Goodwood Festival of Speed 2011 PRE-WAR INDY

 今年は Indianapolis 500 が始まって100周年という記念すべき年にあたる。グッドウッドでは特別展示となり、遥々北米大陸から多数のマシンがやってきた。 
 アメリカの自動車レースと言うのは大雑把で単純、“WHITE TRASH”の娯楽というイメージが拭いきれず、興味の対象ではなかったのだが、今回、戦前のマシンを間近に観ることができ、イイものだと少しは思うようになった。

Indianapolis 500 公式サイト
http://www.indianapolismotorspeedway.com/indy500/




1911 MARMON‘WASP
直列6気筒 SV 9830cc
 1911年5月30日火曜日、記念すべき第1回レースで優勝したマシン。100年も前の話だ。
 当時、地元インディアナポリスに存在した“MARMON”という自動車メーカーの社長 Howard Marmon は、自社のクルマを宣伝するチャンスと捉え、社員で技術者の Ray Harroun に出場を要請、彼は技術者に専念するつもりだったので「これ一度限り」という約束で出場をきめた。
  Ray Harroun は Indianapolis Motor Speedway が煉瓦舗装でタイアには過酷なものと理解し、タイアの消耗がレースの勝利を左右すると考えていた。
 彼がレースのレギュレーションを読むと、「1人乗りのクルマでの出場」が禁止されていないことに気がつく。当時はメカニックが同乗する複座が一般的だった。1人乗りであれば重量も軽減され、タイアの摩耗も抑えられるし、燃費も良くなると考えた。そこで単座のモデルを制作した。
 スタートのグリッドは申し込み順であった。 MARMON 社は当時“Model 32”という市販車を売り出していたので、わざわざスタートに不利な32番を取得している。
 練習走行時に Ray Harroun は理想のレース・スピードを120㎞/hと判断した。タイアの損耗と、ピットでタイア交換をしてロスする時間を考えてのことだった。
 レース本番に先駆け、26日の金曜日にタイム・トライアルが行なわれた。その際、出場するドライバーの一部から「MARMON‘WASP’は同乗メカニックがいないので、後ろから速いクルマが追ってくるのを確認できず危険」とのクレームが出た。これに対して Ray Harroun はバックミラーを取りつけた。これはレース史上初のバックミラー装着と言われている。
 いざレースがスタートすると Ray Harroun は熱くならずに冷静に平均120㎞/hで走り、ライバルがタイア交換でピットインするのを横目で見ながら確実に順位をあげていき、見事、優勝することになる。100年後のいまも、タイア交換はレースの勝利のカギとなっているのは御承知の通り。 Ray Harroun は社長との約束通り、その後キッパリとレース活動を辞めて技術者に専念したという。彼は史上初の熱くならないレーサーだったともいえるだろう。
INDIANAPOLIS HALL OF FAME からの参加。






1913 PEUGEOT L45
直列4気筒 DOHC 4Valve 4500cc
 DOHC、4バルブという今日のレースエンジンでは常識的なスペックが、約100年前のプジョーによって完成されていたことに驚かれる方も多いであろう。実際は前モデルの1912年“L76”に搭載された技術である。燃焼室は半球形型で、吸排気はクロスフロー方式という先進的なものであった。全体の構想はスペインの高級車メーカー Hispano Suiza にいた Paul Zuccarelli(技術者であり1級のドライバー)によるもので、スイス人の Ernest Henry が設計している。
 インディーに参戦した“L45”は、戦後 Mercedes-Benz W196 が採用するバルブ強制駆動 desmo=dromic を先駆けて採用していた。Jules Goux の操縦により1913年のインディー500マイル・レースをブッチギリで優勝した。
 偉大なる先駆者であり、フランス車特有の知性を感じさせるマシンである。




1935 MILLER-FORD V8
V8気筒 OHV 3600cc 130ps/5000rpm
 Preston Tucker がフォードに売り込みレース・チューンで有名な Harry Miller に造らせたマシン。FF駆動、全輪独立懸架のメカニズムはインディ初であり、独創的で意欲的なマシンだった。エンジンはストックのフォード製V8を搭載している。FFにすることによりボディは低く低重心で魅力的なスタイルとなった。
 しかし、設計に取りかかったのがレースの僅か2ヶ月前で、最後の1週間は1日24時間の突貫工事で完成させた。そのため充分なテスト走行をすることなしで参戦することになってしまった。10台の予定が完成したのは4台。結果は惨憺たるもので、ステアリングのギアボックスがエンジンの熱で故障することにより、レース早々に全車リタイアとなってしまった。