偽日記@はてな

2012-02-10

●昨日もちょっと書いたけど、『シュタインズゲート』や『輪るピングドラム』の新しさの一つに、大きな話と小さな話とをどう繋げるのか、関係づけるのか、という時のそのやり方があると思う。

●例えば神山健治の作品で言えば、『攻殻機動隊』は、公安九課という公的な機関をめぐる話で、政治の話などが絡むので、はじめから「大きな話」としてある。しかし、『東のエデン』では、一方では大学のサークルの若者たちの話であり、セレソンたちをめぐる現代風俗の話でもあるという点では「小さい話」だが、もう一方で、社会や経済のあり様が、たんに物語の背景とは言えなくくらいの重要性をもっている「世直し」の物語でもある。つまりこの物語は、若者たちの活動が、社会や経済という「大きな話」に繋がっているという話であろう。だが、ここではその繋げ方が決定的に上手くいっていないように思われる。サークル「東のエデン」という小さな話と、政治や経済という大きな話をつなぐ媒介は、特別なカリスマ性をもった謎の主人公と、ミスターアウトサイドという人物によって与えられる莫大な資産と能力なのだ。これはつまり、それだけ大きく強い媒介がなければ、小さな話と大きな話がつながらないということだ。それでは、よっぽど桁外れの幸運でもないかぎり、小さなぼくたちと大きな社会が関係することはない、ということになってしまう。それに、特別に魅力的な主人公だけならともかく、ミスターアウトサイドによる上から目線がなければ大きな話に介入出来ないと言うのも、なにか嫌な感じだ。結局、いつかすごいリーダーが出てきていろんなことを一挙に変えてくれるんじゃねえの的な、スーパーマンによる世直し話になってしまって、シビアな政治的駆け引きなども描かれる『攻殻機動隊』よりも何歩も後退しているように思う。

●大きな話を大きな話として描く、または、小さな話を小さな話として描く、ということならば問題なくても、大きな話と小さな話をどのように繋げるのかというところで、躓いてしまう。今まで、小さな話と大きな話を繋げていたのは「代表」という機能だと思うけど、それが今ではもう上手く機能しなくなってしまったということなのだと思う。もう「代表」では粗すぎてダメなのだ。

●『シュタインズゲート』や「ピングドラム」がそこをどうクリアしているのかについての詳細なことは、改めてこれらの作品を観直さないと言えないけど、ざっくりと「感じ」だけを書いてみる。『シュタインズゲート』は昨日書いたみたいな、システム論的に繋げる感じだとして、「ピングドラム」について書く。テレビで各話一回ずつ観ただけだから記憶も怪しい感じで書くのだけど。

●「ピングドラム」は極めてささやかな小さな話としてはじまる。荻窪池袋など、丸の内線沿線の詳細な描写、主人公たちの住む室内のカラフルな色彩、秀逸な食事の描写などにそれは現れている。妹の死をきっかけに、謎の宇宙生物との間で「妹の命」と引きかえに「ピングドラム」という謎の何かを見つけ出すという契約が交わされる。兄の双子が「ピングドラム」を探すなかで、様々な人物との関係が現れ、主人公たちの背景も徐々に明かされてゆく。物語は「生存戦略」という謎のキーワードからはじまり、当初、高倉家の二人の兄と妹の間の近親愛的な感触から、荻野目苹果という少女の妄想的暴走へ発展し、しかしその双方合わせても「家族」を主題とした物語であるようにみえた。

しかし途中で唐突に大きな話とつながる。「95年」に「地下鉄」でテロ事件を起こした組織で指導的な役割をしていたのが、主人公たちの両親であった、と。しかも、すべての登場人物が、実はその事件によって繋がっていたことが明らかになる。誰でもが即座に特定の事件と宗教団体を想起してしまうような現実上の大事件が、ふいにフィクションのなかに、しかもきわめて小さな話であったはずの物語のなかにいきなり導入される。しかし、「ピングドラム」のテロ事件と「地下鉄サリン事件」との関係は、ただ「95年」という特定の年代と、「地下鉄(丸の内線)」という特定の場所を共有するのみで、それ以外はあまり関係がないと言っていい。つまり、「ピングドラム」のテロ事件はあきらかに「地下鉄サリン事件」ではない。ということは、「ピングドラム」は、「この世界」の現実をベースにした物語というよりも、「ピングドラム」の世界と「この世界」とは、ある特定の時間、ある特定の場所で、何か社会的に大きなインパクトのある事件が起きたということ一点のみで交差する「別の世界」だということになる。これによって、『シュタインズゲート』で複数の世界線として表現されていたものと同じ関係が、「ピングドラム」の世界と「この世界」との間に生じる。二つの世界は互いに同等な、こうでもあり得たかもしれない別の世界となり、「ピングドラム」世界は、たんにフィクションとして「この世界」の内部に生じた「この世界」に包摂されるものではなく、この世界と共鳴関係にある、独立した別の系であるかのようになる。

つまり、「ピングドラム」は「地下鉄サリン事件」を描いた(それをモチーフとしてフィクション化した)作品ではなく、「ピングドラム」の世界で起きたある事件と、「この世界」で起きたある事件とが、同一の位置(時間と場所)を共有しているということになるのだと思う。95年・地下鉄は、この世界と「ピングドラム」世界をつなぐ交点として重要である(事件の「内容」として重要なのではない)。この点は、「ピングドラム」という特異な作品を理解するために重要だと思われる。

もう一つ言うべきなのは、「ピングドラム」の世界はきわめて限定されているという点だ。主要な登場人物以外はすべてピクトグラム的に処理され、世界はまるで丸の内線沿線だけであるかのようだ。「ピングドラム世界」は、「この世界」に比べて極めて小さい。そして「ピングドラム」世界では、「あの事件」と「あの組織」が世界の(隠された)中心として位置していて、それがすべての人物たちの関係や運命を律してしまっていると言える。あらゆる人物は、「あの事件」という隠れた秘密の繋がりによって、あらかじめ関係してしまっている。無関係な人などはじめから存在しない。つまり「ピングドラム」世界では、小さな話(家族・愛情)と大きな話(重大なテロ事件)を分離することは出来ず、あらかじめ絡まり合っている。小さな話に見えていたものこそが大きな話で、大きな話にみえていたものこそが小さな話なのだ。小さな話(関係)を書き換えることと、大きな話(関係)を書き換えることとは、まったく別のことではなく、表裏一体である。「ピングドラム」世界はそのようなものとして構築されている。

独立しつつも共鳴する系として、ピング世界とこの世界とがあるとする。二つの世界で、事件Pと地下鉄サリン事件が「同じ位置(地点)」を分け合うとする。そして例えば、ピング世界の人物である晶馬に対し、この世界で「ピングドラム」を観ている人物「私」が何かしらの共鳴を感じたとする。そして、ピング世界では晶馬はあきらかに事件Pの関係者であり、事件との関係こそが彼を彼たらしめている。とすれば、それを観て共鳴したこの世界の「私」もまた、「サリン事件」(に限らず「大きな話」)と無縁とは言えない繋がりがどこかであるという風に感じるのではないか。「ピングドラム」を観る者は、まるで『シュタインズゲート』の主人公のようにリーディングシュタイナーの能力によって記憶を保ったまま「ピングドラム」の世界線から「この世界」の世界線へ移動してきたような感じになる。これは「代表」によってではなく類比(アナロジー)によって大きな話と小さな話を関係させていると言えるのではないか。

●ああ、でもこれは、もう一度ちゃんと「ピングドラム」を観直して、もうちょっと丁寧に考えないとダメな問題かなとも思う。

2012-02-09

DVDで『シュタインズゲート』の22話まで観たら、もう我慢できなくなってネットで探して最後(24話)まで観てしまった。すばらしかった。物語のもっともシリアスな部分は一応22話で完結していて、最後の2話はちょっと力の抜けたオマケみたいな感じもあるけど、そのオマケの感じ(最後にシリアスになり過ぎないところ)もまたすばらしい。「確定された過去を変えずに結果だけを変えろ」というのにもしびれた。物語的な次元で言うと「エンドレスエイト」や『涼宮ハルヒの消失』との関連が感じられるけど、作品としてはやはり『輪るピングドラム』との関係において考えるべきだと思う。『シュタインズゲート』と「ピングドラム」は、似ているようで本質的に違う(物語や比喩の機能、社会の捉え方、ジンブツたちの関係性…)、しかし、違っていながらもどこか通じるところがある、という関係にあると思う。あと、『シュタインズゲート』のシリーズ構成をしている花田十輝という人が、花田清輝の孫だということを最近知った。

ネットワークという概念によって、潜在性(ヴァーチャル)という哲学的な概念に、イメージ可能な描像(表象)を与えることができる。同様に、タイムリープと世界線の移動という物語装置によって、潜在性という概念に、物語として感覚可能な形式や手触りを与えることができる。これはシステム論的な物語というようなもので、ここでは物語の因果律を支えているものの根本的な書き換えが起こっているのではないだろうか。今までの物語でも、そのようなことを匂わせることは可能だっただろう。しかしここでは、潜在性を直接的に物語るかのようなことが可能になっていると思う。例えばベンヤミンが、《私たちが耳を傾けるさまざまな声のなかに、いまでは沈黙してしまっている声の谺が混じってはいないだろうか。私たちが愛を求める女たちは、もはや知ることのなかった姉たちをもっているのではなかろうか。もしそうだとすれば、かつて在りし諸世代と私たちの世代とのあいだには、ある秘密の約束が存在していることになる》と書くことによって示そうとしているものを、まさに「具体的事例」として示すことを可能にしているのではないだろうか。

●ここでは、個と世界の関係が従来の物語とはまったく違っている。この主人公の特別さは次の二つのことだ。(1)タイムマシンとまでは言えないが、過去に何らかの影響を与える装置をたまたまつくってしまった。(2)過去を改変すると「世界線の移動」が起こって世界が根本的に書き換えられてしまうのだが、その後にも、前の世界線での記憶を主人公だけが例外的に保持できる。そして、この二つの能力によって彼が何をしたのかと言えば、身近な友達の願いを、過去への働きかけによってかなえようとしただけだ(秋葉原から「萌え」要素が一掃される場面には愕然とさせられた)。

しかしそれによって結果として、まず、世界を支配する巨大企業と対峙せざるをえなくなり、ついにはさらに大きな、この世界全体を律する「運命」とも対峙させられることとなる(主人公は、一人の幼なじみの死を、その死を回避するためにこそ、何度も何度も反復することになる)。さらに、にもかかわらず、舞台は秋葉原からほとんど出ないし、描かれるのは狭い範囲で、主人公のごく近くにいる人たちのことだけだ。さらにさらに、にもかかわらずその小さな範囲の出来事が少しずつ変化しながら繰り返されることを通じて、世界を変えること(革命)の可能性やその意思、世代を隔てた者たちの間に存在する「秘密の約束」までを表現する。ごく身近で小さな世界と、世界全体であるかのように大きいものとが、世界線とタイムリープの反復という物語装置によって、等価で双方向的なものとして媒介される。

これは、社会や歴史を扱った物語でもなく、私をめぐる小さな範囲の物語でもなく、平凡な人物を描くことである種の「典型」を示そうとする物語でもない。大きいものと小さいものの価値転倒がなされているのでもない。こごてはもう、物語が内包するものの大きさや強さと、物語が扱う範囲の時間的、空間的、主題的な大きさとが、まったく比例しなくなる。

小さな世界と大きな世界が無媒介に、直接的に接続されるのではない。例えば、風が吹けば桶屋がもうかる、という時、「風が吹く」ことと「桶屋がもうかる」ことは直接つながるのではなく、途中に多くの過程が存在する。従来の物語は、その複雑な過程のあり得る一つを、その代表として提示するだろう。あるいは、比喩として繋ぐ。しかし、システム論的な物語では、その過程は複雑過ぎて「代表」によってでは示すことが出来ないし意味がない。ではどうするか。原因と結果の間に「操作的な媒介」と「操作的な規則」を探し出して、その操作によって「遠いところのもの」に間接的に働きかけようとする。タイムリープと世界線という物語的な装置は、そのような媒介であり規則であるようなものだ。私と世界とが、どのように繋がっているのか、その因果の過程の全てを知ることは出来ないが、その間に媒介と規則性が見出されることで、何かしらの「遠いつながりがある」ことは信じられる。「風を吹かせる」ことが出来れば、「桶屋をもうけさせる」ことが、きっとできる。「信じられる」ことによって世界への行動や働きかけが可能になる。この物語において反復は、強いられた、機械的反復ではなく、主人公の意思による、運命の書き換えのための能動的反復であるのだ。それは繰り返される地獄でもあるが、その地獄を支えているのが「世界と遠くつながっているという信」であろう。そしてそれは、基本的に身近な人物との関係によって与えられるのだ。

主人公が過去に戻る度に、「世界線」は移動し世界が書き換えられる。世界線を越えて記憶を維持できるのは主人公だけなので、そこで分岐した無数の世界たちはそれぞれ孤立しているはずなのだが、反復による折り重なりが増すにつけて、孤立しているはずの複数の世界の間に共鳴が起きる。反復によって、主人公だけでなく、世界そのものまでもが経験値を増してゆくかのようなのだ。このことによってあらわれるのが「秘密の約束」であり、これによってまた、主人公に「世界とつながっているという信」を深くさせる。

そのような意味で、『シュタインズゲート』の物語は、大きなもののなかに小さなものが内包されるだけでなく、同時に小さなもののなかに大きなものが内包されるような世界として提示されていると思う。

2012-02-08

ライプニッツについてネットで調べていて、『ヨーロッパ精神史入門』(坂部恵)という本に行き当たって興味をもった。坂部恵という名前は勿論知ってはいるけど、「批評空間」のカントに関するシンポジウムくらいでしか読んだ記憶はなく、なんとなくカント専門家というイメージしかなかったけど、この本はそういうイメージとはずいぶん違うみたいだ(カントに関する本も一冊くらいは読んだ気もするけどよく憶えていない)。といっても、ぼくはこの本を読んではいなくて(「日本の古本屋」で検索してもひっかからず、アマゾンマーケットプレイスでは六千円近くする…)、以下に書くことは下の書評のみを参照している。

http://d.hatena.ne.jp/katos/20111007/1317981119

実在論者と唯名論者の間でなされる普遍論争というものがある。実在論(スコトゥス派)とは、普遍そのものがそれ自体で存在すると主張するもので、唯名論(オッカム派)は、実在するのは個物であって、普遍は「名」としてのみあるとする、という程度の理解しかぼくにはないのだが。で、書評によると、坂部恵は、この論争は、個と普遍のプライオリティの問題であるというより、「個的なもの」をどう捉えるかの違いであるとしているそうだ。個を「確定したもの」と捉えるのが唯名論、個を確定されない「汲みつくし得ぬもの」としたのが実在論、という風に。

《個的なものを、元来非確定で、したがって(ここが肝心のところですが)汲み尽くしえない豊かさをもち普遍者や存在をいわば分有するものと見なすか、それとも、まったく反対に、それを、いわば第一の直接与件として、しかも単純で確定された規定を帯びた、世界と思考のアトム的な構成要素と見なすか。/「実在論」と「唯名論」の対立の因ってくるところは、このような考え方のちがいにあるとおもわれます》。

これを真に受けてざっくり言えば、個をアトムとして捉えるのが唯名論で、個をモナドとして捉えるのが実在論だと言っていいんじゃないだろうか。そして、中世以降のヨーロッパでは唯名論が主流となり、近代の、功利主義、個の尊重、「民主主義」(括弧つきの民主主義)などは唯名論を基本原理としている、とされる。それに対し著者は、実在論に大きく肩入れする、というのがこの本らしい。書評には、《そうした思考の線上で、アヴィケンナの「共通本性」、ドゥンス・スコトゥス個体概念、ライプニッツによるその展開、ホイットマンやジェイムズの種概念、アルベルトゥス・マグヌスおよびニコラウス・クザーヌスの多元宇宙論個体論、「能動知性」概念の退潮とカントによるそのアクロバティックな置き換え、といったさまざまな概念・議論が参照されてしばしば気が遠くなりかけるが、上記のように主張の太い線はきわめて明確なので、よくわからない箇所は残っても頭が混乱することはない》と書かれている。以下の引用は、この本に引用されているというパースの「形而上学ノート」からのもの。これがすごくシブい。

《考え深い読者よ、政治的党派心のバイアスのかかったオッカム的な先入観――思考においても、存在においても、発達過程においても、「確定されないもの」(the indefinite)は、完全な確定性という最初の状態からの退化に由来する、という先入観を取り払いなさい。真実は、むしろ、スコラ的実在論者――「定まらないもの」(the unsettled)が最初の状態なのであり、「定まったもの」の両極としての、「確定性」と「決定性」は、概していえば、発達過程から見ても、認識論的にも、形而上学的にも、近似的なものを出ない、と考えるスコラ的実在論者の側にあるのである。》

●で、まったくの思いつきでしかないのだが、これと、昨日引用したブログの内容や西川アサキの本とを響かせてみると、唯名論的な個の発生が「実在化」で、実在論的な個の発生が「現働化」(言葉が交差していてややこしいけど)となるのではないか。実在化は、この世界になかに「ある物質」として生まれることで、そこには全体からの切断というイメージがあるが、現働化は、「ある全体」からバックグラウンドが後退して明確な図柄が出現するというイメージなので、連続的な感じ。そして、唯名論的な発生(精神= code・実体的紐帯・外延に関わる)と、実在論的な発生(潜在性・魂・内包に関わる)が重なるところに、経験を可能にする中枢としての「身体」が可能になる、ということになるのではないか。

●昨日はけっこう何気なく引用したのだが、『魂と体、脳』の以下の部分の重要性を、引用した部分を読み返して改めて感じた。

「現働化」においては《全体は先に与えられ》るが、「実在化」においては、《部分から部分に、近いものから遠いもの》へと、《手探り》にすすんでゆく。後者が成り立たなければ、新たなものの創造が不可能になり、しかし前者が成り立たなければ、創造されたものはその場限りで消え、「全体」は常に不変となってしまう。だから、後者に対する前者の優位か、あるいはその逆か、が問題なのではなく、その両者が触れ合うところに、その触れ合うあり様の具体性(具体例)として、個々の身体(イメージ・作品・技術・実践・等々)が現れる、ということが重要なのだと思う。もう一度しつこく引用する。

《つまり、「現働化」は、モナド=精神の中での「明るい部分(「特権的な帯域」)と暗い部分の配置」を決めることだ。その意味で、全体は先に与えられ、その上にどのゾーンが明晰でどの領域が混濁したバックグラウンドなのかという分布、つまりクオリアの強度分布(本書で「フレーム」と呼んでいるもの)を配分してゆく。一方、「実在化」は、「物質」の中での出来事の実現であるという。「実現」が何を意味するのか解釈は難しいが、本書ではそれをとりあえず「共可能性の探索」として考える。ある出来事と別の出来事は、矛盾なく共可能なのか? そうではないのか? それは手探りの過程であり「部分から部分に、近いものから遠いものにいたる」からだ。》

2012-02-07

●「あなた」について考えていて思い出したのだが、前に『ダンゴムシに心はあるのか』(森山徹)という本を読んだ。ダンゴムシに心はあるのかという問いは、つまり、ダンゴムシから「あなた」を見出せるのかという問いでもあろう。この本では、ダンゴムシに心があるということを実験によって示し、さらに「性格」まであると書かれていた。

この本の「心」の定義が面白い。それは「内なるわたくし」であり「抑制された行動」であるという意味で常識的なのだが。例えば、私があなたに向かって包みを差し出し、「心をこめて、あなたに送ります」と言う場面を考える。この「私」は普段着なれないスーツを無理して着ていて、しかしあわてて来たためにぜいぜい息を荒め、汗の匂いさえたてている。この様子をあなたは五感で捉えている。しかしここで同時に、私はおなかが空いていて、私の背中にはできかけの発疹があるとする。ここで私は「おなかが空いた」とは言わないし、無意識に背中を掻いたりもしていないから、あなたにはそれが分からない。これらの行動(表現)は、「あなたに思いを伝える」という優先性の高い行動によって覆われ、潜在的な次元に留まり、抑制されている。このような「抑制」が存在することを「心がある」とする。

ここで「心」は必ずしも意識とは一致しない。背中の発疹は、「かゆい」と意識されるより弱いかゆみしか発していないかもしれない。しかし、あなたが目の前にいないリラックスした状態では、無意識のうちに背中を掻いているかもしれない。だからここで「意識」は無くても行動の抑制(心)はある。この二つの場面の「差」のなかから「心」が浮かび上がるのだ。ここで面白いのは、そうだとすれば、心はわたしの「内なるもの」であると同時に、わたしとあなたの「間」にあるものでもあることになる。一人でリラックスして無意識に背中を掻いている時、その分だけ「わたしの心」は減ることになる。

だから、実験によって「心」を露呈させるというのは、「あなたに思いを伝える」というような優先性の高い、しかも事前に予測される状況を不意にキャンセルすることとによる。必死になってあなたに会いに来たのにあなたが不在であった場合、わたしはがっかりしながらも、無意識にぼりぼりと背中を掻くかもしれない。実験の詳細はわすれたけど、ダンゴムシにとって、あなたがいる場合と不在の場合に相当する二つの状況が用意され、その時のダンゴムシの行動の違いによって「心」があるとされていた。ダンゴムシのなかに「あなた」が見出される。

●面白いことに、ここでは心が「抑制」から定義されている。河本英夫もまた、「意識(こちらは心ではなく意識だけど)」は、行動の促進ではなく、行動の抑制であると書いていた。「手を上げよう」と意識するから手が上がるのではなく、意識より早く必要に応じて体が勝手に手を上げる。しかし、「手をあげないということもあり得る」という可能性の確保が「意識」なのだとされる。

●あと、ちょっとだけダンゴムシつながりで、下のブログが面白い。

現代思想におけるライプニッツの子どもたち---記号/情報/システム」

http://sekokazuki.hatenablog.com/

《ここで仮に心身に対して次のような定義を下してみる。「精神=可能態」「身体=(可能態から現実態への)現働化の中心」。身体が精神=可能態から何ものかを汲み取ってきて己のもとへ戻るとき、二つのバリエーションがある。一方は、自発的な「行動」であり、他方は受容的な「(胚)発生」である。どちらにせよ、身体はこれら現働化によって外界へと出現しまた外界へと働きかけるが、それによって身体は、己自身を変様させてもいる。実際、己自身を変様させないような行動あるいは発生は存在しない。》

《精神のほうはというと、行動においてそれは、多様な選択肢の中から「この行動」や「あの行動」を身体が引き受けるような、観念・判断・意志の諸機能を有している。発生においてそれは、所与の遺伝子配列を有している。どちらにも共通しているのは、「構造structure」である。つまり、その身体をして行動せしめるような一連の常同症すなわち「常識」、その身体をして発生せしめるような化学装置としての「遺伝子」。この意味で、「無意識は構造化されている」と述べるラカンは正しい。私たちの意識が注意を向ける以前にそこでは、私たちがそのように考え、そのように行動し、そのように発生するよう強制している所与の規則codeが存在している。つまり、精神=「可能性」 とは、現在における感覚印象を習慣化させ過去における諸観念を統合させているような、身体の行動及び発生を規則付けている働きの総体として理解することができる。》

《そのような「可能性」とは、経験的なものである。経験なくして可能性はありえない。とはいえ経験とは、外部の物体との出会いを経験するある何らかの「主体」または「個体」を俟ってはじめて可能となるものであるのだから、そのような主体的経験の圏外で、ということはまた可能性の圏外で、未規定なものとしての「潜在性」が措定される。というのも、可能性が、身体を所与の仕方で形成するよう規定する構造であるとしたら、そのような可能性が身体とともに経巡る経験論的冒険以前の段階で、可能性すなわち身体がそこで構成されるような「未規定な《場》」が想定されなければ、その下部構造の上に建てられた身体はまるで砂上の楼閣のようにしか考えられないからである。》

《身体に多様で可能的な行動をとらせるかぎりで人間知性は精神であり、それとの類比で、身体に多様で可能的な発生をとらせるかぎりで遺伝子は精神である。つまり、精神とは身体に付け加わったり分離されたりする観念的産物などではなく、それはむしろ、厳密に身体とともに在る。要するに「精神」とは、多様な「身体」がそこから発生し行動するところの、プールのようなものである。潜在性の充満したこのプールでは、絶えず身体が(あるいは同じことだが、経験や可能性が)生成している。》

《「しかし、なぜ現実では潜在的なものがすべて実現されていないのか?」という疑問に対しては、「現実が質料を持っているからだ」と答えられる。つまり、質料間で生じる摩擦や重力が、熱や電気といったエネルギーの生成を一部だけ可能にしたりまた妨げたりしているように、潜在性は現実性によってつねに阻害bloqueされている。たとえ一瞬の閃光が雷の出現を可能にしたとしても、質料的な現実がその電気エネルギーをただちに阻害するために、雷は無限に増進しもしないし持続もしない。》

●例えば、引用部分で言われている、「身体=経験」と「精神」の関係、そして「精神(code)=可能性」と「潜在性」との関係は、ぼくが昨日や一昨日の日記に書いたある種の階層構造(中間にある媒介から上層と下層へと分離する構造)と関係があるように感じられる。これは、「身体」と「精神」が「経験」を媒介にして関係するということであると同時に、「身体」と「潜在性」が「精神=可能性」を媒介として関係するということでもある、と言っているのではないだろうか。

ここには、階層構造を逆転し得る双方向性があるのではないか。潜在性の全き実現は、質料があることによって阻害されるが、可能性(精神・code)を媒介とすることで、質料のなかにその制限された表現形(身体)を見出すとも言い得る。だがそれだけでは、身体は質料によって制限された(可能性へと縮減された)潜在性(不十分で劣った潜在性、下位の潜在性)に過ぎなくなる。しかし身体は、身体によって可能になる経験(経験の冒険)を通じて己自身を変様させ、それが可能性としての精神(code)に影響を与え、その書き換えを通して、「潜在性の実現のされ方」にまで影響を波及させる可能性があるのではないか。この逆向きの流れによって階層は逆転する。ある身体の経験によって可能性(精神)が書き換えられ、新たな精神を介することで、潜在性からまったく未知の身体が引き出されることが可能になる(よって、さらに未知の経験が可能になり……)、というような。

●ここで言われている精神=可能性というのは、西川アサキの本で共可能性と言われていたものとほぼ同じとみてよいのだろうか。いや、共可能性は現働化や実在化の「条件」のようなもので(つまり質料に近い感じで)、精神=可能性= codeは、実体的紐帯と重なるのか。

以下、引用は『魂と体、脳』から。

《何が共可能であって何が不共可能なのか? 試されているのは、その区別だ。実はそれを決めるためには、「実験」としての「身体=出来事」(=「実体的紐帯」による複合実体内でのモナド間の「支配」関係)が必要になる。なぜそれは「実験」なのか? 実体的紐帯があるモナドを、身体に入れるかそれとも入れないか決めるプロセスを考えよう。中枢のモデルでは、それは実体的紐帯の発生的要素と構造的要素と呼ばれていた。ドゥルーズはそれを、「現働化」と「実在化」と呼んでいる。》

《つまり、「現働化」は、モナド=精神の中での「明るい部分(「特権的な帯域」)と暗い部分の配置」を決めることだ。その意味で、全体は先に与えられ、その上にどのゾーンが明晰でどの領域が混濁したバックグラウンドなのかという分布、つまりクオリアの強度分布(本書で「フレーム」と呼んでいるもの)を配分してゆく。一方、「実在化」は、「物質」の中での出来事の実現であるという。「実現」が何を意味するのか解釈は難しいが、本書ではそれをとりあえず「共可能性の探索」として考える。ある出来事と別の出来事は、矛盾なく共可能なのか? そうではないのか? それは手探りの過程であり「部分から部分に、近いものから遠いものにいたる」からだ。》

《「身体」が必要になるとは、実はこういう意味だと思う。身体は、何が共可能で、何が不共可能なのかを決めるプロセスによって決定される。そのプロセス内部に不確実性をはらんだ「実体的紐帯」によって、身体と魂の区別、支配されるモナドと支配的なモナドの区別を決める。だから、新たに「身体」が必要になるということは、「魂」しかないモナドロジーの観点からみた思考であって、事の本質は、「魂と身体の区別」の不確実性にある。》

●これを、上記のブログの文脈で言いかえると次のようになるのではないか。そもそも潜在性と身体とは明確には識別不能であるからこそ、その一方を上位(潜在性)へ、他方を下位(身体)へと分別する媒介として、内部に不確実性をはらんだ「精神(実体的紐帯)」が要請されるのだ、と。

2012-02-06

●2月に入ってから撮った写真。


f:id:furuyatoshihiro:20120207174653j:image


f:id:furuyatoshihiro:20120207174652j:image


f:id:furuyatoshihiro:20120207174651j:image


f:id:furuyatoshihiro:20120207174650j:image


f:id:furuyatoshihiro:20120207174649j:image


f:id:furuyatoshihiro:20120207174648j:image


f:id:furuyatoshihiro:20120207174647j:image


f:id:furuyatoshihiro:20120207174646j:image


f:id:furuyatoshihiro:20120207174645j:image


f:id:furuyatoshihiro:20120207174644j:image


f:id:furuyatoshihiro:20120207174643j:image


f:id:furuyatoshihiro:20120207174642j:image


●リンチによるデヴィッド・リンチコーヒーコマーシャル

http://www.youtube.com/watch?v=MzMIIjZsHVA&feature=youtu.be

もう一本の方はいかにもっていう感じしかしないけど、こっちはすごい。やっていることはすごくつまんないことで、ワンアイデアとさえ言えない。なのに、完璧に過不足なくリンチの作品になっていると思う。「ああ、これがリンチなんだ」というものを最もシンプルな形で見せられた感じ。顔=イメージというものの不気味さの、こんなにヤバイ領域にまで迫っている作品はそうはないと思う。夢に出てきそう。「すげえ(半笑い)」ではなく、本気ですごいと思う。