偽日記@はてな

2018-04-19

●つづき。マティス「Pink Nude」(1935)のプロセスの解析(4)。これで完結。

●十三枚目(State 18)。前の段階で、パキバキッとした線とやや記号化された形にすることで、水平、垂直性的な制御と「捻じれ」との折り合いをある程度をつけることの出来た(上手く収まる感じになった)人体に、今度はまた、可能な範囲でやわらかくなまなましい感触(描写性)を付与しようという試みがなされていると思われる。ほぼ直線に近づけられた背中のラインに複雑な変化が見られるようになり、ざっくりとした線が引かれていたお腹のラインにも、より緊張感のあるフォルムが探られている。それによりパキッと折られたような「捻じれ」に、また滑らかさが戻っている。

胴の部分の輪郭的なラインは複雑になったが、それに対して、右脚の伸びる方向がほぼ水平に変化することによって、胸元から(フレームの外にあって予測される)右脚のひざまでがまっすぐにつながるようになり、身体の軸の水平性は増している。さらに、垂直的に立ち上がる左脚の形がシャープになり、かつ、左ひざの先が尖った形になることで、垂直的な方向への動きもより強調されている。

人体のなまなましさと、水平、垂直性による制御との折り合いはある程度ついているように思われるが、しかし、「捻じれ」の滑らかさが戻ってくると、今度は背景の平面性との折り合いが難しくなってくるように思われる。

おそらく、身体のなまなましさを取り戻す方向の一つとして、あまりにもそっけなくノッペラボウだった顔に表情が描きいれられる。当初の、写生的で自然な表情とも違い、途中であった彫刻的な堅い表情とも違う、無表情に近いのだが独特の表情のある不思議な顔になっている。


f:id:furuyatoshihiro:20180421021513j:image


●十四枚目(State 20)。ここは、肉感的ななまなましさをもち、滑らかな「捻じれ」をもつ人体と、背景の平面性との折り合いをなんとかつけようと---部分、部分で---色々と試みているうちに、人体のもつ、「一つの身体」としての連続性や統合性が少し緩んでしまった、という段階であるように見える。この人体の分裂を、(人体の部分だけを見れば)それ自体で面白いと見ることもできるが、水平性の軸はかなりあいまいになり、ゴムでできた身体のように見えるようになってしまっているとも言える(それを感じさせる最も大きな理由は、頭部と首の傾きの中途半端さだろうか)。

それにより、(この絵を統合しているのはやはり「人体」であるので)画面全体での絵としての統合性はかなり緩んできていて、このまま進んでいくと破綻してしまう(背景と人体とが乖離してしまう)かもしれない、けっこう危険な状態に陥っていると思われる。たとえば、人体の軸の水平性が曖昧になってたいるだけでなく、右手や左脚のつくる垂直性も弱まってしまっている。

(人体と背景との折り合いを、部分部分でつけようとする試みが、全体としての人体と背景との関係を壊しかねない状態を招いてしまっているように思われる。)


f:id:furuyatoshihiro:20180421021509j:image


●十五枚目(State 21)。前段階の危険性を受けて、ここではまた、大胆な軌道修正(飛躍)が行われている。人体の軸の水平性が、画面のほぼ真ん中を左右に貫くような形で、とても強く強調される。一方、右手や左脚のつくる垂直性はややマイルドに抑えられていることで、人体的なやわらかさ、有機的な感じも失っていない。しかし、左腕の輪郭線がほぼフレームと縦と一致するなどして、左腕のつくる垂直性は強調されているので、人体の垂直性は全体としては保たれている。前の段階ではうねうねとしていた線によって描かれていた人体が、ここでは、思い切りのよいきっぱりした線によって形づくられた、きっぱりしたフォルムに置き換えられている。中途半端な首の傾きも修正されていて、あまり良いと思えなかった顔の表情も消され、人体からぐにゃぐにゃした感じは完全に払しょくされた。

きっぱりとした線による単純化されたフォルムではあるが、「State 17」の時のようなパキバキッとした線ではなく、やわらかさと弾力性をもった線で人体が捉えられている。人体の後ろにある、イスの背凭れや花もまた、ここで改めて捉えなおされている。

なによりここで、画面の中心に人体の軸の水平性がきっぱりと明確に通されることで、画面全体に活気が生まれ、そして、背景の平面性や格子模様との関係も、たんに折り合いがついているというだけでなく、互いに協働し合う相乗的な関係が発生しているように見える。この修正により、一挙に完成が見えたのではないかと思われる。というか、ぼくには、完成されたバージョンよりも、この段階の方が良いように感じられる。

ここでは、平面化され、対象性もほとんど失って抽象化した背景と、ある程度平面化され、単純化されながらも、対象のリアルな生々しさや肉感性、立体感というよりは「ふくらみ」の感覚などを失っていない人体とが、画面のフレームそのものも巻き込んだ、水平性と垂直性による統合原理によって共存が可能になり、それもただ共存しているだけでなく、二つの異質なものが、互いに相手を活気づけ合っている状態が生まれているように思われる。

(ただし、このきっぱりした水平性の導入によって、人体の「捻じれ」は放棄されることになる。あるいは、「捻じれ」の感覚は、立ち上がる頭部とその正面性、右腕、左腕の---人体の構造上ではありえない---関係によって、胸より上の部分でのみ表現されている、とは言える。)


f:id:furuyatoshihiro:20180421021505j:image


●十六枚目(State 22)、「definitive」。この完成した状態で、前の段階から最も大きく変化しているところは、(顔が描き入れられたという以上に)背中から尻、右脚の下の線の連なりのつくる、下に向かってずり落ちていくような形態であろう。そして、この形態がこの絵に与えているものは、まさに「ずり落ちる」ような人体の肉の重さであり、重力の作用であろう。おそらく、この「重さ」の獲得によって(背景の平面性と、全体の水平、垂直の原理と、重力との共存の達成によって)、マティスはこの絵を完成としたのではないかと推測する。お腹のラインも、背中に引っ張られるように、すこしだけ沈んでいる(その反作用として左肩のラインがやや上向きに彎曲している)、この微妙な表情がより繊細に重力を感じさせる。

背中のラインが、水平、垂直性の原理とは異なる動き(重力による沈み込み)を形作っている分、それ以外のところでは、前の段階よりもより水平、垂直性が(特に垂直性が)強調されている。左脚はより垂直に立ち上がり、腹から右脚がつくる水平線と十字にクロスしているし、右腕の立ち上がりも頭部(顔)の傾きも、前の段階に比べて垂直性が増している。

顔の部分に、考えられる限り最も「そっけない」感じで表情が描きこまれているが、これは、顔が画面の方を向いているという正面性を強調するためだけに絵がれていると思われる。頭部と首の立ち上がる角度は、前の段階と比べてもさらにいっそう、構造上であり得ない角度になっている(しかも顔は画面に対し真正面に向いている)が、この、頭部(顔)のあり得ない角度と正面性が、右腕、左腕のポーズとの間につくる関係によって、(自然に人体を描こうとすると「捻じれ」は「腰」のあたりに現われるのだが)人体のどこも「捩じれていない」にも関わらず、人体全体をみると、あたかも「捻じれ」の動きがあるように感じられる、という状態を生じさせているように、ぼくには感じられる。

つまりこの完成した段階でマティスは、格子模様によるフレームへの強い意識を感じさせる、抽象化された平面的な色面のフィールドのなかに、なまなましい肉感性とふくらみをもった人体と、その肉のもつ重み(重力)の感覚を調和的に共存させ、かつ、平面的なフィールドのなかに、人体のなめらかな「捻じれ」の動きさえも可能にするということを達成した。三次元的な出来事である「捻じれ」を、きわめて平面性の高い状態で生じさせることに成功したと言えるのではないか。


f:id:furuyatoshihiro:20180421021501j:image

2018-04-18

●一昨日からのつづき。マティス「Pink Nude」(1935)のプロセスの解析(3)。

●九枚目(State 14)。前の段階(State 12)では体のなかに埋まっていたような頭部(顔)が、適切な位置に移動される。とはいえ、首がこんなに垂直に立っていて、かつ正面を向いているというのは人体の構造上かなり無理がある(ただ、顔の正面性はこの絵においてとても重要な要素だろう)。顔の立ち上がりに対して、右の乳房が適切な位置に移動される。顔の描き込みは、最初の「State 1」の写実されたような自然な表情から、目鼻立ちのくっきりした堅い表情の彫刻のような顔つきに変化する。

前の段階でずん胴だった体型に、胴の部分にくびれがもたらされるが、体全体(体の軸)の方向としては水平的であることが保たれていて、当初の、上半身の方へと体重がかけられている状態は破棄されたと分かる。「State 8」の段階からフレームを大きくはみ出ていた左腕が、フレーム内に収められる。フレーム内へと収納された左腕のフォルムもまた、体の軸の水平性と共働したものだろう。そしてこの左腕は役割として、マット(地面)との関係で体の重さを支えているというより、フレームとの関係で体(重さ)を支える機能も担っている。右脚の折り曲げの角度が緩められ、結果として、左の脇の下、尻、右脚とフレームの交差する地点という三点が、ほぼ水平に横並びになる。全体として、前の段階で示された方針(水平性---人体の軸---と、垂直性--頭部と右腕の立ち上がり----の交差による、画面の制御)に基づいて、様々な細部が調整されているという感じ。

そして、人体の軸の水平化と同期するように、背景のフィールドの格子模様が、垂直と水平に描き直されている。人体の後ろにある、花と花瓶、それが置かれたイスの背凭れは、対象性をほとんど失って抽象化されている。つまり、この画面で対象性を保っているのは、人体だけという感じになっている。


f:id:furuyatoshihiro:20180419142743j:image


十枚目(State 15)。この段階での、前の段階に対する大きな変化は、ほぼ垂直に立っていた頭部(顔)が、やや傾けられたことと、それに対応するように、人体の軸が、水平だった状態から、やや下半身に重心(重さ)がかかった状態へと変化していることだろう。きりっとした形で引き締められていた胴から腰、尻のフォルムが、洋ナシのようになめらかな形になって尻の重さを感じさせ、かつ、腰の角度が少しだけ画面側の方向に開くように変化していることで、腰から尻のあたりの重さが強調されている。

(最初、上半身の方へ重さがかかる状態としてはじめられたこの絵は、途中---「State 12」---で軸が水平になり、ここに至ってとうとう逆転して、下半身に重心がかかるようになった。)

ただ、どちらかというと重心が下半身より、ということで、頭部の傾きにより、上半身(頭部、肩、胸のあたり)の重さも感じさせるようになっている。つまり、「State 12」で極端に変更された方針が、ここではまた、やや後退して、少しだけ元の方向へと戻ろうとしている感じ(方針の揺れ戻し)がみてとれる。

人物の背後のイスの背凭れは、完全に抽象的な装飾模様と化している。


f:id:furuyatoshihiro:20180419142738j:image


●十一枚目(State 16)。ここではまた、(「State 11」以来に)人体の「捻じれ」が復活している。抑圧されては、何度も回帰する「捻じれ」。腰の角度が、また画面奥の方へ倒れる方向に変更されて、それと逆向きの「捩じる」力として、左腕がフレームの外に飛び出るくらい開いている。ただ、以前の「State 11」と決定的に違うのは、(少しだけ下半身の方への重心の傾きがあるものの)人体の軸の水平性をほぼ保ったままで、「捻じれ」を導入しようとしているところだろう。頭部(顔)の角度がまた、少し立ち上がっているのも、水平性、垂直性による制御と、人体の「捻じれ」とを共存させるための、画面全体としての力の配分の調整によるものだろう。

人体の洋ナシのような滑らかな形は廃棄され、また、引き締めのあるフォルムに戻されている。ここらあたりの段階では、様々な方針の行き戻り(揺れ)がみられるが、それでも、基本方針として「水平性と垂直性による画面の制御」という方向性はほぼ定まっていて、その絞られた方針のなかで、様々な可能性や力のバランスの調整が試されて(試行錯誤がなされて)いるという感じだ。


f:id:furuyatoshihiro:20180419142733j:image


●十二枚目(State 17)。ここまでの展開のなかで、画面に描き込まれた様々なものの対象性が次第に失われ、抽象化していったものの、人体だけはずっと一貫して、生々しい表情を失わずに来たのだけど(その生々しさのあり様は、様々に変化したけど)、ここでは、人体もまた、背景の格子模様に引っ張られるように、生々しいニュアンスを欠いた、パキバキッとした線と、記号的というか抽象的なフォルムに還元されている。

それによって得られている最も大きな利得は、水平性と垂直性による画面の統御と、人体の「捻じれ」との共存だろう。つまりここでマティスは、人体の表情の生々しさと引き換えに、「捻じれ」の導入を狙っていると考えられる。

右腕は垂直に立ち上がり、左腕の肘の部分は直角に降り曲がり、左脚も垂直により近い角度で立ち上がって、背中のラインもほぼ水平な直線に近いものになっている。これにより、「捩じれ」と水平、垂直性が馴染み合う。右脚のつくる角度も、まったくの水平ではないものの、背中のラインと連続的にみえるようになっていることで、背中のラインの水平性を強調している。顔はのっぺらぼうの卵型になり、乳房は二つとも単調な半円の反復になっている。

このような人体の幾何学化(生々しい肉感の後退と、幾何学的形態への接近)により、背景の平面的フィールドや格子模様との親和性が強くなり、画面の統一感が増している。ただ、ここで人体の「捻じれ」は、滑らかに方向が変化する捻じれから、パキバキッと折り曲げるような堅い感じの捻じれに変化している。とはいえ、人体の幾何学化によって、確かに画面の完成度は増しているように感じられる。

イスの背凭れだけでなく、花瓶の花も、ここでは対象性を完全に無くし、大きなフキダシのような感じのものになっている。


f:id:furuyatoshihiro:20180419142729j:image


●水平性と垂直性による画面の制御は、背景の格子模様とだけでなく、絵画のフレームの形そのものとも、うまく響き合う。

2018-04-17

●つづき。マティス「Pink Nude」(1935)のプロセスの解析。

●五枚目(State 9)。もともとベッド(マット)だった部分の平面的フィールドに、垂直よりやや左に傾いた縦縞のラインが描き加えられる(これにより、画面前にあるベッド(マット)の段差はほぼ無意味化するが、それでもまだ痕跡は残されている)。それと同時に、人体のウエストあたりのラインの変更を検討するために、紙が貼り付けられている。また、もともと部屋の壁だった平面的フィールドでも、扉の痕跡が消され、タイルのような格子模様が描き加えられる。壁と床のフィールドは、もはや何だったか分からなくなったイスの背凭れで左右に仕切られているが、その右と左で少し変化がつけられる。

ここで最も大きな変化は、平面的フィールドに縞模様や格子模様を加えることで、より強く「平面化」が進行していることだろう。しかしここで、壁の格子模様はほぼ正面向きの格子であるのに対し、ベッド(マット)部分の縦縞模様はやや斜めに傾いていて、この違いによって、「壁(垂直)」と「マット(水平)」の違いという、三次元に由来する空間性(差異性)は維持されている。また、縦(やや斜め)に画面の上下を大胆に貫く(ある意味、身体を暴力的に貫くような)縞模様の明るい線(色帯)は、画面を活性化させるとともに、画面の表情を大きく変化させる。

(この、縦縞模様の導入は、平面性の一層の強調であるだけでなく、画面全体があまりにも調和的であり過ぎることに対する、マティスの不満を表しているようにも感じられる。だが、それはたんなる調和の破壊---あるいは挑発---ではなく、以前からある、ヴァーチャル二次元的装飾模様と、リアルな三次元的な物とが共存する空間をつくるという問題と密接に繋がっている。ただしここでは、おそらく縦縞模様は装飾模様とは異なり、対象=モデルの側---絵画の外部---に根拠を持つものではなく、「前段階の画面の状態」から直接要請されて生じたもの、つまり絵画の内的な要請から生み出された抽象的な「縦縞」だと思われる。)

そして見逃せないのは、背景のより大胆な平面化に対して、人体は、(1)肋骨、胸の厚みの強調と、ウエストのくびれの強調、(2)床(マット)に接する背中の部分(つまり「重さ」を受ける部分)の直線化、という変化が考慮されている点だ。つまり、背景が平面化されるのに抗して(あるいは並行して)、人物では、立体性と重力性とをさらに強調する方向へと検討がなされている。


f:id:furuyatoshihiro:20180417140056j:image


●六枚目(State 10)。ここで最も目立つ変化は、(1)ベッド(マット)部分の縦縞模様が、格子模様に変化したこと。そして、(2)人体において「State 1」の時以来に再び、上半身と下半身の「捻じれ」が強調されたことだろう。同時に驚くべきことは、制作開始以来一か月にわたってほぼ手を加えられていなかった、イスの背凭れと花、花瓶の部分が修正されていることだろう。とうとうこの部分に手を付けた。椅子の背もたれは小さくなり、壺のような形になる。そして花の部分は、大胆な単純化が(紙を貼って試すことで)検討されているようだ。

ベッド(マット)の部分が縦縞模様から格子模様に変化すること(おそらく、縦縞模様では人体の重さを支える「接地面」を表現することができないと判断したと思われる)で、背景がやや静態的になったので、その分、人体にダイナミックな「捻じれ」をつくることで画面に動きをつくろうとしているのだと思われる。この結果、人体は、こちらを向いている、顔、両腕、胸の部分と、あちらを向いている、尻から両足の部分という、二つの部分に分離され、腹から腰の部分は上と下を結ぶことで「捻じれ」を表現することに特化された感じになった(お腹や腰の辺りの表情は犠牲にされている)。

ここまで、平面化、およびフォルムの写実からの逸脱が起ってくると、さすがに、素直な三次元表象として描かれている花と花瓶の部分が浮いて来てしまうので、修正を検討せざるを得なくなったと考えられる。


f:id:furuyatoshihiro:20180418171158j:image


●七枚目(State 11)。ここでは、「人体の良いフォルム」がさかんに探られている途中であるようにみえる。何か所化に「切った紙」が貼られ、フォルムの細かい変更が検討されている。

左の脇の下の面積が拡張されることで、頭から胸の辺りの正面性が増し、さらに左腕が大きくフレームからはみ出していることで、上体の方に強く重力がかかっている感じになっている(左腕がフレームから大きくはみ出すことで、右腕と左腕のポーズによってつくられる大きな三角形が、フレームの外にまで飛び出している感じになってもいる)。この上体へとかかる重力に抗して、ほとんど「脚」であるという対象性を失ったかのような自由なフォルムで凸型をつくる左脚(と、左脚のひざ裏のラインと背景のつくるネガティブな凸型)が、画面を上へとひっぱり上げるような動きをつくり、人体のこのような構造によって、画面全体としてダイナミックな「捻じれ」の運動(捻じれの空間)が生まれている。

(ただ、この段階で、花瓶と花は、どうしてそこにあるのか分からないくらいに「浮いた存在」になってしまっているので、花瓶の部分に修正の手が加えられかけている。)

(さらに言えば、人体によってつくられるおおきな「捻じれ」の空間と、平面的フィールドを活気づけつつも静態化する格子模様との関係も、ここではそれほど明確とは言えないかもしれない。)

ぼくの感覚では、この段階(State 11)こそが、もっとも多くの可能性に対して開かれている、非常に素晴らしい状態であるように思われる。


f:id:furuyatoshihiro:20180418171154j:image


●八枚目(State 12)。前の写真から二か月が経過しているが、ここで、今までの「人体の良いフォルム」への探求をいったんすべて御破算にするような大きな飛躍が生じている(人体の「捻じれ」が消えてしまう)。さらに、制作開始時点からまったく変更を加えられていなかった「顔」の部分が、跡形もなく消されてしまって、フレームと並行するような角度に垂直に立ち上がり、位置も角度も変えられてしまっている(それにともない、右腕も垂直に立ち上がっている)。花瓶と花も、左脚によって半分ほど消されている。

ここでは何か、根本的な仕切り直しが行われている。

ここで特に重要な変化は、今まで(枕のような、やや高くなったクッションに)自然に重さを預けていた「頭部(顔)」が、画面のフレームに押し上げられるように(人体の構造を考えるとかなり無理矢理に)垂直に立ち上がったという点だと思われる。これにより、今まで、画面の正面に近い方を向いていた「頭部、肩、胸、左右の腕」がつくる平面が、上を向くことになり、その結果、上半身と下半身との間にあった「捻じれ」がなくなってしまうということになる(この前の段階では「捻じれ」こそが、この作品の空間の根本をつくっていた)。この段階で、胴が必要以上に「ずん胴」になっているのは、この変化(捻じれの消失)の顕著なあらわれであろう。そして「顔」だけが、無理な姿勢で首を曲げ、こちら(画面の正面)を向いている(「捻じれ」は首に生じている)。この頭部の立ち上がりによって、人体の重さは、ほぼ直線的になった背中のみで支えられている感じになる(上半身の、ゆったりともたれるような感覚は完全に消えた)。

これはほとんど「別の絵になった」というくらいに大きな方向転換であろう。ではなぜ、このような方向転換が必要だったのだろうか。

ここで、背景の格子模様の多くが消えているのは、人体の部分のデッサンを何度も直し、その度に大きく形が変動するので、それに合わせて背景が何度も塗り直されているためだろう。ある程度人体の形の収まりがつくまで、格子模様までいちいち直すことはしない、と。ただここで見逃してはならないのは、画面右側の顔の前や左わきの下あたりでは、格子模様が斜めではなく、垂直(と水平)になっているところだ。

さらに、(これは二つ前の段階から、紙が貼られることでそうなっていたのだけど)もともとベッド(マット)の背凭れだった部分の傾斜もまた、はっきりと垂直と水平になっている。人体の、首と背中の関係も、垂直と水平(直角)になっている。

おそらく、この前の段階までは、人体の捻じれという三次元的な状態と、格子模様による背景の平面化の強調とを、格子模様を斜めにすることで協調させようと試みていたのだと思われる。しかしその方針は二か月の間に変化し、「捻じれ」への指向は、平面性によって徐々に抑圧されていったと考えられる。それにより、今まで以上に水平性と垂直性が強く意識されるようになっている。おそらくその過程のなかから、ベッド(マット)や壁など、複数の平面的なフィールドと人体の関係という以上に、フレームの矩形と人体の関係という意識が強く出てくるようになって、その結果として、この大胆な仕切り直しがあるように思われる。

(「State 1」の段階で「捻じれ」のある人体が描写され、「State 4」の段階で、平面性の強調によって一度人体の「捻じれ」が消えて、「State 9」で復活の萌芽が感じられ、「State 10」でそれが復活すると、「捻じれ」こそが絵画空間の中心になるのだが、それがまた「State 12」で消失する。マティスはここまで、人体の「捻じれ」にかんして、何度も行ったり来たりしている。しかしそれにしても、ここでの変化が一番大きい。)


f:id:furuyatoshihiro:20180418171149j:image


●おそらく、見ることが出来る16枚(16段階)の制作過程の写真のなかで、この四枚で示された過程が、最も大きく絵が動いている過程だと思われる。八枚目の写真の段階(State 12)で、ようやくこの絵の進むべき方向が見えた、という感じかもしれない。しかしこれはあくまで事後的な判断で、制作途中では、この段階でもっとも混乱していた(途方に暮れていた)のかもしれない。

2018-04-16

●『ソウル・ハンターズ』(レーン・ウィラースレフ読み始めた。とても濃厚で面白い。三分の一くらい読んだ。

マティス「Pink Nude」(1935)のプロセスの解析。画像は『MATISSE A RETROSPECTIVE』(Edited by Jack Flam)より、スキャンしました。


f:id:furuyatoshihiro:20180417135806j:image


f:id:furuyatoshihiro:20180417135802j:image


●一枚目(State 1)。ベッド(マット)の上でからだをねじって横たわる人体と、その向こうに花瓶の花とイスを置いて、オーソドックスな三角形の構図を作っている。普通に三次元的にモデルを描写しているが、ゆったりとリラックスした人体の描写がすばらしい。頭の方(の背凭れ)か持ち上がったマットによってからだが軽く傾斜し、肩から後頭部のあたりに重心がかかっていて、その分、下半身が重力から解放された感じで、腰の捻じれやその先の足のさばきに軽やかでかつダイナミックな動きが生じている(ただ、頭部の重心と拮抗する、左ひざの重さのようなものも感じられる)。手先(左手)が曖昧にしか描かれていないが、これも全身のリラックスした感じに貢献している(ポーズとしては決して楽なポーズではないはずだけど)。全体のトーンも穏やかで、顔の表情の描写も魅力的。マティスデッサン力というか、描写力が発揮されていて、ここで完成としてほしい(勿体ない)と思ってしまう。しかし、マティスとしてはこの程度「描ける」のは当然で、ここからが「はじまり」なのだろう。

(ただ、これで完成とするには右腕の形とか処理がやや気になるかも。)


f:id:furuyatoshihiro:20180417140116j:image


●二枚目(State 3)。花とイスの置かれた背景の壁や床の傾きが変わらないまま、人物とマットの部分だけ俯瞰的な位置へと、視点が移動している。異なる二つの視点をぶつけている。このことによって、人物とベッド(マット)の部分の空間の前後が圧縮されているような感じになる。奥行の傾斜が立ち上がっていることで、背景が前の方へグッとせり出しているように感じられる。そのため、人物の上半身の画面に対する正面性が、前の段階よりも強くなり、それが後ろ(背景のマット)から押された結果のように感じられる(それにより緊張が生まれ、全身のゆったりした感じがなくなっている)。背景の背凭れの前へのせり出しを強調することによって、右腕の持ちあがりが大きくなって(右腕の緊張が強調されて)いる。この右腕の緊張は、フレームに近づき過ぎている(フレームとの間に余裕がない)ことによっても生じている。この、右腕の傾斜による緊張を支える(受ける)ために、背中の曲線が最初の状態とは逆になっている(僅かな違いだけど、この背中のラインの違いは大きいと思う)。

この状態だと、画面の右下の辺りに力や要素や重力が集中し過ぎていて、反面、左上の辺りのスペースが隙間のようになってしまっている。右下への力の集中を緩和するためなのか、画面右下以外の背景の色が濃くなっている。そのため、人体と背景とのコントラストも強くなっている。

(もっとも大きな変化は、パースペクティブの二重化による、人物とその背景との前へのせり出しと、それによって人物の上半身の正面性が強くなったこと。それによって画面のバランスが大きく崩れた状態と言える。まず、自然な三次元空間と事物の写生からの離脱が意識されていると思われる。)


f:id:furuyatoshihiro:20180417140112j:image


●三枚目(State 4)。画面が、平面的なフィールドと立体的なフィールドの二つに分けられる。人体とベッド(マット)の領域は、俯瞰的というより平面的なフィールドとなり、背景(花瓶、イス、壁、床)との分離は、パースペクティブの違いというより、平面と立体との違いになる(背景のパースもやや緩やかになる)。ベッド(マット)は、人体の下に敷かれるものから、平面的なフィールドを形作るただの色の広がりへと役割を変化させる。人体も平面化する---特に脚や右腕---が、とはいえ、後頭部から肩、左上腕部の辺りに、重さを支えるようなマットのふくらみが描かれているので、依然として重力は意識され、完全に平面化されているわけではない。身体全体の平面化により無理な腰のひねりがなくなり、右腕の張りも、後景からの押し出しによる無理な緊張が緩和され、人体のゆったりとした感じが戻ってきた。

頭部周辺に重力への意識は残っているものの、人体の重さの支えや緊張が画面右下に集中することはなくなり、人体全体に力がゆるやかに分散しているように見える。これは、尻のラインの変化により、人体が傾斜して重さが右側にかかっている感じがなくなったためでもあろう。

人体が平面化したとはいえ、左腕は、一つ前の状態より、より三次元的に自然にベッド(マット)の面に触れているように描写されている。左腕が自然にマットに触れることによって右腕全体が重さを支える「地面」を示しているように見えることで、重さの分散に一役買っている。さらに、左手の(ほんの)一部がフレームから外に出ているため、無理やりフレーム内に収めたような息苦しい感じが少し緩和されている。

画面右側にある、ベッド(マット)の背もたれの形とそれを反復するような曲げられた右腕のつくる形(凸型・△型)と、画面左側の、左足の膝から脛、足先へのラインとその背景がつくるネガティブな形(凹型・▽型)とが対応関係をつくることで、画面左上のスペースが隙間になってしまっていたことが少し解消されている(それでも、この状態ではまだ左上がやや弱い)。


f:id:furuyatoshihiro:20180417140108j:image


●四枚目(State 8)。ここで大きな飛躍が三点ある。(1)まず、前の画面ではベッド(マット)という物が、平面的なフィールドとして機能していたのだが、ここでは、平面的なフィールドが完全に抽象化して、「ベッド(マット)」という対象性がほぼなくなっている(背凭れの形が名残りとして残っているが、前の段階を知らなければこれが「背凭れ」であることは分からないだろう)。同時に、(2)平面と対置されて立体を現していた背景の「部屋の角」がなくなり、背景も水平で抽象的な色彩のフィールドとなる。つまり、立体対平面という二項の対立がなくなっている。そして、(3)人体のデッサンが、改めてやり直されているかのように大きく変化している。ここで人体は、最初の段階の自然な三次元描写とは異なるが、非常にのびやかで、リラックスした形態を取り戻しているように見える。

そしてこの三つの飛躍により、画面の左上が弱いという欠点もなくなっている。

(このデッサンは、輪郭としてというよりも、背景を塗り直すことを通じて、つまり、外側(背景)の形から攻められることによって形作られたように思われる。ネガティブな(背景の)形態が強く意識されている。おそらく、背景を塗り直す---背景の平面化をさらに進める---ことを通じて、フレームとの関係で人体の形を掴む、ということができたのではないかと思われる。画面が平面化すればするほど、フレームの矩形が目立ってくるので。)

右腕と左腕の関係や、両足の形態などは、人物モデリングするというよりは、フレームとの関係で決定される、装飾的な形態の面白さやリズムを優先しているように見える。一方、顔の表情、胸や鎖骨の描写、そして背中や腹のラインなどは、とても生々しく人体を感じさせる奥行きがある。顔から胴の部分の描写は立体的で触覚的でさえあるが、腕や足は平面的で造形的であると言える。

つまりここまでのプロセスで、三次元→二つの異なる(三次元的)パースペクティブの併置→二次元三次元の併置→全面的二次元化、という風に進んできていると言える。しかし、背景がほぼ平面化し、イスの背凭れが何だか分からない装飾模様のようになっているとしても、そこに置かれている花と花瓶は依然として立体的に描かれている。花瓶と花、そして画面の前方にみえるベッド(マット)の段差、さらに前述した人体の顔から胴の描写などが、全面的な平面化を抑制し三次元的な奥行を生じさせている。だから、この四枚目の段階でも、平面と立体とは混じり合っている。しかし、どこまでが平面で、どこからが立体という風に、はっきりと切り分けられないようになっている。

背景がほぼ平面化すると同時に、平面に挟まれた人体が、妙に生々しく立体的に見えてくる。この時点でマティスは、最初の段階にあった自然な三次元的な描写とは異なる次元の(平面的な背景のなかではじめて成立する)生々しく立体的な人体の描写を実現させることに、かなりの程度成功しているように思われる。

(ここで、最初にあった三角形の構図は完全に破棄され、もっと分散的な構造になる。たとえば人体は、右手と左手のポーズがつくる大きな三角形と、左脚と右脚とがつくる、少しズレた二つの三角形という感じで---ほぼ、垂直と水平でできている背景に対し---三つの三角形が力を分散させているように見える。あるいは、右手と左手のつくる形は、フレームの角の形を、少し方向をズラして反復しているとも言える。)

ここでもまだ不満があるとすれば、画面がやや静態的に見えるということだろうか。


f:id:furuyatoshihiro:20180417140103j:image



●5月3日から28日までの間で、画面はかなり大きく変化しているが、「顔」の部分と、背景にある「花とイス」の部分は、位置がほとんど動いていないし、大きく手を加えられた感じもない(おそらく、ほとんど手を加えていない)のが面白い。マティスは、ここまでの段階では、この二つの部分を支点として、画面全体を動かしているように思われる。

2018-04-15

●昨日からのつづきとして、たとえばマティスの絵(Pink Nude 1935)の下の生成過程で何が起こっているのかを、一枚一枚の変化について考えてみることもできる。ただ、写真はモノクロなので、色の変化があまり分からないという致命的な欠陥があるのだけど。

(たとえば、マティスの「赤い部屋」は、フレームの縁を見ると下の層に緑の広がりがあることが分かる。つまり、前段階に緑の広がりがあり、画面の多くが「赤」く染まったのは制作のある段階であるはずで、そこに何かしらの飛躍があるのだけど、モノクロの写真では、そのような色彩の変化はある程度しか追えない。)

こういうのって、既にちゃんとした詳しい研究があって、下手なことを言うと恥をかく(というか、何を言っても「下手なこと」になることになっている)と思うのだけど、あえて、「絵を描く人」である自分として、解析してみるということはできるのではないか。

画像は、下のリンク先から。

https://majabogdanicblog.wordpress.com/2012/06/03/my-trip-to-the-vancouver-art-gallery/


f:id:furuyatoshihiro:20180417032321j:image