偽日記@はてな

2018-01-15

フォーサイス、すごいな。脱ポストモダン的な作品で、ちょっと他に観たことのない感じ。« Alignigung » by William Forsythe(YouTube)

https://www.youtube.com/watch?v=FpOQeOa6dhI

二つの身体を合成して第三の身体をつくりだし、その第三の身体でしか可能でない動きをつくりだす感じ。この時、個々のダンサーたちの触覚的ゲシュタルトや内観的空間配置(自分で感じる、自分の手足の位置関係や運動感覚など)はどうなっているのだろうか。三つ目の身体を感じているのだろうか。

一見すると(外側から見ると)、バロック的な彫刻に近い美的な感触(空間的な構造)をもっているようにもみえるけど、しかしその形を構成しているピースが(人間の身体を模した像ではなく)実際に人間の身体であり、かつ動いている場合、それを外側から見ているだけでも、ただ「形」として観るだけではおさまらない感覚がどうしても生じる。おそらくフォーサイスのやりたいことは、基本的なところでは小鷹研理さんが研究としてやっていることにけっこう近いんじゃないだろうかと直観的に思った。でも、それを古典的な美学にのっとって高度に洗練させるという形で(つまり、ヨーロッパアートやダンスの歴史とコミュニティのなかで受け入れられやすいような形で、かつ、自分のキャリアと整合的であるような形で)「仕上げている」ということなのではないか、と。

●小鷹研理Twitterより、おとなのからだを不安にさせる組み手

https://twitter.com/kenrikodaka/status/857506471537385472

今日のゼミプラクティス

https://twitter.com/kenrikodaka/status/865480293292982272

「いまどうもしてないです」

https://twitter.com/kenrikodaka/status/885378611955474432

「類稀なる多足類の類(さとうくんと明日の授業の準備)」

https://twitter.com/kenrikodaka/status/889760308188725249

これは、さわるさわられるあべこべ実験。

https://twitter.com/kenrikodaka/status/908672917352751104

「mimic、flip、melt、decompose」

https://twitter.com/kenrikodaka/status/889977565858807808

今年の戦場「人間は考えヌ頭部である」のTシャツは「蟹は八本の葦である」である。

https://twitter.com/kenrikodaka/status/951620634768941056

ぞのイラスト

https://twitter.com/kenrikodaka/status/922981796077170688

2018-01-14

●『こどもつかい』(清水崇)をDVDで。清水崇は、『呪怨』があまりにも成功したために、ずっと『呪怨』シリーズの呪いに縛られてきたけど、基本的には、ホラーというよりもダークファンタジー(「恐怖」というよりも「怪奇」)の方に親和性の高い作家だとずっと思っていて(そのことは、ぼくの最初の本にも書いた)、おそらく本人にもその自覚はあって、しかし日本映画のなかではアニメ以外でファンタジーをつくるのは難しく(ファンタジーをつくってきたという歴史もあまりなく)、そのため、『戦慄迷宮』(2009年)とか『ラビット・ホラー』(2011年)くらいの時期から、外枠としてはホラーというジャンルを借りながらも、内容的にはファンタジーの方に意識的に少しずつ寄せるということをやっていたのだと思われる。だから、実写版魔女の宅急便』の監督をやるというのも、唐突なことではなく、必然的なことだったのだろうということを、かなり大幅にダークファンタジー的な方向に寄せているこの映画を観て、改めて感じた。

清水版『魔女の宅急便』は観ていないのだけど(正直、あまり観たいとは思っていなかったのだけど)、この映画を観て、観てみたいと思った。

この映画、基本的にはすごく好きなのだけど、ホラー枠のなかでダークファンタジーの方に大きく寄せたために、ホラーとしてはややぬるく、ファンタジーとしてはややイメージが貧しい、という、どっちつかずの感じになっているように思ってしまった。話の仕掛けもちょっと単純すぎるかなあ、と。

(ホラーだと、低予算でも演出次第で怖くもなるし、説得力も出るけど、ファンタジーだと、お金をかけてある程度は豪華な絵をつくらないと白けてしまう感じになるので、その兼ね合いを常に探っている感じはあると思った。)

あと、清水崇は、『ラビット・ホラー』の満島ひかりとか、この映画の門脇麦とか、そういう感じの女優さん(どういう感じか具体的には上手く言語化できないけど)の使い方が上手いというか、キャスティングにこだわっているのだなあと思う。なんというか、こういう「闇を抱えていそうな雰囲気の人」が、中心にいるといないとでは物語の説得力が全然違ってくると思う。ホラー映画は基本的に低予算のジャンル映画だと思うので、主役は新人アイドルとか、テレビでやや名を知られているけど俳優が本業じゃない人(グラビア系の人とか)になるパターンがけっこう多い気がするけど、そこはかなりこだわっているのだろうなあと思った。

2018-01-13

●『BEATLESS』の第一話は、目立ったところがないというか、凡庸というか、「こういうアニメよくあるよね」という感じになってしまっていた。でも、導入部としては、こうするより仕方がなかったのかもしれない。これから先、シンギュラリティとか、(石黒浩主題でもある)「アナログハック」みたいな主題にどこまで(そして、どのような形で)踏み込むのか、あるいは、エンターテイメントとして誰もが納得しやすいような「ありがち」な落としどころに納めるのか、また、主題のハードさや難しさとエンタメ的分かり易さの間で、どのようにバランスをとるのか、というところが、このアニメにかんするぼくの興味の中心だ。

あと、『博多豚骨ラーメンズ』というアニメの一話目も観た。この作品に興味をもったのは、「2018冬アニメ一覧」というサイトにあったこの作品の「あらすじ」が、内容的にエグイだけでなく、日本語の文章として破綻していて、「この文が何を言おうとしているのかさっぱりわからない」と思って気になったから。実際、一話を観てみれば、ああ、そういうことか、と思うだけなのだけど。以下、その「あらすじ」を引用。

《人口の3%が殺し屋の街・博多。女性ばかりを狙った連続昏睡強盗事件 が街を賑わせるなか、人知れず馬場が行方をくらませた。馬場を心配しながらも、昏睡強盗を追う林は、小百合の協力を得て潜入捜査を開始。一方、林を援護する榎田のもとに、新たな情報が舞い込んでくる。それは13 年前に博多で起こったある惨殺事件にまつわるものだった。一見、別々に見えた事件は、やがて馬場を狙う過去の亡霊の存在に辿りつき――。 最強の殺し屋たちに危機が迫る!》

2018-01-12

●「世界を救うのはエクスポネンシャルか、エクソダスか?──シンギュラリティ大学とカリフォルニアン・イデロギー再考松島倫明(WIRED)

https://wired.jp/2017/12/18/exponential-or-exodus/

シリコンバレーのテック系のような、《テクノロジーエクスポネンシャル(指数関数的)な成長によって、世界の最も困難な課題を一気に解決することをミッション》とするいわば「エクスポネンシャル派」の人たちと、エコロジーヒッピー系(あるいはアート系)のような、《世界中のエコヴィレッジインテンショナルコミュニティ(intentional community)のネットワーク》によって脱=資本主義化を推し進めようとする、いわば「エクソダス派」の人たちという、二つのまったく異なる(相容れないとさえ言える)思想のあいだで、「自由と反権威主義(リバタリアニズム)」というただ一つの一致点においてなされた「ふしだらな結合」(野合?)によって生じたのが、かつてのカリフォルニアイデオロギーだとすると、その両者が決定的に分離してしまったかのように見える今日に再び、その共通の課題を「自由と反権威主義」から、「グローバル・グランド・チャレンジ(エネルギー、環境、食、シェルター、宇宙、水といった資源の問題、そして災害へのレジリエンス、ガヴァナンス、健康、ラーニング、経済的繁栄と安全といった社会的資源の「地球規模」での問題解決)」への実践主義へと移行させることで、共働が可能になり、新たにアップデートした形での「カリフォルニアイデオロギー」が可能になるのではないか、という話が、上の記事で書かれている。

●すごく面白い話だけど、ぼくの個人的な感覚にすぎないが、「エクスポネンシャル派」の人と「エクソダス派」の人とでは、人としてのあり様がかなり異なるような気がするので、思想以前に、「馬が合わない」とか「なんとなく気にくわない」、あるいはそもそも「会話が成り立たない」という、非常に低レベルな人間的感情が邪魔になってしまって、人と人との関係のレベルでの共働はあまり上手くいかないような感じがする。気が合わない人と付き合うのは無理がある。以下に書かれているような問題(溝)はとても大きいように感じられる。

エクスポネンシャルなテクノロジーによって人類の貧困環境問題を一気に解決しようとする人々がいて、彼ら彼女らから見ると、人間性回帰を志すシンプルライフの類いは、個人としての救済や倫理的な満足としては結構かもしれないが、より大きなスケールで解決策を模索し社会に大きなインパクトを与えようとしない点で、しょせんは世界の現実から目を背けた世捨て人の生き方だと映る。》

《一方で『壊れた世界で“グッドライフ”を探して』に描かれているような人々は、経済格差と見知らぬ国の奴隷労働によって成り立つ企業や、環境を破壊し貴重な資源をめぐって戦争を始める政府には加担しないと決めている。そのために自給自足で石油も電気も自動車も使わないような生き方を選ぶ人々から見れば、シンギュラリタリアンのような人は、自分の特権やその生活こそが世界の貧困とか環境破壊の原因になっていることは棚に上げ、自分が1ミリも変わろうとしないまま世界を救うと言っている傲慢なエリート主義者にしか見えない。》

●ここに描かれる「エクスポネンシャル派」も「エクソダス派」も、相容れないとはいえどちらも「善意の人」には違いない。しかし、世の中にはかならず「すごく頭のいい悪い奴」が存在する。

●で、やはりそこはテクノロジーの力を借りて、人と人との接触をテクノロジーが上手いこと調整・媒介して、気の合う人同士の集団がそれぞれ自律的に活動しながら、孤独を好む人は一人でいるまま、最小限の接触によって効率的な共働を実現するとか(接触面には、それにふさわしいコミュニケーション能力の高い人を置くとか)、ケンカして関係を破壊しそうな人同士はうまく棲み分けるようにするとか、そういう形の関係のあり方がAIマネジメントによって自動的にできるようになって、それが結果として共働的にグローバル・グランド・チャレンジを進める方に向かって動いていくような仕組みがつくれれば、それは可能性があるように思う。スマート・カリフォルニアイデオロギー的な。そのような意味では、エクソダス派は(少なくともインフラ的な意味では)エクスポネンシャル派に依存していると思う(エクソダス派も、思想的な深み、のような貢献は可能)。

あるいは、「既にエクスポネンシャル派/エクソダス派である人」たちには可能性がなくても、エクスポネンシャル的であり、かつエクソダス的でもあるという、新たな世代が育っているという可能性は充分にある。というか、ハッカー文化というのは、そもそも、そういうものなのではないか。というか、そういうひとに、わたしもなりたかった。

(でも、ハッカー的なリバタリアニズムというのは、生まれつきかなり頭がよい人にのみ可能な思想なんだと思う。)

●あと、この記事では触れられていないのが(チートや暴力を抑制するための)「暴力の/暴力による集中管理」の必要性という問題だ。普段、それは国家によってなされているが、ある運動が国家を超えようと---国家という枠組みから自律的になされようと---するならば、自前で(かつ、分散的に)それを行う必要が出てくる。

ブロックチェーン(あるいは、それよりもより高度化された分散技術)によって、政府官僚組織の分散代替(解体)は可能だとして、軍事力や警察力を「分散化」できるのか、というとても大きなハードルがあると思う。チートや暴力を抑制するためのメタ暴力(ホッブス的社会契約の問題)や、他者(集団)からの暴力的強制---たとえば国家による強制介入---に抵抗するための暴力(軍事力)を、持続可能で安定的な形で、かつ水平的に分散化(分散管理)可能にするための「具体的なイメージ(例えば、ゲーム理論の権威である金子守は「すべての人が核のボタンを所有する」ことではじめて力の平等---平等な拒否権---が実現する、というグロテスクな「暴力の分散管理」を思考実験として提示している)」を描くことは(ラブ&ピースが基本のカリフォルニアイデオロギーにはとりわけ)とても難しい。

●それと、いずれにしても、この記事に書かれている(人間の直観では捉えられない)エクスポネンシャルな感覚を意識的にもつことはとても重要だと思う。

シンギュラリティの説明として有名な指数関数的グラフは、リニアな時間軸を生きる人間の感覚ではなかなか体感しにくい。たとえばぼくたちの歩幅が1mだとすれば、30歩で進む距離は30mだ。では1歩ごとに歩幅が倍になるとしたらどうだろう? 1歩目は1m、2歩目は2m、3歩目は4m進むとすると、30歩でどれぐらい進むか想像できるだろうか。答えは地球を26周だ。》

この感覚を持って、三歩目か四歩目くらいの段階で対策をとるように考えていかないと、知らぬ間に環境そのものがまるごと変わっていて、それに追従する(か、滅びるか)しかなくなってしまう。

シンギュラリティへの危機を表明する人に対して、現状のAIはまだそんな段階には程遠いと言って嘲笑う人たちには、この感覚が欠けている(あるいは、分かった上で、政治的に嘘をついていると思う)。

2018-01-11

●六日に、NHK-BSで放送したのを録画しておいた『ブンミおじさんの森』(アピチャッポン・ウィーラセタクン)を観ながら、リヴェット、ゼロ年代後半のチェルフィッチユ、そして高橋洋などとの関係について考えていた。これらの(バラバラに思えるような)名前を関係づけるのは、パースペクティヴ主義的なフォーマリズムだろう。

(この映画を観ていて、死に向かって夜中に家を出たブンミさんたちの一行が、夜のジャングルから真っ暗な洞窟のなかへ入っていって、そこにある、外からの光のまったく届かないような洞窟の中に湧いている泉と、そこに群れを成す魚たちが、一行のもつライトによって一瞬照らし出されるカットを見たとき、ああ、このカット(イメージ)がこの映画の「反転」の軸になっているカットなのだろうな、と直感された。農園とジャングル、人と動物(水牛や猿)、現地人(タイ東北部)と移民(ラオス)、人と精霊、現在と過去(未来)、生と死、今世と来世(前世)、そしてジャングルの開放や豊穣と洞窟の閉ざされた闇と静寂など、様々な異質な視点の相互作用が、本来、闇の奥深くに隠されて顕現されることのないまま潜在している「洞窟の奥の泉の魚たち」の、偶発的な一瞬の開示によって、それが第三項=軸となることで反転的交差として実現する。このカットは、この映画の持続(時間)の外にあって、この映画で起こる出来事(様々な交錯)を支えているように思われた。逆に言えば、このカットは、様々な異質なものたちの交換によって生じた、とも言える。たとえば、女王とナマズとの「愛の交歓」の場面は、このカットがあることで、この映画の持続のうちに位置をもつ---この映画の他の場面との紐帯を得る。または、この交歓の場面の強引な接合が、潜在的な泉と魚を顕現させる。これは直観であって、そうだと言い切るためには、もっと細かく分析してみる必要があるのだが。)

(ラストシーンは、あきらかに高橋洋---特に『恐怖』や『おろち』---と通じていると思う。)