プレスリーvsミイラ男 (監督:ドン・コスカレリ 2002年 アメリカ映画)

多分日本でも世界でも誰も言わないと思うからオレが書くが、この映画はホラーでもコメディでもバカ映画でもなく、実に文学的なテーマを描いている映画なんだと思う。キワモノの臭いこそプンプンすれど、物語の主題は実に人間的なものだと思うからだ。そして現代文学というのは、この映画のように奇矯で周辺的なシチュエーションをあえて選びながら人間的なるものを描こうとする流れがあったのではないか。表層で描かれるのは生きているかもしれないプレスリーやミイラ男かもしれない。しかしこの映画が本当に描いているのは人が老いる事、老いてなお人生の理由を考えるということだ。それは人として生きるなら誰もが直面する問題であり、そしてドラマではないだろうか。
この映画に登場する自称プレスリーの老人が本当にプレスリーかどうかは問題ではない。同じように自称JFKの老人が出てくるが、彼が黒人であることからもわかるように、有り得ないことであっても物語には少しも支障は無い。この老人がプレスリーであること、それは、かつて彼が青春を謳歌し自分の人生というものを持っていたこと、そして輝くような生のきらめきを体験していたことを表徴するための方便だと思っていい。
つまり”プレスリー”というのは輝ける生の記号であり代名詞であり、そしてその生のきらめきが、年老い体を病み、老人ホームで死を待つだけの身となったその時、いったい何がしかの意味があったのだろうか、と問いかけることがこの映画のテーマなのだと思う。映画の中で老人は思う、「所詮人生というのはメシとクソとセックスなのだろうか」と。例えそれがスーパースターであろうとどこにでもいる詰まらない男であろうと、生の根源というものがそこにしかないのだと気付いた時、感じる虚しさは一緒なのではないか。そしてどのような生を受けたものであろうとやはり共通して思うのではないのだろうか、人生とはなんだったのだろう、と。
そしてこの老人ホームに突如として現われ老人達から魂を奪ってゆく”ミイラ男”というのは当然のことながら”死”の象徴ということになる。現実かどうかは別として、プレスリー老人もJFK老人も年老いる事によりかつての栄光は費え去ってしまった。今は誰からも省みられず老人ホームに打ち捨てられ忘れ去られるしかない老人達は、ただ”死を待つ”だけの存在でしかなかった。しかし。彼らは、その”死”の顕された姿と対面した時、これと戦う事を決意するのだ。勿論死から逃れられる術など一つもないのだけれど、それでも彼らは戦おうとする。何故なら、それが、人間的な行為であり、ただ死ぬためにのみ生きていたわけではないという己の存在への誇りを彼らが思い出したからだ。
エンターティンメントとして見れば貧相だったり中ダレする部分もあり、誰もが楽しめるとは言い難いけれど、映画の持つテーマは決して陳腐ではない。歩行器を使わなければ歩けなくなったプレスリーがかつての派手な衣装に身を包みミイラ男との最後に戦いに馳せ参じる姿は滑稽ではあるけれどもどこか切ない。そしてそれが老いるということなんだと思う。しかしどのように滑稽であろうと我々は生きようとしなければならない。その悪あがきの中に我々はドラマを見、人間の姿を見るのだ。だからこそ、このプレスリーの姿は、切ないのである。

プレスリーvsミイラ男(原題:Bubba Ho-tep)トレイラー