偽日記@はてな

2018-07-19

●この真夏な感じ。


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2018-07-18

●いまさらながらふと気づいたのだが、デジタルで絵を描いた場合、そうしようと思えば、制作過程のすべての段階を(ことなるバージョンとして)データとして残すことも可能ということになる。マティスは、1945年のマーク画廊での個展の時、完成した作品とならべて、その制作過程を撮影した写真を同時に展示し、その写真は今でものこっているわけだけど、そのような、不連続的で粗い「過程」ではなく、最初の一筆から最後の一筆まで、その順番どおりにすべて保存できる。そこには、作品の生成過程のすべて、逡巡や、停滞や、方向転換や修正のあり様までを、データで保存し、後からそれを再生することもできるということだ。

(これが、制作過程のすべてを映像として撮影していることと異なるのは、あらゆる瞬間の状態が、ただ再生可能であるだけでなく、オリジナルなデータとして残っているので、後から、途中のどの段階にでも戻れて、そこからやり直すこともできるということだ。そのデータがオープンにされていれば、描いた本人でなく、他の誰でもが、そのどの段階からでも、描き加えて、別のバージョンをつくることができる。)

通常、作品をつくる人でも、その製作過程のすべてを覚えているわけではないので、一度出来上がってしまえば、作品はそれをつくった作者にとっても「事後性」を帯びたものとしてしかとらえられない。おそらく、途中の段階の都合の悪いところをけっこう調子よく忘れていたりするだろうと思う。そしてこの(やってしまったことを)「忘れている」ということは、些細なことでも何か「新しいもの」が生まれるために、けっこう重要なことだと思う。

しかし、作品の制作過程、作品がこの世界に出来する因果的由来(来歴)のすべてが、完全に記録され、それを漏れなく遡行できるとしたら、それでも、作品を「事後性」(時間の不可逆性によって生まれる何か新たなもの)をもつものとして捉えることができるのだろうか。

確かに、「この瞬間に何かが決定的に変わった(生まれた)」という、その一筆を特定できるのかもしれない。それは、どんなに滑らかに連続的に進行してもなお刻みこまれる、不連続な飛躍(切断)のしるしと言えるかもしれない。そのような飛躍(切断)がある限り、事後性は確保されるのかもしれない。

しかし、そのようにして、作品から「秘密」と呼べるものの一切が失われたとしたら、それでも作品は、「作品」としてあり得るのだろうか。ここで秘密とは、作品をつくっている者に対する、作品からの「秘密」のことだが。作者に対して作品が秘密をもたなくなっても(完全にオープンになっても)、作者は作品をつくれるのだろうか。

ぼくなんかが二十年以上も考えつづけてきた「絵画」というものの意味が(それはやはりある種の物質性に依存しているのかもしれない)、塵のようにふきとんでしまうという可能性すらある。デジタルは恐ろしい。

2018-07-17

●過去の自分が『君の名は。』について書いた文章を、読み返し、書き直すことで、『君の名は。』という作品がいかにすごいのかということを、改めてひしひしと感じ直す、という経験をした。

(その前提として、そこに至るまでの「虚構世界はなぜ必要か?」を、読み返し、書き直す、という作業があった上でのことだけど。)

(「虚構世界はなぜ必要か?」の、読み直し、書き直しをつづけて、終盤まで来ると、この連載が直接的に「「幽体離脱」の芸術論への助走」とつながっているということも、改めて感じる。というか、ぼくは結局ずっと、幽体離脱の話しかしてないじゃん、みたいに感じる。)

2018-07-16

●用事で図書館に行き、書架をぶらぶらしていて目についてなんとなく借りてきていた米澤穂信の『リカーシブル』という小説を、なんとなく読んだ。米澤穂信の小説を読むのは何年ぶりだろうか(この小説は五年前に出たものだ)。

実に米澤穂信らしい小説で、ネガティブ諦観と屈折と皮肉に満ちながらも、全面的にだらしなくそちらに流れてしまわない理知的な抑制が常に保たれている。表面に出ているネガティブな調子が、潜在的なポジティブな強さによって支えられ、あるいは逆に、表面にある理知的な抑制が、かえってその背後で働いている感情の不安定さ(不定形さ)を予想させるといった感じの、絶妙なバランスで、作品全体として絶望と希望とが相殺されてゼロ状態になるという、米沢穂信的な独自の感触が味わえた。

すばらしい作品というのとはちょっと違うけど、非常に稀有な形で成熟した文化的な産物という感じで、とても味わい深い。表面の触感とは逆のものがその奥で常に働いていることを感じさせる文体というか、作風は、ちょっと他にはないものだなあと思う。中学生や高校生を話者として、この感じで書くということも、この独特の感じにつながっているように思う。十代だからこその、装われた(というより、否応もなく強いられた)老成感のリアルさ。

2018-07-15

●一日中、「虚構世界はなぜ必要か?」の改稿をしていて、夜寝る前に『ツイン・ピークス: リミテッド・イベント・シリーズ』の一話分か二話分を観て寝るという感じ。

リンチは今まで、劇場用映画、テレビドラマ、アート系のショートフィルムをつくっていて(他にも、絵を描いたり、家具をつくったりもしているけど)、それらはそれぞれ得意な作品であったとしても、それが属するジャンルの慣習のようなものに一応従った形式を、少なくとも意識はされてつくられてきた。しかし、『インランド・エンパイア』では、それらの境界が溶けだして一体化しているような感じになっていた。そして、新しい「ツイン・ピークス」では、境界が溶けて混じりあうというより、それら異なる形式が無頓着に併置されているような感じになっている。普通に、テレビのコメディドラマのような場面もあれば、よくわからないアート系フィルムみたいなところもあって、それが説明抜きにどの程度繋がっているかどうか分からない感じで、並んでいる。

そしてそれをぼくは、「やりたい放題だな」と思いながらも、普通に受けて入れている。これを普通に受け入れて面白がっているということが、そもそもかなり変なことだ。