⚫︎戯曲『想像の犠牲』について。一読してまず思い浮かべたのは、『ゴジラ・シンギュラポイント』と『シュタインズゲート』。そして大江健三郎。さらに高橋洋の、特に映画美学校の学生たちと共作している一連の意図的にチープに作られた映画群。
特に、高橋洋の『ザ・ミソジニー』『白昼鬼語』『うそつきジャンヌ・ダルク』『同志アナスタシア』『彼方より』などとの強い関連が感じられる。しかし、同時に、高橋が着地させるところには決して着地させないという強い意志が感じられ、その意味では高橋批判でもあり得る。
(これとはまた別の話だが、フィクションにおける『シュタインズゲート』以降の想像力というものが確実にあるなあと思う。アート的なものからエンタメ的なものまで幅広くみられるものとして。相対性理論の解釈としては間違っているとはいえ「世界線」という言葉が日常会話でも使われるようになったのは確実に「シュタゲ」の影響だろう(「シュタゲ」の影響から「シュタゲ」を知らない人にまで広まった)。「ゲーム的リアリズム」と一見似ているが、根本的に異なるものとしての『シュタインズゲート』以降の想像力については、まとまったものを書いてみたいという気持ちがある。)
⚫︎読みながら、その都度何度でも、「これはどういうことなのか」と立ち止まって頭を整理する必要があるくらいに、ちょっと他にない複雑さというか、複層性を持ったテキストだろう。
まずこのテキストでは、自らが「戯曲(テキスト)」であることが、テキスト自身によって何度も確認される。だがこのテキストは、かつてあったことの記録であるという意味で(テキスト外の)過去へ向かう志向性を持ち、かつ、上演のために書かれたものであることで、上演されるであろう(テキスト外の)未来への指向性を持っている。
(戯曲が、自分自身がテキストであることを強く意識して書かれている以上、「上演」される場合も、それが「テキストを上演している」ものだということを強く意識させるものとなるだろう。)
この戯曲には、かつて一度だけあった上演とその破綻の過程が記されている。そしてこのテキストは、その上演にかかわった当事者の一人である土井によって書かれている。ゆえに彼女は、作者であり、登場人物でもある。さらにこのテキストには、上演にかかわった土井以外の人物(そしてテキストを書いた土井自身)のコメントが、署名入りで、太字で書き込まれている。それは、土井の書いたテキスト・記録を読んだ当事者たちによる異議、批評、批判であり、さらに他人のコメントに対する土井からの応答もコメントとして書き込まれている。だからこの戯曲は、当事者たちによる複数の記憶と視点、立場によって組み立てられた「過去の記録」である。ただし、五人の当事者(土井、西川、加藤、高木、ロベール)のうち、ロベールだけはコメントを書き込んでいない。
かつてあった「上演」は、アメリカに住む演出家の書いた「戯曲」と彼から土井へ宛てられた「手紙」を元にして、特に演出家という役割を置かずに、土井がリーダー的な立場にありながらも、全員の共同制作として行われた。つまりこの戯曲(上演の記録)は、かつての上演とほぼ同じ形で成立していると言っていいだろう。以上が、山本ジャスティン伊等によって設定されたフィクションの枠組みである。
ここまでのことを、昨日の日記を引用して整理しておく。
《(1)「演出家」が書いた戯曲の上演がなされたという事実(その戯曲が〈弟〉を介して土井に託されたという事実)がテキスト外に想定される。(2)「戯曲の上演」の顛末を書いた戯曲・テキスト(土井が書いた)がある。(3)土井の戯曲に対して、上演時の出演者たちのコメントが書き足される(太字で示され、レイヤーの違いが可視化されている)。(4)以上、(2)と(3)とが重ね合わされたものが戯曲『想像の犠牲』であり、(1)から(3)までの三つの層を、山本がフィクションとして設定し、実際に戯曲『想像の犠牲』を書いた。》
⚫︎土井によって書かれたベタな戯曲の層と、後から他者たちによって加えられコメントの層という二層だけではない。「過去の再現」としてのこの戯曲のあらゆる場面は、(1)戯曲としての過去=再現のあり方と、それにかんする土井/それ以外の関係者の態度・意見、(2)未来における上演としての過去=再現のあり方と、それににかんする土井/それ以外の関係者の態度・意見、という二つ(四つ)の層が重なっている(というか並立されている)とも言える。さらにそのすべての層において、過去を再現するにあたり「誰かが誰か他人の役を演じること」の意味が問われる、という、おそらくこの戯曲において最も重要な層がある。自分を演じるにしても、過去の自分と現在の自分にはズレがあるし、そもそも、誰かが何かを語る時、語る人物は語られる誰かを演じることを避けられない(「Aが「お前はバカだ」って言ってたぞ」、とBが誰かに言うとき、Bは「お前はバカだ」と言っているAを演じることになる、など)。
例えば次の引用部分で「土井」は、セリフの後半で「西川」の言葉を引用しつつ西川を演じている。
土井 (…)こうやってベンチを再現してもらうと、ハイボールを飲んでいた西川さんの、アルコール混じりの息と一緒にかけられた言葉が、今度は私の腹の底から吐き出されようとしているのを感じるんです。〈土井さん、土井さんの口からまた演劇の話を聞くとは思ってませんでした。おれらが「演出家」の作品で共演した『脱獄計画』が最後で、正直、土井さんはもう俳優をやめたんだと思っていたんで。〉
この「西川として語る土井」の言葉に、今度は「土井として語る西川」が応えることになる。
西川 〈西川さんの言うとおりです。すでに演劇から離れた自分に今更なんでとは、私も〈弟〉さんに言いましたよ。でもあの人には、むしろそっちこそ心当たりがあるんじゃないかって言われて(…)〉
⚫︎この程度のことはこの戯曲ではまだまだ初級で、次のような驚くべき部分もある。
土井 〈今回の『脱獄計画』がほかと比べて難しいかというと、俳優のくせして、というのもアレですけど、他人の言葉を喋ること自体、私は本当に毎回、苦労するので、…〉という感じで、私は端的に緊張から曖昧な返事をしたと思います。今になって思うんですけど、私が俳優をやめたのはこの質問に関わることだったかもしれない。〈他人の感情を演じていられない〉〈俳優の個性が役に吸収される それが怖い〉(土井)
西川 コメントで書かれている以上は土井さんがそう言うのを想像するだけだけど、そのセリフも堂に入っているのが目に浮かびますね。(西川)
土井 そういう勝手な想像でこっちが演じてるみたいな目で見ないでほしいって言ってるんですけど。(土井)
最初の「土井」のセリフで「〈〉」内にあるのは、「戯曲における現在時」から遡った過去のインタビューでの発言を思い出して再現・発話している部分で、その後に、過去の発言について語る、「戯曲における現在時」のセリフが続く。それに続く「太字」の部分は、戯曲が書かれた後で、発言主であり戯曲も書いた「土井」によって付け加えられたコメント(この部分の「〈〉」は単に映画『サクリファイス』からの引用であることを示すもの)。時系列的には、「戯曲における現在時」を回想している位置(戯曲の未来)からの発言とも言える。つまりこの「土井」のセリフには三つの時間の層が含まれている。
そしてそのうちの、未来の位置からの発言(コメント)に対して、「西川」がコメントをさらにつけている。これは、「戯曲(の現在時)」に対するコメントではなく、「コメント(戯曲の未来、戯曲の外)」に対するコメントで、二人は「コメント」という(戯曲の時間の外にある)レイヤーで対話していることになる。ベタな戯曲(戯曲の現在時)の部分は、過去の再現であるから、土井と西川は「この場面」を現実の過去の出来事として共有している(と、設定されている)。つまり、西川はこのセリフを言った時の土井を見ている。しかし、コメント部分はあくまでテキストであり「言葉(文字)」としてしか存在しないので、西川は《土井さんがそう言うのを想像するだけだけど(…)目に浮かびますね》と言うしかない。この「場面」は過去から現在までの時間の中には存在せず、西川は、(「ベタな戯曲」の未来としてのコメント・レイヤーよりも、さらに)未来にあるはずの上演時に、土井がそう発話する(演じている)場面を先取り的に想像して、《そのセリフも堂に入っている》という感想を言っている。
そして、未来を先取りするような「西川の想像」に対して、土井は、さらにコメントを重ね、(上演されるべきの)未来の「土井」が、(コメントレイヤーにある)現在の「土井」の像として想像されてしまうことへの不快感を表明していると言えるのではないか。《そういう勝手な想像でこっちが演じてるみたいな目で見ないでほしいって言ってるんですけど》という言葉は、最初の「土井」のセリフの太字部分を演じるであろう(開かれてあるはずの)「未来のx」が、「現在の土井」の像として固定されてしまうことへの不満を示すのだ。
このように、たったこれだけの短い部分に、恐ろしく複雑な多層的構造が作られている。「戯曲の現在」からの過去→「戯曲の現在」→「戯曲の現在」の未来としてのコメントレイヤー→コメントレイヤーにおける対話→「コメントレイヤー」から先取り(予兆)された未来としての「(戯曲+コメントの外にある)上演」。これらの層が錯綜している。
(一体、これをどうやって「上演」したらよいのだろうか、と考えると途方に暮れるが。)
⚫︎追記。以下の文章の逡巡と錯綜具合があまりに大江的なので、読んでいてニヤニヤしてしまった。こんなに大江的な文章を、大江健三郎以外で見たことがない、と思った。
土井 そうやって〈弟〉から私に渡された手紙を読んだことが、今回の上演に私が踏み切るきっかけになった、それは事実。それも上演の告知が始まった時点で、ある程度の量があるフィクショナルなテキストを公開する「演出家」のやり方をマネて、私たちのフライヤーにも彼からの手紙を引用する、要するにあのことだけど…
(つづく)