偽日記@はてな

2017-11-17

●「虚構世界はなぜ必要か?」を本にするための最初の打ち合わせ。まず問題として、今あるボリュームだとけっこう高価な本になってしまうのだが、このボリュームで高い本として出すのか、かなり大きく削ってもう少し手を出しやすい価格の本にするのかという選択がある、と。うーん。

●電車のなかで、必要があって「機械」(横光利一)を読む。前に読んだのがいつだったか忘れたくらいぶりの再読。面白い。前も思ったけど、初期の後藤明生(「関係」や「笑い地獄」)は、この小説から来ているのではないだろうか。ただ、「機械」にはきびきびと削ぎ落とされた鋭さがあり、後藤明生には独自のユーモアがある。

●けっこう疲れているけど、帰ってから短い原稿を一つ書き終えておかないと、明日にやるべきことが出来なくなってしまう。書けるかどうか不安だったが、なんとか書けた。よかった。朝方になってしまったが。これで、土曜と日曜に別のことをやって、日曜の夜中(月曜の朝方)にこの原稿を推敲するための時間がとれる。

●下のリンクのロボット、なかに人がはいっているとしか思えない動き。最後のコケ方も含めて人っぽい。「ボストン・ダイナミクスのヒト型ロボットが、なんと「バク宙」するまでに進化した(動画あり)」(WIRED)

https://wired.jp/2017/11/17/atlas-robot-does-backflips-now/

●そして、量子コンピュータも近い。AIロボットによって人間に近い身体をもって物理空間に入り込むとき、おそらく大きく何かが変わる。今こそ、真剣にカーツワイルを読み直す(真に受ける)時ではないか。

グーグルIBM量子コンピューターの事業化を競う謎の新興企業(MITテクノロジーレビュー)

MIT Tech Review: グーグル、IBMと量子コンピューターの事業化を競う謎の新興企業

●追記。これ、面白い。「6 ways mushrooms can save the world」(TED)。日本語字幕、あり。

https://www.ted.com/talks/paul_stamets_on_6_ways_mushrooms_can_save_the_world#t-166136

2017-11-16

●具体的な内容は恥ずかしいので書かないが(というか、感触の具体性はすぐに干からびて遠のいていってしまい、形骸化するのだが)、とても幸福な夢をみて目覚めた後というのは、ああ、あれは夢だったのかという、未だからだじゅうに満ちている幸福の余韻のなかに染みのようにぽつりと浮かぶ落胆というか、残念さというか、切なさであり、それがじわじわと広がっていく感触であるのだけど(そして幸福はじわじわと、しかし跡形もなく去っていくのだけど)、同時に、自分はあんなようなことを(あんなような状態を)望んでいるのかという、「なんだよお前は」みたいな「呆れ」の感覚であり、気恥ずかしさであり、苦笑のような感じでもあって、そしてそこには、それは「現実」としては決して存在しないもの(状態)なんだ、その幸福への希求には行き先がないんだという、そういう諦観と痛切が混じっている。

人間というもの(それはつまり「わたし」ということなのだけど)の根本的な「頭の悪さ」が、世界の諸悪の根源なのではないかという気持ちをいつも抱いているのだけど、しかしもう一方で、人間の(つまり「わたし」の)頭の中味が必要以上に複雑になり過ぎていて、そこに発生する欲望や感情が、この世界のなかで指示対象を失ってしまっているのではないかという感じを、このような夢の後にいつも感じる。

2017-11-15

●最近やっているドローイングのシリーズは、自分ではちょっと面白いのではないかという手ごたえもあるのだけど、ただ、ちょっと足りないのが、フラクタル構造のようなものが自然に生成されるような感じにならないのかなあ、とは思っている。

(意識的フラクタル的な構造をつくることはむつかしくないが、それではたんに「フラクタル画像」にすぎない。)

たとえば、井上実の絵画はそうなっている。一つの平面に、異なる階層が同時に現前してしまっているような感じがある。異なる階層というのは、異なるレイヤーというのとは違う。異なるレイヤー共存している絵画など、今では既にありふれている。そうではなく、雑なたとえ方になるけど、「ニワトリ」と「鳥」と「動物」とが、一枚の絵のなかで、同じ強さで並列的に現前しているという感じになっている。だから観ているとほんとうにくらくらする。井上作品の異様な密度はおそらくそこから来ている(たんに、描写の細密さからくるわけではない、それだったら8K映像とかには勝てない)。ぼくが知る限りでは、現役の作家で井上実以外にそれができている作品をつくっている人はいない。

(こんなにすごい画家がほとんど話題になっていないのは理不尽としか思えない。)

井上くんは、おそらくそれを意識してやっているわけではない。井上実システムで絵を描いていくと、自ずとそうなっていくのだと思われる。ただ、その「井上実システム」には、そのシステムに不可欠な一部として実在的な井上実が含まれているから、それをたとえばぼくが真似したとしても、同じようにはならない。だからぼくは、自分がそのなかに含まれても可能である、フラクタル的構造生成システムをみつけださないといけない。まだまだだなあ、と。

●INOUE MINORU WORKS

http://inoueminoru.wixsite.com/kaiga/works

2017-11-14

●いきなり今朝から、三分から五分に一通くらいの間隔で携帯(ガラケーです)に迷惑メールが届くようになって、携帯が四六時中ビービ―鳴っていて、というかビービ―震えていて、ずっと無視していたのだけど夜遅くになっても止まなくて、さすがにうざくなって電源を切った。

しばらくは、基本として電源オフにして、たまに着信をチェックするくらいにして様子をみると思います。携帯のアドレスにメールをもらっても、おそらく迷惑メールの山に埋もれて気づくことができないと思われるので、連絡はPCのメールアドレスCメールにお願いしたいと思います。

カメラもつかえなくなってしまったし、さすがにそろそろスマホにすべきなのか。

(人との待ち合わせの時以外では、ほぼ、カメラと時計と駅探でしか使っていないのだけど。)

スマホタブレットもないと、都心までの長い移動時間にネットの記事がチェックできないという不都合はある。「移動している間にこの記事を読んでおこう」と思うと、記事をコピーして、テキストにし、PDFに変換してからUSBメモリに入れて部屋を出て、駅前のセブンイレブンのコピー機でプリントアウトし、それを電車のなかで読む、という面倒な行程を経ることになる。ただ、紙に書かれた文章の方が、ぼくには圧倒的に読みやすい(色違いの書き込みが自由に出来るし)ということはあるのだけど。

●紙と言えば、その本が今すぐ必要で、持っているはずなのに、見つからない、という問題は深刻だ。近所の図書館にもあるようなものならいいのだが、しかるべき場所まで行かないと閲覧できないようなものだと、「その時間」がない。「家にある」と思っているから、その時間分を想定に入れていない。きちんと整理してしまっておかないからいけないのだけど、そもそも、きちんと整理してしまっておけるほどスペースに余裕がない。探しているうちに、「あ、この本、ここにあったのか」とか思って別の本のところで手が止まる。

2017-11-13

●もっと別のことを考えるつもりだったし、考えなくてはならないのに、変なことを考えているうちに時間が経ってしまった。まったく的外れなことをしているのかもしれない。

(こういう妙な図を書き出すのは、典型的な「引かれる」パターンだが…。)

ハーマンは『四方対象』で、「実在(脱去)/感覚(現前)」と「対象(一)/性質(多)」という二つの二元論を掛け合わせて、感覚的対象(現前する一)、感覚的性質(現前する多)、実在的対象(脱去する一)、実在的性質(脱去する多)という、世界の四つの極(側面)を提示する。

「対象」とは、多くの構成要素からなるが、しかしたんにその足し合わせには還元されないそれ自身としての何かを創発していて、かつその創発されたものが、周囲のものたちとの関係のなかにありながら、関係性に埋没しない一つの自律性を持続しつづけるもののこと。対象は諸部分を持つが、部分には還元されず(下方解体されず)、対象は諸関係のなかで位置や機能や役割を持つが、その関係に埋没しない(上方解体されない)。対象は、多としてある一であり、多のなかでも一である。

感覚的性質とは、一つの対象がみせる様々に異なる性質であり、感覚的対象とは、その都度、様々な性質をみせるにもかかわらず、それが同一の対象として現前しているということを指す。しかし、実在する対象は、その全貌を現前させることは決してなく、何者とも関係せずに、ただ自分自身であることにひきこもっている。感覚的対象は、そのような実在的対象のごく限られた側面だけが、歪曲した形で翻訳されたものにすぎず、実在的対象は決して汲み尽くされない。実在的性質とは、そのような、完全に自分自身に引きこもっている実在的対象でさえもまた、様々な諸部分から構成されていることを指す。

この関係は、下のような四象限であらわすことができるだろう。


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●感覚的対象(SO)、感覚的性質(SQ)、実在的対象(RO)、実在的性質(RQ)という四つの側面は、それぞれの10パターンの組み合わせにより、四種類の緊張、三種類の放射、三種類の接合という関係をもつ。例えば、一つの感覚的対象が、様々な異なる感覚的性質によって現前され、にもかかわらずそれは一つの対象としてみなされるので、感覚的対象と感覚的性質の間には分裂があり、緊張関係がある。しかし、実在的対象が、様々な実在的性質からなるとしても、それらはそもそも現前しないので、対象はたんに性質たちの融合(接合)としてあっても矛盾はなく、よって分裂はなく、緊張関係もない、とされる。

そして、世界の四種類の側面たちの10種類の関係のなかで、唯一「直接的な関係」が可能なのが、実在的対象と感覚的対象の間の関係であるとされる。

このような事柄を、上の四象限の図を、実在的対象の領域を軸として鏡像的に反転して上に重ねた図として表現できる。


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しかも、この関係は非対称的である。感覚的対象は、実在的対象の歪曲された翻訳でしかなく、しかも感覚的対象は、実在的対象の「志向」のなかにのみ存在する対象であるので、ここでの出会いは「実在的対象→感覚的対象」という、一方通行の出会いでしかない。ハーマンは、人や生物、自然物以外の、あらゆる実在的物に「志向性」を認めるので、実在的な人が、感覚的な木に出会うと同時に、実在的な木が、感覚的な人に出会うということもあり得る、とする。しかしその出会いは、「人⇔木」という双方向的なものではなく、「人→木」であるか、あるいは「木→人」である、という風に、二つのそれぞれ異なる出会い(別の関係)ということになる。

しかしこの時、実在的な人と、実在的な木とが、間に「感覚的な木」という媒介を挟むことで、代替的(間接的)に関係しているとは言える。実在的対象(A)は、感覚的対象(B’)を媒介とすることで、間接的、代替的に、実在的対象(B)と関係している。

これを、上の鏡像反転をさらに増殖させたグリッドを使って、下のように表すことができる。


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●そして、『四方対象』には、《どんな関係も直ちに新しい一つの対象を生みだすものである》(P181)と書かれている。つまりこの、実在的対象(A)と実在的対象(B)との、感覚的対象(B’)を介した代替的関係から、あらたな実在的対象が創発されて、生まれる。というか、この「関係」そのものが、一つ上位の階層での「対象」となる。

このことは、下の図のように書ける。


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●しかし、ハーマンは次のようにも書くのだ。《私が木を知覚するとき、この感覚的対象と私は、私の心のなかでお互いに出会っているわけではない。理由は単純で、私の心とその対象は志向という働きにおける二つの対等なパートナーであり、それらを統一する項はその双方をともに含んでいなければならないからである。心が部分であると同時に全体であることは不可能である。その代わりに、心とその対象はともにより大きな何かに包括される。すなわち、両者はいずれも、私と実在的な木との関係を通じて形成される対象に内に存在する》(P179〜180)。つまり、二つの対等な項の出会いが、一つ上位の対象を創発するということと同時に、一つ上位の対象が、第三項(パースで言えば「解釈項」的な対象)となって、それによって下位の階層で二つの対象の代替的な出会いが実現するとも言える。

つまり、下の図のように、矢印は逆向きでもあり得る。


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●これらを考え合わせると、「一方が脱去する非対称的二項関係」が、階層をまたいで「二つ連結する」ことで生じる「三項関係」ということを考えることができる。ハーマンは、《心が部分であると同時に全体であることは不可能である》と書くのだが、一方で次のようにも書く。《しかし、私と木の関係が一つの新しい対象を形成するとすれば、その対象の実在的な部分としての私は、この対象の内に自らを見出し、[この関係の]もう一方の部分の単なるイメージと対峙することになるのである。》(P182)

このことはおそらく、下の図のように描けるのではないか。


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