偽日記@はてな

2016-12-06

●ツイッタ―の岩田慶治 botから、引用。

《横死者の魂としての頭蓋骨も、今となっては怨讎と敵意の渦まく世界を離れて、やさしく私という旅人を見守っているに違いなかった。それは頭蓋骨というよりボルネオの山河のかたまりだった。その魂だった。眼窩の底にのぞいていたのは、闇ではなくて青空だった。》

《自然は非自然の上に浮かんでいる。世界は非世界の上に置かれている。人間は非人間のなかに生かされている。学問は非学問のなかにあって自らの観念の糸をつむいでいる。》

《地のなかから、突如として、柄が誕生する。柄が誕生したとき、地は、満足しておのれを隠そうとする。》

《他界は海のかなた、山の向こう側にある。森のなかにあり、地下にある。幾重にも重ねられたバラの花びらの内側にある。庭さきの草葉のかげにある。そこをじっと見つめて、五分、十分、いや、一時間、二時間すると、そこから死者たちの住む世界への展望がひらけてくるような気がする。》

●多くの人はなぜ「美」を軽く扱うのか。美は一種の予定調和であり、美(イリュージョン)に回収されない、崇高、外部、他者、政治、プロセス、残余、等々にこそリアルがあるというような論理のあり様こそが、もはや紋切り型なのではないか。たとえば、図と地という時(非世界として地を考える時)、地は別に図の外部ではない。図は地の一部であり、地を表現し、図と地によって、一つの図=美の形が生まれる。図によって地をくみ尽くすことはできないとしても、図によってこそ(図によってだけ)地が表現される(くみ尽くせない残った部分が地=リアルの存在を証明するのではなくて)。そのときの図=美の形こそがリアル(実在)であると言うべきではないか。一つの美の形こそが一つのリアルであり、また別の美の形は別のリアルである、のではないか。

(ブランクを、表現し尽くせない残余としてではなく、図によって表現される、図には描かれていないもの、と考えることができるのではないか。表現され得ないものがリアルなのではなく、表現されているもののなかにこそリアル---の一部---があり、ブランクがある、と。美はもともと底が抜けている。だけど、抜けた底は美=図によってはじめてあらわになる。)

●地からあらわれた図(美)は、あらわれた途端、地を構成する要素の一つにもなる。図の出現が地を動かす。地もまた、常に動いていて、地が動いているからこそ、そこからまた新しい図が生じる。図と地の中間にある(図と地のどちらにも足をかけている)、セザンヌのタッチ。

●地にはスケール感がない。海のかなたにある他界と、バラの花びらの内側にある他界と、どちらが大きいということはない。セザンヌの、タッチとタッチの間にあるブランクにも大きさがない。大きさがないものから、大きさのある林檎や花瓶やサントヴィクトワール山が出現する。

おそらく、優れた作品にはスケール感がない、あるいは、「スケール感の無さ」がある。小さくてもミニチュアではなく、大きくても壮大ではない。

2016-12-05

フェイスブックで掬矢吉水さんが紹介していた、素因数分解可視化する動画に見入ってしまう。

http://www.datapointed.net/visualizations/math/factorization/animated-diagrams/

前に『虚数の情緒』という本を読んでいた時(読み終わってないのだけど)、数というのは無機的なものではなく一つ一つ違ったキャラがあるもので、それは素因数分解してみると分かる、というようなことが書いてあって、けっこう衝撃的だったのだけど、こうやって可視化されるとそれがよりはっきり分かる。

それと同時に、これが無限につづくのかと思うと恐怖もある。

(無限、というか、とりとめのない事柄に対する恐怖がぼくには昔からとても強くある。子供の頃、おそらくパッキンの劣化のせいで水道の蛇口から水が止まらなくなったことがあって、でももう遅い時間で、昔の業者は早い時間に仕事を終えて時間外は働かないので、次の朝まで水が流れっぱなしということになり、その「水の流れを止めることができない」というだけの事実が、ぼくには耐えがたいくらいの恐怖だった。なるべく、そのことを考えないように、考えないようにするのだけど、それでも思い出してしまって、いてもたってもいられなくなったのを憶えている。)

2016-12-04

●十一月に撮った写真。十一月はほとんど写真を撮れなかったし、面白いものもあまりない。



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2016-12-03

●ベクショニズムのメンバーで、ギャラリー・コエグジスト・トーキョーの井上実展を観に行き、トークを聴いた。メンバーで既に井上実の作品を観ていたのは西川さんだけだったけど、他の人も驚いていた。特に、柄沢さんが昂奮しているように見えた。

http://coexist-tokyo.com/inoue2/

井上実の作品の強さは、「観れば分かる」というところにあると思う。文脈とか理論とかを事前に用意する必要はない(事後にそれらがあることは別に拒否しないと思うけど)。例えば、『君の名は。』がすごいのは観れば分かる。日本語が分からなくて、物語が理解できないとしても、その画面が他とは違っていて、すごいことは分かる。そのすごさが、ハリウッド映画のような大金をかけた豪華さとも違うし、ジブリ攻殻のようなこれまでの日本アニメとも違うことは、観れば分かる。具体的にどう違うのかは言えないとしても。

例えば、セザンヌの作品というのも、同時代にはそのようなものだったのではないか。セザンヌの晩年、若手の画家たちがその作品を礼賛したのは、なんかよく分からないけど、他とは決定的に違うし、すごいことは分かる、ということではなかったか。現在のように、セザンヌに関する研究や言及があるわけでもなく、なにがどのようにすごいのかはみんなあんまり分かっていないけど、でも、すごいということだけは確実に分かる、と。その感じが、美術史的に整理されてしまっている今では、かえってよく分からなくなっているのではないか。でも、芸術というのは本来、そういうものや状態をつくるということなのではないか、と思った。

●井上くんは長い知り合いだけど、こういう機会に聞いてはじめて知ることも多い。「自分は絵画なんか別に好きじゃなかった、ただ描くことだけが好きだったんだということに、四十歳を過ぎてようやく気が付いた」「絵画にしなきゃいけないという枷で、やりたいことを見失っていた、別に絵画じゃなくてもいいという踏ん切りがついた」「受験生の頃、デッサンが大好きで、デッサンはいくらでもつづけられたけど、油絵具を使うととたんに描けなくなった。ここへきて、ようやく油絵具で描くという感じがつかめた」等々。

●以下に、東京新聞の、11月25日の夕刊に書いた、井上実展レビューを載せておきます。

全体と部分とがどこまで細かく見ても同じ構造をもっている図形をフラクタルという。近似的なフラクタル構造は、リアス式海岸海岸線ブロッコリーの形、腸の襞の構造など、自然界の様々なところに見出される。フラクタル図形は、マクロへ、ミクロへと見るスケールを変化させても特徴が変わらないので、通常のスケール感の足下を崩され、眩暈のような感覚を生む。

フラクタル構造とは異なるが、井上実の絵画にみなぎる強い充実感は、スケールや感覚を転倒させるような多層構造が作られているところからくると思われる。モチーフは、一辺二、三〇センチ程度の範囲の小さなスケールの折り重なる植生で、それが一辺一、二メートルの大きな画面へ拡大される。点描のような小さなタッチの集積で描かれるが、スーラなどの光学的点描とは異なる。キャンバスが透けるほどの薄塗りで、タッチの大きさにばらつきがあり、タッチの集積の粗密さも均質ではない。植物の重なりは執拗なまでに詳細に再現されるが、写真のようなリアルさが目指されているのではない。

大きな画面が小さく繊細な薄塗りのタッチで埋め尽くされ、庭の片隅にあるようなささやかな植生が、拡大されて詳細に描かれる。抑制された色彩による一つ一つのタッチは、桜の花びら一枚のようにささやかだが、大画面を埋め尽くすそれは桜吹雪のように圧倒的だ。描かれるのは片隅の植物だが、拡大されたそれはまるで妖怪精霊や動物の霊気などが密集する森の奥のようでもあり、濃密である。画面には植生が細密に描かれているが、それは同時に、繊細な色彩のリズムがつくる抽象絵画のようでもある。

小さいと同時に大きく、ささやかであると同時に圧倒的で、静かであると同時に騒がしく、細密画であると同時に抽象画である。アニミズムの森のようなみっしりとした植物の重なり合いが、実は片隅の野草の姿であること、生命が横溢する饒舌な画面が、実は繊細で抑制された薄塗りのタッチでつくられていること、騒がしく過剰なものが、実は静かでか弱いものたちによって支えられていること。

井上実の絵画には、性質が逆であるものが互いに相手を支え合う多層構造があり、それらが同時に響くことで、充実した視覚体験をもたらす。

2016-12-02

●『響け!ユーフォニアム2』第九話。神アニメの神回。一期、二期を通じて積み上げてきたものが炸裂している。物語的な展開としてはありきたりとも言えるが、そこに黄前久美子というキャラが絡むことで複雑な表現になる。田中先輩が母親について「あの人が嫌いというわけではない」と言ったのに対し、すかさず「嫌いじゃないっていいましたけど嫌いなんですよね」と返す黄前にびっくりする。それをここで言えるのかお前は、と。でも、この発言は黄前だから効いてくる。

(「マンガみたいな話ですね」とかも言っちゃってるし……)

その前のAパートで、中川が、コンクールで自分が吹くよりも田中先輩が戻ってきた方が吹奏楽部のためになると言った後に黄前が、「それ、夏紀先輩の本心ですか」と言い、それに対し中川が「黄前ちゃんらしいね」と言う。ここの、普段は猫を被っているけど実はけっこう辛辣な黄前のキャラが、吹奏楽部の人たちにはもう完全にばれている感じもいい。というか、黄前の猫被りガードももはやゆるゆるになってきていて、失言が失言でなくなっている。ああ、黄前は吹奏楽部に溶け込んでいるのだなあ、と。

黄前のゆるゆるの猫被りガードとは違って、田中先輩は完璧な外皮を自分のまわりに張り巡らせている。このガードの内側に入り込めるのは、「嫌いなんですよね」と言ってしまえる黄前だからだろう。田中先輩と黄前が会って話す場面は、歴史的な名場面だと言えると思うけど、でもそれは、この場面だけによって成り立っているのではなく、今までの「ユーフォニアム」のすべての場面があった上で成り立っている。

ここにきて、田中先輩の中世古に対する隠された感情を出してくるところも深いなあ、と。田中先輩がいろいろな多くのことを「押し殺している」感じがすごく出てくる。田中先輩の(絶望の深さからくる)強い自己抑制と完璧な外皮が、黄前という存在に触れることで、一時だけふわっと緩む。でも、それはやっぱり「この時」だけなのだろうな、という感じ。そういう時間の幸福感と切なさ。いや、すばらしい。

黄前と田中先輩の関係だけでなく、黄前と高坂の関係の描写もすばらしい。高坂は、田中先輩にも田中先輩問題にもあまり興味はないらしい。むしろ、黄前が田中先輩について過度に思い悩むことに対して不思議だと感じている。二人きりの帰りの電車のなかで、高坂が沈んだ様子の黄前に「どうして久美子がそんな顔してるの」と問い、黄前が「悔しくて」と応え、「何が」とさらに問う高坂に、黄前が「わからない」と応える(この「わからない」の演技のすばらしさ)。親密な関係でありつつ行き違っている感じが、黄前の抱えるどうにも処理できない感情と、高坂の悪く言えば鈍いとさえ言えるまっすぐさとを、すごく鮮やかに照らし出している。良い場面だと思う。しかも、この場面はすごく短い。

この場面に限らず、多くの場面が、その場面のもっとも鮮やかなところだけを的確に抽出したように短く、しかしそれでいて、名場面集、名セリフ集のようにはならず、配置やリズムや抑揚も考慮されている。すごくテンポが速いはずなのに、強く余韻を残す感じ。

強気キャラの高坂と猫被りキャラの黄前だけど、二人だけの場面になるとむしろ逆転して、黄前が攻めで高坂が受けになることが多い。黄前があからさまに攻めに出るのは、ほぼ高坂と二人の時に限られている。でも、今回はそれがさらに逆転して、高坂が強く攻めにでている。

(高坂は、猫被りガードがゆるくなって失言をあまり失言と思わなくなった黄前に対して、過去の大きな失言を意識させ、うろたえさせる。)

しかし、高坂が黄前に対して蠱惑的に強く攻めに出た直後の場面で、一転して、滝先生に対して純情っぽくデレる場面がくる(滝先生の手に触れてしまった高坂の反応は、動物が逆毛立つみたいな、明らかにオーバーアクトなのだが、これはアニメならではの表現としての見事なオーバーアクトだ)。緩急というか、関係性の変化の自在さ。

で、その場面の後がAパートの締めのごくごく短い、電車のなかで二人きりの場面。ここで、滝先生の机の上の写真の女性を見てしまった高坂は、そちらの方へ心をもっていかれていて、黄前の愚痴など耳に入っていない様子だ。先の、電車で二人きりの時の、黄前が田中先輩問題に心を奪われていたのとは関係が逆になっている。

●今のアニメの表現の高度化は、五十年代の日本映画みたいな感じなのだと思う。