偽日記@はてな

2018-09-15

●本の初校ゲラが届いた。このまま予定通りにことが進めば、年末ギリギリ、クリスマスイブくらいに本が出ることになる。

(300ページくらいの本で、値段は、どうしてもちょっと高めになってしまう…)

この本の一番の元になっているのは、西川アサキさんが早稲田大学でやっている文系の人のためのテクノロジーについての講座(「科学技術の論理と倫理」)のうちの一回で、ゲスト講師として呼ばれて講義したもので、それは2013年のことだ。同じ講座で、2014年2015年にもゲスト講師として講義し、さらに2016年に、国際交流基金主催の「科学と文化が消す現実、つくる現実―フィクション、制度、技術、身体の21世紀―」という講座でも発表した。もちろん、まったく同じことを話しているのではなく、内容は少しずつ変化し、付け足されていった。

そして、これらの内容をもとにして、2016年の4月から「けいそうビブリオフィル」というウェブ媒体で「虚構世界はなぜ必要か?」というタイトルで連載がはじまり、三週に一度の更新で、2017年の9月まで、一年半ちかく、25回つづいた。

それがようやく本という形になる、はず。

2018-09-14

YouTubeで観て気になった、最近の若い日本の人のやっている音楽を忘れないようにメモとしてリンクしておく。

小学校の四年か五年くらいの頃にサザンオールスターズが「勝手にシンドバッド」を歌っていたのだけど、それから40年くらい経って、日本語がさらにこんなことにまでなっているということに感慨と驚きを感じてもいる(LUCKY TAPESは英語だけど)。

chelmico「Highlight」

https://www.youtube.com/watch?v=wq6A3sihFkg

chelmicoHoney Bunny」(LIVE)

https://www.youtube.com/watch?v=uQmVpOdsS7k

ラブリーサマーちゃん「202 feat. 泉まくら」

https://www.youtube.com/watch?v=sS99NE4tmPQ

LUCKY TAPES「Gun」

https://www.youtube.com/watch?v=AQ99S83_vmU

PAELLAS「Shooting Star」

https://www.youtube.com/watch?v=UWG8qVylsBc

SUKISHA「感謝の正拳突き(The Punch of Gratitude)」

https://www.youtube.com/watch?v=IzLnJLcy7_A

●最近のやつでも若い人でもないけど、いろいろ観ていて、しらなかったものもみつけた。

七尾旅人×やけのはら「Rollin' Rollin'」

https://www.youtube.com/watch?v=FMoepMqukZQ

やけのはらRELAXIN'」

https://www.youtube.com/watch?v=zXhFwlu_a4A

2018-09-13

●『ダーリン・イン・ザ・フランキス』をネットフリックスで観はじめた。まだ4話まで観ただけだけど、久しぶりに先が気になるアニメを観た、というか、アニメを観て久々におおっとなった感じ。

あからさまな下ネタ(性的な隠喩)の多用(しかもジェンダーバイアスかなりあり)と、あからさまな90年代ガイナックスアニメからの引用(流用)の多用で、その、あからさまさにちょっと引き気味になる(作品の構造があからさまに性的なのに登場人物たちがそのことにまったく無自覚という白々しさがすごい)のだけど、アニメとしてのクオリティはかなり高め。

なにこの「エヴァ」感は、なにこの「トップ2」感は、なにこの「フリクリ」感は、という感じで設定や細部において既視感が随所にあり(どちらかというと庵野っぽいというより鶴巻っぽい)、たんに90年代ガイナックスの今日的バージョンアップみたいな感じにもみえるのだけど、それだけでなく、それが下品なまでに「あからさま」になされていて(というか、あからさまなのに無自覚なふりをする白々しさを意図的に増幅させて演じている感じで)、あきらかに確信犯的にやっていると思うのだけど、それを「今やること」が一体「何に成り得るのか」というところが気になる。

これがほんとに面白いのかどうかはまだ分からないけど、このたくらみが一体とういう風に展開し、どういうところに行きつこうとしているのかということに、(現時点では)興味をひかれている。つまり、90年代ガイナックス意識的になぞるようにはじまったものが、90年代ガイナックス的(あるいは榎戸洋司的)な展開や結末とどのように違う展開をつくり、違う結末を導くことが出来るのか(違う思考としてあり得るのか)に興味がある。この興味が最後まで持続するような作品であることを期待したい。

2018-09-12

ギャラリーαМの村瀬恭子、とてもよかった。実は実物を観るのははじめてで、実物を観てがっかりとかだったら嫌だなあと怖れていたのだけど、よかった。

●何かの内側にいながら、同時にそれを外から見ている。例えば、水に浸かり流れに身を任せながら、流されている自分を外から見ているというような。そういう状態を絵に描くとこうなるのか。

しかしその波立つものはたんなる水の流れではない。それは空間そのものの流れであり、異質な空間のぶつかり合いでもある。その流れは、裏返ったり、表返ったりしている。空間にはいつくも亀裂が走り、その裂け目から裏にあったものが表に現れ、表にあるものが裏へと回り込んだりしている。図と地が反転しているというより、空間の裏と表が、あるいは表面と穴とが、互いに裏返り合っている。

亀裂によって区切られた複数の異なる歪みをみせる空間たちは、各々のテクスチャーによって満たされている。例えて言えば、ある空間はセミの声で満たされ、別の空間は雨上がりの土のにおいで満たされ、また別の空間は風に揺れる木の葉で満たされている、というように。それぞれの空間が波立っているのと同時に、複数の空間たちが波立つようにひしめき合い、ぶつかり合っている。

(空間を満たしているものは視覚的には、粒子のようであり、波のようであり、糸のようであり、毛並みのようであり、タッチのようであり、凹凸のようである。)

そこに人の形が見える。それを「わたし」が外から見ている以上、その人の形をしたものがわたしであるはずがない。しかし同時に、それを見ているのが「わたし」である以上、それはわたしだとしか考えられない。

その形は亀裂の隙間に、あるいは複数の亀裂を貫くように存在している。亀裂によって区切られた空間たちが、各々の固有のテクスチャーで満たされているのに対し、人の形はくり抜かれた空のようにある。人の形は、「〜ではない(満たされていない)」という否定によってのみ定義されるかのようだ。人の形はあくまで「形」としてあり、重みも厚みもなくて、何ものかに満たされ、波打ち、裏返るように動いている空間たち「ではない」ことでネガティブに現れている。ただし、空間と人の形を媒介するような「流れる髪」の部分を除いて(そして、植物や花は、空間の亀裂に沿うように繁茂する)。あるいは、そのネガティブに示される「人の形」によって、異なる空間たちが仮り留めされるように繋がれているとも言える。

(空間は実としてあり、人の形は虚としてあるのだが、実として人の形(身体)の外側にある空間のテクスチャーこそが、反転して、身体の内実そのもの(内側)の現れであるようにも見える。)

人は、質量はないが「形」としてある。そしてそれは、「そこ」にあることでわたしから切り離されているが、同時に、「わたし」でしかあり得ないものであるかのようにそこにある。

2018-09-11

●昨日からのつづき。『精読 アレント全体主義の起源』』(牧野雅彦)、第四章「全体主義の成立」より、引用、メモ。(ア)は、アレントからの引用部分の孫引き

●第三節「体制としての全体主義」から。

●運動体としての全体主義とその矛盾(の解消としての「二重化」)

《運動と区別された意味での全体主義体制アレントの定義上ありえないし、その意味では「全体主義体制」という存在自体が矛盾をはらんでいる。》

《(ア)政府と運動が同時に存在することに内在する困難、全体主義的な要求と限られた領土の限られた権力との共存他国主権相互に尊重する国際的礼譲に表向き加わることと世界支配の要求との共存に内在する困難を解決するのに、その教義の元々の内容を削除するのにまさる方法はない。》

《「廃止しないが無視する」。憲法に対するこうした態度は、全体主義運動がナチ党や共産党綱領に対してとった態度と軌を一にするものであるが、そのことは、全体主義がその本質において運動体であったことを示している。彼らは、運動そのものを規制するような規範を忌避すると同時に、公式の国家とその機構もあくまで運動のための手段として利用する。そうした態度が典型的に現れるのが、国家機構のいわゆる「二重化(duplication)である。》

ナチスは権力掌握前から国家と並行して党を組織していた。たとえばワイマール共和制の邦や州の地域編成に対して、行政区分とは必ずしも一致しない独自の「ガウ」(大管区)を編成するというように。国家と党のそうした二重組織は一九三三年にナチスが権力を掌握した後も存続するばかりか、事実上は国家の公式機関を有名無実化することになる。》

●二重化から多重化へ

《運動をその本質とする全体主義は、権力の掌握の後も、いや権力掌握の後にこそ、外部世界との緩衝装置として利用できる公式の国家を必要とするのである》。

ナチスは旧来の州の区分に加えて「ガウ」を設立しただけにとどまらず、さまざまな党組織ごとに別の地域区分を実施した。その結果、SAの地域単位はガウとも州とも合致せず、さらにSSは別の区分を採用し、ヒトラー青年団の場合と同様に、職務の多重化は権力の恒常的な移動にとって非常に有効な手段となる。それゆえ、全体主義体制が権力にとどまる時間が長期化すればするほど、職務の数は増大し、それだけ実際の職務の運動への依存度は高まることになる》。

《ここでは権威主義体制におけるように権威は政治体の最上部から中間段階を経て最下層へと浸透してはいないのである。(…)その意味において全体主義とその体制は、通常の政治体には常に存在するさまざまな党派や派閥とその権力闘争、権力をめぐるゲームとはまったく無縁の存在である。》

体制内権力集団としての支配的な徒党がまったく欠如していること、少なくとも運動と体制の運営に顕著な役割を果たしていないことは、体制にとっては確定した後継者の不在という深刻な問題をもたらすことになる。》

●効率の無視、全体主義体制は国家ではなくグローバルな(拡張をつづける)運動体であること、公的な「秘密の部分」の必要性。

全体主義の支配する体制においては、統治機構としての効率は無視される。ソビエトロシアの当時の経済状況では、奴隷労働のような労働力を浪費する余裕はなかったし、技術的熟練が深刻に不足していた時にもかかわらず強制収容所に「高度な資格のあるエンジニア」を収容している。純粋功利主義観点からみれば、一九三〇年代の粛正は経済回復を遅らせ、赤軍参謀スタッフの壊滅は、フィンランドとの戦争をほとんど敗北に導くことになった。》

《(…)全体主義国家構造の反功利主義的性格に対するわれわれの当惑の原因は、ここで扱っているのは結局正常な国家---官僚制、専制独裁といった---だという間違った観念にある。自分たちがたまたま権力を握るようになったこの国は国際的運動の一時的な司令部にすぎないし、グローバルな利益はつねに自国領土の地方的利益を上回るのだと強調しているのを見逃している》。

《かくして権力掌握後も運動の論理と組織の基本構造は維持されることになる。フロント組織における党員と同伴者の間の区分は解消されるどころか、あらたなシンパとして組織された住民全体との「調整」の問題に拡大されて再現される。党とシンパの関係が玉葱状に重層化され、それぞれが外部に対するファザードになるという運動の階層構造は維持され、国家機構全体がいわば同伴者官僚となり、市民と外部世界とのファザードとなるのである》。

《ただし違っているのは、権力を掌握した全体主義独裁者はその嘘をより一貫して、かつより大規模に実行できるし、また実行せねばならないことである。》

《そこから逆説的に権力掌握後の組織の秘密結社化が生ずる。ヒトラーは権力掌握以前にはナチ党やそのエリート階層を非合法の謀略集団として組織することに抵抗していたが、一九三三年以降はSS一種秘密結社に転換しようとした。つまり権力掌握前にはヒトラーは彼らの真の目標を隠そうともしなかったが、掌握後にSSを「白日の下の秘密結社」としたのである。(…)全体主義運動の構造は、正常な世界との重層的な緩衝装置を通じて、運動の目標と外部世界との関係を調整することにその本質があった。したがってその運動そのものが権力を掌握して公然化し、みずから公的体制になったとき、かえって正常な外部世界との距離を維持する秘密の部分が必要になるとアレントはいうのである。》

虚構という理想主義

《(…)全体主義イデオロギーはすべて虚構であり、全体主義の組織構造はそういった虚構と嘘をもって外部世界を騙し、支持者大衆を動員する手段にすぎないとはいいきれない(…)「決定的なのは全体主義体制が彼らの外交政策を、いつかはそうした究極目標が達成できるという一貫した想定の下に展開し、どんなにその実現が遠く思われようと、そうした『理想』要求が現在の必要性とどんなに深刻に相反しようとも、けっしてそれを見失わなかったということである。したがっていかなる国も彼らにとっては永遠に外国なのではなく、反対に、潜在的な自国領土と見なされたのである」》。

《(ア)無慈悲というよりは直接的な結果を全く度外視すること、ナショナリズムというよりはどこにも根づかず国民的な利益を無視すること、自己利益の無遠慮な追求ではなくむしろ功利的動機そのものを軽蔑すること、権力欲ではなく「理想主義」、つまりイデオロギー的に仮構された世界に対する揺らぐ事なき信仰なのである---これらすべてが国際政治に新しい要素、たんなる侵略性がもたらす以上の錯乱要素を持ち込んだのである。》

秘密警察

《権力を掌握した全体主義が国家を非全体主義世界に対して国を代表するファザードとして利用するとすれば、多重化した官僚と錯綜した権限の背後に存在する唯一の権力核が警察=秘密警察である。》

《(ア)唯一の権力機関としての警察の役割に対する強調と、これに対応して外見上は大きな権力武器倉庫である軍に対する軽視、これはあらゆる全体主義の特徴であり、部分的には世界支配への全体主義の野望と外国と自国、対外的事項と国内事項の区別の意識的な廃止によって説明できる。》

全体主義下の秘密警察の対象となるのは具体的な反政府活動や抵抗などの容疑者ではなく、潜在的に危険な思想をもった要注意人物でさえない。対象となる者の主観的意図の如何にかかわらず、全体主義イデオロギーとそれに従った政府の政策によって自動的にカテゴライズされる敵なのである。》

《(ア)当初のイデオロギー的に決定された運動の敵が根絶された後にも潜在的な敵のカテゴリーは生き残り、変化した状況に応じて新たな敵が発見される。ナチスユダヤ人の絶滅の完成を見越して、ポーランド人の清算のための準備措置をとっていたし、ヒトラードイツ人の特定カテゴリーの殲滅さえ計画していた。》

秘密警察全体主義国における唯一の公然たる支配階級となり、その価値基準が全体主義の社会全体に浸透することになる。》

《(…)全体主義国において唯一厳密に擁護された秘密、唯一秘教的な知識こそ、警察の機能と強制収容所に関するそれなのであった。》

強制収容所、身をもってそれを体験していない者だけが、それについて考え得る。

《人々を強制収容所と人間そのものを絶滅へと導く過程は次のような段階を経て進行する。》

《まず最初の段階は「法的人格」の剥奪である。特定のカテゴリーの人間が法的保護から排除さる。他方で、強制収容所が正常な処罰システムの外におかれることによって、収容対象者が通常の司法手続きの外に置かれる》。

《次に行われるのが「道徳的な人格」の破壊である。犠牲者に対する家族や友人による追悼や追憶は禁じられ、その存在それ自体が忘却・抹消される。かくして犠牲者は匿名化され、収容者の生死自体を知ることが不可能になり、死は個人の一生の終わりという意味さえ奪われる。》

強制収容所の経験は人間の想像力を超えている。収容された者は「生と死の外側」に存在していて、その実体が「完全な形で報告されることはない、その理由は、生き残った者たちが生の世界に帰ってきても、自分自身の過去の経験を信じること自体が難しくなるからである」》

《(ア)全体主義的支配が論理的にいきつく制度が強制収容所であるとするならば、全体主義を理解するためには「恐怖について考え続ける」ことが不可欠であるように見える。だがそのためには回想録も伝達能力に欠けた目撃者の報告以上に役に立つわけではない。どちらの場合にも、経験したことがらから逃れようとする傾向がそこにはある。(…)身をもってそれを体験していないが、そうした報告に感情をかき立てられる者、つまり獣のような絶望的なテロルからは自由な者のする恐ろしげな想像だけがそうした恐怖について考え続けることができるのだ。本当にそうした恐怖に直面すればたんなる反射的反応以外のすべては麻痺してしまう。》