど、その枚数はあらかじめ決まっていたのではなく、結果としてそうなった、ということではないか。(映画の、撮影したけど編集作業中の判断でカットされた場面のような)描かれたけど展示されなかったパネルも存在するのではないかと思った。

そうすれば、フレームが流動的なままで、絵を描き進めることが出来るし、絵の具を置いてゆく(描いてゆく)ことと、フレームが生成されることとが、同時進行で行われることになる。編集の都合で撮影が変化し、撮影の結果によって編集が変化する、みたいなことが同時に起こるやりかたによって、上位フレーム(画面全体)と下位フレーム(絵の具の一塊)との関係において、どちらか一方が支配的である状態から脱することができる。

つまり、パネルという中位フレームがあることによって、そのパネルの流動性(並び替えが可能)によって、上位フレームと下位フレームとの関係が同等になり得ているのではないか。

中位フレームと中位フレームとの関係において、連続性と不連続性との両方が仕掛けられていることも、上位フレームの支配力を弱めていると思う。ただし、全くのアナーキーな状態ではなく、上位フレームも勿論充分に「効いて」いる。どのレベルも効いていて、かつ、どのレベルも決定的ではない。どのレベルに注目しても、同じ密度、同じ情報的、感覚的複雑さを感じることができる。さらに、どのレベルも他のレベルに影響を与え、かつ、受け合っている。どのレベルでも自律しているとも言えるし、他のレベルと切り離せないとも言える。

(ここで、上位フレーム、中位フレーム、下位フレームの、それぞれのキャラクターが異なることも重要だと思う。下位フレームは流動的で可変的であり、中位フレームは極端な縦長で、上位フレームは極端ではない柔らかな縦長か、横長である、と。)

(ただ、物質的な中位フレーム=パネルと、その都度で観者が行う部分的注目としての中位フレームはまた別で、観者の部分的注目としての中位フレーム---および、その流動的な変化---は必ずしも物質的中位フレームに拘束されない。しかし、その影響は受ける。物質的中位フレームとしての複数パネルは、おそらく制作時にこそ強く効いてくるものだと思われる。)

●すごく雑な言い方をすれば、抽象表現主義ラウシェンバーグのありえない結合のような状態になっているのだと思う。ラウシェンバーグの場合、抽象的なストローク、具象的イメージ、具体的な物、という異なるレベルのものが、フラットベッドとしてのフレームのなかで短絡的に結び付けられている状態がつくられていると思うのだけど、おかざきさんの作品では、そのような状態がより抽象的、形式的な操作によってつくりだされており、それによって、「感覚可能な複雑さの度合い」がより増しているように思われた。

●ただ、やはりとても難しい作品で、画廊や美術館という場所で「観賞する」というよりも、買って、家に置いておいて日々それを眺めるという付き合い方が必要となるような作品なのではないかとも思った。もともと、絵画とか彫刻というのはそういうものであるはずだけど、そのためには何百万円という額を支払える経済的な余裕が必要になる。

2017-02-17

佐藤さとるが亡くなった。『だれも知らない小さな国』を読んで、しばらく本気でコロボックルを探していた時期がぼくにもありました。『赤んぼ大将』『ジュンと秘密の友だち』も好きだった。短篇集はけっこう大きくなってから講談社文庫で読んだ。『わんぱく天国』の聖地巡礼をしたい。

ディック・ブルーナも亡くなった。去年、「オランダモダンデザイン リーフェルト/ブルーナ/ADO」展で観たブルーナの原画はすごくよかった。

ブルーナが、最初、線描の部分だけを描いて、その線描を透明なフィルムに焼き付けて、色面だけで描いた絵の上にフィルムを重ねるというやり方で絵本をつくっていたことを、この展覧会で知った。これは、様々な色の組み合わせのパターンを試すためなのだけど、それだけでなく、線と色彩が分離していて、後から重ねられるというのはけっこう重要なことだと思う。マティスロザリオ礼拝堂で、白いタイルに描かれた線描の上に、ステンドグラスからの色彩が重なるのと同様に、同じ二次元であるのに、線と色との間でディメンションの違いがあり、それを重ねることも出来るけど、再び分離させることも出来る。それらはたまたま重なっているけどそれぞれ別の出来事なのだ、という感じ。

ブルーナについて直接的な言及はしていないけど、去年の10月21日の東京新聞の掲載された「オランダモダンデザイン」についての美術評をここに掲載します。

フェルメールレンブラントが活躍した、オランダ絵画黄金時代と言われる十七世紀、プロテスタントであるカルヴァン派の影響の強かったオランダでは教会に宗教画を飾ることが禁じられており、そのために画家は個人宅で受け入れられる小さな絵を多く描いた。宗教や歴史より風俗や風景を主題とする絵が多く描かれた。また、質の高い絵画が多量に制作されていたため低い価格で取引されたと考えられる。それは、多くの人の身近に絵画があったことを意味する。

そして二十世紀、中立国であったため第一次大戦の被害が少なく、経済的に豊かだったオランダで、終戦の前年に「デ・ステイル(様式)」という雑誌が、モンドリアンの新造形主義理念のもと創刊された。水平、垂直、直線、三原色、非装飾性などを基本とし、客観的普遍的な表現を目指す芸術運動の場となる。この運動には多様な分野のメンバーが参加したため、美術に限らず、建築やデザインも含めた潮流となり、その後のバウハウスに大きな影響を与える。

運動の影響が、いわゆる「芸術」に留まらず、生活のなかで日常的に触れる様々なデザインにまで浸透していったのは、多くの人が質の高い絵画と身近に触れていた、豊かな文化的伝統という下地があったからかもしれない。

本展では、「デ・ステイル」に参加したリートフェルト(家具・建築)、そこから影響を受けたブルーナ(グラフィックデザイン・絵本)、フェルズー(玩具)の制作物を通じて、モンドリアンによる先鋭的な理念が、オランダの文化や土着性と溶け合うことで生まれた、洗練されていながら、どこか温かみのある、独自の感覚を堪能できる。

これは、三人の芸術家の影響関係を示すというより、「暖かいモダニズム」とでも言える独自の感覚が、人々の生活のなかに受け容れられ、定着されたということを表すと考えられる。

絵本という二次元的なバーチャル世界、玩具やドールハウスというミニチュア的、三次元バーチャル世界、そして、家具や住宅という我々を包み現実的な環境を形作るもの。それぞれの次元において、先鋭的な理念と、文化的な伝統、そして等身大の生活とが結びつくことで生じる共通した感覚が鳴っており、それらが響くのが感じられるだろう。



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2017-02-16

渋谷でベクショニズムの会合。今回はけっこう進展があったんじゃないだろうか。

●ブロックチェーンはまさに、現在進行中の革命への「夢」なんだな。

柄沢祐輔さんから、今、ローマでやっている日本の戦後の住宅建築についての展覧会「日本住宅建築展 The Japanese House: Architecture and Life after 1945」(柄沢さんのs-houseも出品されている)の図録を見せてもらったのだけど、日本の建築の世界で普通に流通している戦後の住宅建築の名作みたいな文脈とはかなり違った解釈がされている。ぼくは、建築文脈に詳しいわけではないけど、詳しくないぼくにも、これはかなり違うと分かるくらいに違っていて面白い。柄沢さんによると、この展覧会で最も大きく扱われているのが岡啓輔さんの「蟻鱒鳶ル」で、岡さんを描いた新井英樹のマンガの全ページがダーッと展示されているという。

https://www.jpf.go.jp/j/project/culture/exhibit/oversea/2016/10-02.html

http://www.fondazionemaxxi.it/events/the-japanese-house/

2017-02-15

iTunesで、jjj周辺の人たちの曲を(アルバム単位ではなく)何曲かランダムに買って聴いてみたのでけど、とりわけKID FRESINOのラップがすばらしくて魅了された。すごく難しそうなことをやっているというだけでなく、不思議な昂揚が喚起される。

KID FRESINO - Turn.(who do) ft. jjj

https://www.youtube.com/watch?v=zWK2Iuxcp8o

Arµ-2 - Backward Decision for Kid Fresino / Keep Rollin'

https://www.youtube.com/watch?v=95D5l35CSMo

清水高志さんがツイッタ―で、パースの記号(イコン、インデックス、シンボル)とアブダクションをジェイムズの純粋経験を結び付けているけど、これ、けっこうすごいことを言っているのではないか。じっくり考えるために、メモとしてまとめて引用しておく。

《ジェイムズを経由するとパースの言っていることはすごくよくわかる。経験と経験の連接も(それじたい一回的な)経験である、ということをジェイムズはいうが、パースは経験と言わずに記号と言い、しかも構造がやや複雑になっている。》

《まず〆能蕕砲△觀亳海ある。これは他の経験と(ジェイムズ風に言えば)連接するべきものとしてあるので、個別的性格を薄められたものとしてある。これがイコン的な段階。。》

《⊆,豊,畔未劉,連接する経験があり、それがインデックス的なもの。これだけでもなんらかの経緯の予測たりうるのだが、まだ確証がない。最後に別の経験が「,畔未劉,連接した」経験と同じ状況を描き出す。これは、ジェイムズ風に言えば過去の経験の追認。△忙後的に確証が与えられた形。》

《これがすなわちシンボルの段階。Cという未知の出来事があり、AであればCということが言える、という結びつきが浮かび、CであったのだからAは正しかったのだ、という形で論証に確証が与えられる。そういう形。。》

《ジェイムズだと、追認が起こった時点で、過去の経験は後の経験を「予期していたということに事後的になり、そこで主客の分離が起こる。パースの場合、でているのはすべてオブジェクトないしは経験であるのだが、「オブジェクトないしは経験どうしの結びつき」というインデックス的な事例は命題でもあり》

《それがまた「オブジェクトないしは経験」によって充足される。そしてそれらすべての過程がアブダクションであり、「記号」だと敢えて言われるのである。》

《事後的に主体としての経験が分離されてくる過程で、それが二層になっている。(インデックス主体となる過去の経験は、複数あって関係であると。でもなんか垂直二層なのが物足らないなぁ。》

《シンボルは決して抽象的な記号体系としてあるわけではない。論証の最後の段階ででてくる、充足するものとしての「オブジェクトないしは経験」が、複数の推論を同時に充足するとしたらどうなんだろう。。というか、日常的に我々はそんな風にしてしかアブダクションしていないはず。》

《論証の最後の段階ででてくる、充足するものとしての「オブジェクトないしは経験」が、「違ったもの」であった場合、別のインデックスが動員されてアブダクションが修正される。。ジェイムズ風に考えれば、主体はその予期を後の経験によって充足されることによって主体となるが、このとき可謬性の問題は》

《どうなるのだろうか。インデックスが別のインデックスに取り換えられる。これはアブダクションのある意味での強靭さを証すものであるはずだが、主体は経験を拡張していったわけではない。横にあるインデックスと置き換わったのである。メーティスとしてのアブダクションは、》

《可謬性のありかたに基礎を持つ。そして、インデックスインデックスが「横に置き換わる」とき、客体−主体間でなく、後に出てくる客体を軸として、主体主体間の優位の奪い合いが生じている。この状況は、きわめてパースペクティヴィズム風でありヴィヴェイロス的である。》

《このとき、後に出てくる客体の側に立てる主体、予期、インデックスが「主体的 なのである。メーティスはそこにおいて成立する。世界そのものがこうした複数のメーティス、アブダクションによって織りなされているのであれば、そこに生まれる「習慣」は詐術に満ちている。》

《そしてそれをかいくぐって成立している「習慣」、持続的な経験の連接が、生命なのだとしたら、それらは互いに囮的なわざとらしいアブダクションの形態を相手に示しあっているはずだ。エドゥアルド・コーンが「形式」と語るものもそんなものだろう。》

《ただし、コーンがアニミズムのうちの無機物の要素を重視しない、というのは確かに問題で、木であれ岩であれ、持続的に存在しているものは「習慣」を成立させているからそれは「狡知を持つ」生命と同じなのであって、そうした世界観をもつインディオは正しいということになる。》