●五反田のゲンロンカフェで「哲学と映像の『存在論的転回』---『実在への殺到』と『映像の境域』の交点から考える」(金子遊×清水高志×渡邉大輔)。初ゲンロンカフェ。
話の途中で清水さんが、金子さんが訳したインゴルドについて触れながら、ホワイトボードに二本の線を描いて、一方が物質、もう一方がイメージとし、その間にジグザグ線を渡して、イメージが物質を変形させようとし、しかしその物質の特性や抵抗にあって、でも、その抵抗が刺激となってイメージが新たに更新され、物質への別のアプローチを行い、それに対してまた物質が別の性質を示して……、という相互作用があることを示して、イメージが物質を変形し、物質がイメージを更新するという流れがずっと続くということを強調した。そこでマラブーを引いたりして、柔軟性と可塑性とは違う、と言ったりしていた。柔軟性だと「空気読め」みたいになるけど、可塑性は相互に抵抗(あるいは、ハーマン的に言えば「脱去」)しつつも、関係そのものを媒介としつつ変化し合いつづけるのだ、と。
あと、相互作用といっても、手と粘土との関係があるだけでなく、そこに第三項として「ろくろ」という媒介が重要な作用をするというような話もあった。
ある意味では、こういうことは「作品を制作している人」からみると、ふつうというか、当然のことのようにも思われるし、様々な作家(制作者)が「なんとなく」似たようなことを言っているし、考えている(ここで「なんとなく」とは、明確に言語化できないという意味で、精度が粗いとか、ふわっとしているとか、厳密でないとか、そういう意味ではない)。個々の作家が、自分の作品をつくるために用いる論理や言語であるならば、「なんとなくそんな感じ」が分かっていればそれでもいいと思う。しかし、ここで重要だと思うのは、存在論的転回以降の人類学は、このようなポイエーシスの論理とでもいうべきものを、とても広い視野と、高い汎用性と形式性をもって、非常に精緻に展開していて、しかも同時に、具体的でローカルな感触をも含み込みながら(双方、行き来しながら)言語化、論理化しているように思われるということだ。つまりそれを知ることで我々も「なんとなく」を鍛え直すことができそうな感じがある。
制作にかんして、「なんとなく」言えるだけでは困ることが大きく二つあると思う。一つは、頭がいいふりをしたい奴が、実は大きくマトを外しているにも関わらず、小難しい論理で武装して作品に無理矢理理屈を張り付けてこようとする時に、「なんとなく」言説ではそれに有効に反論できない、という点。うざいと思って無視していればいいとも言えるが、明らかに違うだろそれ、と思っても、たんに「上手いこというだけの奴」(しかもそういう人は妙に居丈高だ)に言いくるめられてしまったりする。そして結局、明確な(というか、縮約された、通りのよい)言葉や論理の方が強いから、そっちに知らぬ間に引っ張られて、ほんとは大事な(厳密であるはずの)「なんとなくこんな感じ」の方が弱くなってしまう。実際、世界的にみて、現代アートの状況では「ポイエーシス」という次元をまともに問題にすることができなくなっている。ポイエーシスについて考えようとするとき、美術の言説はもはやほとんど役に立たないと言える。
(また別の側面として、自分の経験だけに基づいた経験的な知は、非常に深く強靱できめ細かくはあるとしても、どうしても幅が狭く、そして、その知があまりに独自でありすぎるために、それが「劣化」しつつある時に、本人も周囲の人も気づきにくいという欠点もある。その固有名が権威化していればなおさら。)
もう一つは、その言説が「なんとなく」であることによって、必要以上のミスティフィケーションが生じてしまうこと。ぼくは「いわくいいがたい」ことはあると思うし、「いわくいいがたい」は「いわくいがたい」としかいようがないし(そしてそれは結局「目利き」にしかわからないと思うし)、それでよいと思う。しかし、その「いわくいいがたい」を悪用するというか、それが安易に使われてしまうという例は後を絶たない。作家への転移の悪用、作家のカリスマ化、作家性の過度な固有名化、作家名の登録商標化、といったものに対する歯止めが効かなくなる。とにかく、偉い何々先生のありがたい作品を認めない奴は……(「○○警察」とか)、みたいなことになる。それは結局、個々の作品、個々の現場、個々の状況で、実際になにが起きているのかを見えなくしてしまう(あと、人間関係や組織をも固着化させてしまう)。それぞれの現場を十分に味わい尽くし、吟味し尽くし、それを刺激としてなにかを自由に考えることを抑圧してしまう。
(しかし一方で、ミスティフィケーションへの「批判」というのも実は危うくて、要するに、上手く言語化できない「いわくいいがたもの」すべてに対して批判できてしまうから、ミスティフィケーション批判には、批判すべきものと、批判すべきではないものとの峻別の原理が上手く作動しない。いくつかの「ミスティフィケーション批判のパターン」さえ憶えてしまえば、明確に理論化されていないものになら何に対してでも簡単に批判---攻撃---できてしまい、いわば、うざい---知的には意味がゼロであるような---「テンプレ批判」が発生する。誉めるよりも批判する方が真面目---真摯に向き合っている---みたいな、妙な臆見もはびこっているし。)
人類学の新たな言説には、ポイエーシスにかんして、直感的なレベルでも、精緻な分析を行うようなレベルでも、そして、実際に何かを制作する(あるいは実践する)というレベルでも、それらのどのレベルにおいても強靱であるような何かが提出されているように感じられる。そこには建設的であり得るなにかしらの新しいものがあるように期待される。いや、まだまだ初学者もいいところだけど、そこは今後も勉強していきたい。
あと、渡邉大輔さんは一歩引いて司会に徹している感じだったけど、『キンプリ』や『美男高校地球防衛部LOVE!』(いや、よく知らないのだけど、知らないからこそ)と、セールやストラザーンとがどのように関係するのかという話とか、聞きたかった。