偽日記@はてな

2016-05-25

熊谷守一美術館に行ってきた。

クマガイが背景を具体的に描かない時に用いられる背景の単色の広がり、多くの場合に黄土色(オーカー、シェンナ)で、時にグリーンだったりブルーだったりピンクだったりもするあの広がりは、マティスの「赤い部屋」や「赤いアトリエ」の赤の広がりと同様に、空間以前であり空間以上でもあるようなもの、二次元であり、三次元であり、四次元でもあるようなもので、ヴァーチャルな原空間としての平面性であるように思われた。

平面的な絵画の単色の広がりは、画面の情報量としては少ないのだけど、その情報量の少なさを、脳にどのように補填させるのかという仕掛けとして用いられているのではないかと思う。画面そのものの情報量を上げるのではなく、脳をより複雑に働かせるために省略を行う。脳のなかに複雑な幻影をつくりださせるための、単純な装置というか。

セザンヌの絵は、脳に複雑な共鳴状態をつくりだすために、画面も複雑になってゆく。しかし、それ以上複雑にすると、人の感覚はその複雑さについてゆけなくなって、オーバーフロー状態になり、複雑な共鳴ではなくホワイトアウトになって、崇高のような感覚に至ってしまう。そこでマティスは、画面そのものをセザンヌ以上に複雑にすることは避けて、脳を複雑に作動させるために有効な省略や短絡を考え、その結果として画面の平面化を模索していったのではないか。

同様の試みがクマガイにもみられるように思う。若い頃のクマガイの絵はとても上手い。しかし、四十歳代くらいの作品には迷いがみられる。迷いというか、様々なことを考え、様々なことを試みているのだけど、やろうとしていることが複雑すぎて上手い着地点が見つかっていないという感じになる。というか、絵画ではできないことをなんとかしてやろうと試みているようにみえる。そういうところが面白いとも言えるが。

この、上手い着地点がみつからない状態は、五十歳代になっても続いている感じがする。そして、五十歳代の終わりくらいから六十歳代にかけて、少しずつその着地点がみえてくる感じになってくる。そしてその着地点とは、画面を複雑にしてゆくというより、むしろ単純化することで、そこから得られる感覚の方を複雑にしてゆくという方向になっている。

(4Kから8Kにかわる、というのとは別の解像度が問題になる。)

(たとえば、リミテッドアニメーションの面白さとか、あるいは、背景が3DCGでバリバリにつくり込んであるのに、キャラのアップになると、画面の多くの部分がフラットな肌色の広がりで占められることのギャップの面白さ、とか。)

●それから、クマガイの場合、絵の小ささというのも重要だと改めて思った。これはマティスの大画面化とは方向が異なる。クマガイの絵は、空間に没入するようなものではなく、もっと非身体的な感じがする。非身体的というか、物理的なこの身体とは別のヴァーチャルで非スケール的な身体が要請されているというか。眼という器官がないのにイメージが存在する、とか、肌がないのに触覚だけが存在する、みたいな。そういう、ヴァーチャルな感覚の構成によって、その都度空間が立ち上がる。眼で観て描いた絵じゃない、みたいな感じ。

2016-05-24

●電車のなかに本を置き忘れた夢をみた。あっ、忘れた、と気付いて目が覚めた。電車のなかにあの本を置いてきてしまったと気付く夢はみたが、その前に電車に乗っていた夢をみていたかどうかは分からない。

2016-05-23

●『サロメの娘 アナザサイド(in progress)』(七里圭)という映画が気になる。去年公開らしいけど知らなかった。で、六月に再上映されるという。六月のはじめなら観に行けるかも。

http://www.uplink.co.jp/movie/2016/43030

予告編がすごく面白いし、かかわっているメンバーのトランスメディウム感がすごい。

●あと、『ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ』(黒川幸則)の新宿K's シネマでの公開が決まったみたい。この映画は本当にすばらしいです。

http://www.ks-cinema.com/movie/village/

https://www.youtube.com/watch?v=DBYd5txe4fw&feature=youtu.be

●映画というメディウムが、様々なメディウムが交錯する時の、いい感じの器になりつつあるのかなあ、という感じ。映画が、自分が映画であることに固執しつつも、異質なものと繋がることで、何かが開かれてしまって、連続性がありつつもまったく別物になってしまう、みたいな感じをぼくが最初に感じたのは『ring my bell』(鎮西尚一)だったのだけど、『ring my bell』の系譜のようなものが開かれつつあるのだろうか。いや、映画の現在を何も知らないのでいい加減な妄想だけど。

●『ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ』の感想。

http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20160216

●『ring my bell』(鎮西尚一)の感想。

http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20110528

2016-05-22

●お知らせ。「note」に「秋幸は(ほとんど)存在しない――「岬」(中上健次)について」の (4)と(5)を公開しています。次の(6)で完結です。

https://note.mu/furuyatoshihiro

●いろいろ追い詰められてテンパっているのだが、YouTubeで、かなり画質が悪いのだけど、中国語字幕付きの『1999年の夏休み』(金子修介)を発見してしまって、しばらく見入ってしまった(「世紀末暑假」というタイトル)。何もかもが八十年代的だ。あまりに八十年代的だ。そして、八十年代はこんなにも遠いのだ、と思った。

(『1999年の夏休み』は、萩尾望都トーマの心臓』を原案とする1988年の映画。少年の役を女性が演じ、さらに別の声優が声を当てるというつくりになっている。深津絵里の映画デビュー作。)

2016-05-21

●「計算」というもののことをずっと誤解したいたのかもしれない。あらかじめ目的があり、その目的に向かって最適化をめざすものだけが計算ではない。あるいは、なにかを管理し、調整することだけが計算の目的ではない。なぜ計算するのかといえば、計算しなければ解が得られないからするのだとすれば、計算するということはまさに解を創造するということだ。

計算というのは、計算を実行するということだ。だから、計算と物語は異なる。夏休みを15532回繰り返すという計算は、実際にそれを15532回繰り返して実行するということであり、15532回繰り返しましたとさ、という物語を語ることは違う。そして、計算を実行することによってしか、未知の解を導くことはできない。物語は、既知の解しか導かない。

(物語とはいわばコンセプトであり、我々は新鮮なコンセプトを常に求めているが、コンセプトは何かしらの計算として実行されなければ、未知の解――創造――へとたどり着かない。)

(あるいは、計算によって「未知の物語」が導かれるかもしれない。)

●計算はステップを省けないが、物語はステップを省くことができる。複雑な、あるいは単調で長大な、計算の過程のすべてを憶えておくことはできないとしても、その概要を物語として把握することはできる。そしてそれは、計算の実行(あるいは、再検討や反省)のためにも有益であろう。ただ、物語は計算そのものではないことは意識されなければならないだろう。

直観は、ステップが無意識化された計算かもしれない。脳が勝手に計算し、その解だけを意識に伝える。逆に言えば、よい直観を得られるような脳にするには、様々な計算を実行するレッスンの必要があるということではないか。

人工知能は、我々が自ら15532回の夏休みを実行しなくても、ずっと高速に、何の苦も無くその計算を代行して、解を導いてくれる存在となるのかもしれない。我々自身がやるとしても、コンピュータがやってくれるとしても、計算は実際に行われなければ、解は生まれない。ならば、人工知能は、我々の無意識を途方もなく拡大させる、無意識代行装置となる、ということも考えられる。

●計算は、思考の主体が「論理」である形式的変換操作なので、間違えない限り「誰」が計算を実行しても(解を導いても)同じということになる。実行=経験した者でなければ分からない、ということではない。

(しかし、計算によって得られた解を「理解できる」かどうかは、それを理解する側の能力や経験に依存する。)

●イ・セドルはアルファ碁との対戦の後で、「とても楽しかった」と言い、「これまでの知識が正しいのか疑問に感じた」と言ったという。アルファ碁は、孤独に3000万局もの対局という計算を実行し、それによって得た(創造した)囲碁の新しい地平を、棋士に伝えてくれたと考えることもできる。