偽日記@はてな

2018-11-11

●12日に鼎談のために、『制作へ』(上妻世海)を、ノートをとったり、他の資料と付き合わせたりしながら改めて読み返して過ごす。そして、買ってはあったけどまだ読めてなかった、鼎談のもう一人の参加者である奥野克巳さんの本(『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』)もようやく読めたのだけど、これはとても面白い本だ。

2018-11-10

横浜日ノ出町シャノアールで『半島論』(響文社)の刊行イベント(前嵩西一馬、中村剛彦、中里勇太、古谷利裕)。小さなバーのようなスペースでこぢんまりとやる感じだとイメージしていたのだけど、会場は思ったよりゆったりとして広く、人もけっこうたくさん来てくれた(開場前に通り雨のような強い雨がいきなり降り出したのでどうなるかと思ったが)。出版社が用意した本は完売したそうで、販売促進のイベントとしてもよかったのではないいか。

予定としては、三人のパネラーが一人10分から15分くらいのプレゼンをして、それを受けて、司会の中里さんも含めて四人で話しをするということ(それと、ピアノの演奏と詩の朗読)だったのだけど、ありがちなことだけど、一人一人のプレゼンが長引いて、四人でトークできる時間はとても短かった。

とはいえ、(自分のした話が面白いかどうかは自分ではわからないが)それぞれのプレゼンはかなり面白かったのではないかと思う。ぼくは、面白いと思った。

●中村剛彦さんがテキストで書いているのだけど、三浦半島東京(帝都)にとても近いことで横須賀軍事的に非常に重要な港となり、そのために東京から岬の先まで兵器や兵士を輸送するための鉄道網が発達して、その鉄道網の発達の副産物のようにして、中央の文壇からやや距離を置きたい文学者たちが、三浦半島の根元である鎌倉に多く集まって(流れて)くることになった、と。まさに、近代、軍事鉄道文学、という関係がわかりやすく三浦半島に集約されているので、ここらへんの話はもう少し深く掘っても面白いのかなあと思った。

●あと、何日か前にYouTubeで、スリムクラブ沖縄ダークあるあるという動画を観て、なんというか、とてもモヤモヤした気持ちになった。これは、沖縄の人にしか分からない沖縄に親和的なネタでありつつ、しかし、全体のフレームとしては沖縄の人に向けられたネタではない---むしろ沖縄は異質な場所としていじられることで排除される(とはいえ、これは差異を提示することで行われるコミュニケーションともとれて、排除とまで言えるかどうかは微妙、しかし明らかにフレームとして中央集権的な構図ではある)---という複雑な構造をもつ、なんとも微妙な感じ。

沖縄県民だけ爆笑www スリムクラブ 沖縄ダークあるある 1/3〜3/3(YouTube)

https://www.youtube.com/watch?v=V2awRzC2tnk

https://www.youtube.com/watch?v=W4dJ_BMLyEI

https://www.youtube.com/watch?v=hWbzjR55pHY

何かをあらわにすると同時に隠蔽し、解放すると同時に抑圧し、親和性を示すと同時に排除の身振りでもあり、権力への抵抗であると同時に従属の身振りでもあるというような、「笑い」というものの複雑で多義的な組成に触れるようで、このなんともモヤモヤする感じについて、前嵩西一馬さんの意見をお聞きしたかった。

2018-11-09

●用事に追われていてストレスと感じるのは、この日記をゆっくりと書いている時間がとれないということだと気がついた。この日記はとくに何の目的もなく、定められた形もなく、ただ考えたことを書き、書くことによって考えるために書くのだが(そのように考えたり書いたりしたものを、後からなにかしらの目的のために流用することはあるのだが、この日記自体は、なにかの目的に向けて書かれているのではない)、目的のある用事に追われていると、そのような時間をつくることが難しくなる。

用事に追われているとか忙しいとか言ってもたかがしれているわけで、けっこうぼんやり音楽を聴いていたり散歩していたりもするわけだけど、目的があったり、締め切りがあったり、約束があったりする行為に追われていると、そういうこととは関係なく、ただ思いついたり、考えたり、調べたりするという方向へ頭が向かいにくくなる。なにより、ただ考えたり書いたりしているときは、通常の意味で「時間を気にする」ということがなくなっているので、知らない間にかなり時間がたっている。それは、一時間だけ散歩をしてこようとか、二十分くらい休憩しようとかいうように、一定の時間を区切ってでは行えないようなことだ。ぱっと思いついて、さっと書いて終わりということもあれば、やばい沼にはまって、これはなんか違うなあといろいろ直しているうちに一日が過ぎて、けっきょくすべてボツにしてしまうこともある。なんの約束もないから、すべてボツにしても特に困ることはない。

(いったいどれだけの時間を、まったく日の目を見ないもののための行為に費やしてきたのだろうか。)

目的や締め切りや約束があることばかりをしていると、そっちの方から来る限定が強く効き過ぎてしまうようになり、「ただ考える」ということが抑制されてしまいがちになる。目的や締め切りや約束そのものが問題だというわけではなく、そっちの方から来る限定に頭の使い方が拘束されてしまうことがストレスであり、問題なのだろうと思う。

(とはいえ、目的や締め切りや約束がまったくない場合、目的のない沼のなかにどこまでも埋没してしまうということにもなりかねない。これは程度の問題だ。)

2018-11-08

●金網と夕方。



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2018-11-07

●ずっと、『半島論』のイベントと、その翌々日の鼎談の準備。もともとしゃべるのは苦手なのだけど、自分一人でしゃべるのではなく、複数の人と話す場合、他の人がどんなことを言うのかを事前に予測できないので、準備といっても、何をどこまでしていいのか分からなくなって、準備も注意も拡散してしまいがちだ。

●以下、『半島論』に収録されている「突端・行き止まり・迷路・穴・模造/『海辺へ行く道』シリーズの半島的空間性」の冒頭部分。

《一 「半島」のフォーマリズム

半島(岬)とは、形態的に考えれば海へと突きだした陸地であり、その反転形として陸地へと食い込んだ海として、入り江(湾)という形があると言えるでしょう。この、岬(陸)と湾(水)という反転的な形態のペアを、襞のように細かく、細長くしてうんと拡張してゆくならば、海に流れ込む大河によって区分けされる土地ともなり、縮小すればリアス式海岸や港に並ぶ突堤と同型となり、さらに、運河が縦横に通り、運河によって区分けされた街というようなイメージにまで、その同型性は拡張されていくでしょう。

とはいえこのようなフラクタル的なイメージの拡大や縮小は、半島と入り江という反転的イメージがペアとなっていて、それがいくつも並列的に並んでいるという条件の元で可能になります。しかし通常、半島という言葉のもつイメージとしては、単独に海へと突きだした土地としてあるようなものでしょう。そうだとしても、半島を入り江との反転的ペアとその並列として考えることにより、あらゆる空間のなかに、そして様々なスケールにおいて、形態的類似性としての準-半島(準-入り江)という形を見いだすことが可能になります。》