●必要があって読み返そうと思ったのに、持っているはずの本がなかなか見つからなくて、探し続けるより図書館へ行って借りてしまった方が早いと思って---本を探していると目的ではない本をいろいろ発見してしまって効率が悪い---(純文学としては)わりとポピュラーな小説なので、ネットで検索したら、近くの歩いていける市立図書館の分館の書棚に貸し出されてなくてあるようだった。分館へ行ってとりあえず目的の本をゲットして、書棚をなんとなく流して見ていたら、ごく薄い岩波ブックレットの(その薄さによって逆に目立った)「『秘密の花園』ノート」(梨木香歩)という本があって、なんとなくついでに借りてみた。
梨木香歩という作家の名前はもちろん知ってはいるが、小説を読んだことはないのだけど、バーネットの『秘密の花園』は、生涯で好きな「お話」ベスト5に常に入るくらい好きな話だし、70ページちょっとの本なのでさらっと読めると思って借りたのだった。で、読んでみたらたいへんによかった。70ページで『秘密の花園』をもう一度読み返したかのような満足を味わえた。特に驚くべきことや斬新な読みが示されているわけではなく、きわめてオーソドックスで丁寧な読解が示されているのだけど、ある物語(小説)があって(そしてそれを何度も読んでいるのだけど)、その物語が他人の口(というか「筆」というべきか)によって改めて「語り直されている」のを読むことの面白さというのがあるのだなあと思った。物語を書く人の目線で読まれた物語が、物語を書く人の語りで語り直されている。おもしろかった。
(ただ、「母性」という言葉の使い方がやや気になるところもあるのだけど、それはまあ、読む側がそのように読まなければよいのだ。)
考えてみれば、小島信夫の『寓話』というのもそういう小説で、それが著名な作家の小説だったり、無名な個人の人生の物語だったり、いろいろするのだが、そのような物語が、手紙だったり、暗号化されたり、翻訳されたり、間に何人もの人に媒介された伝聞だったりして、他人の口を通して語り直される。そこには、オリジナルの持っている質感や正確さとはことなるものとなった、語り直されることで生じる面白さが生まれる。
(探していた目的の小説は、改めて読み返してみても、ぼくにはあまりぴんとくるものではなかった。)