ペニスのない証人の資本論

大雨の後、寒くならずに逆に暖かくなる。一週おかずに次の雨がやってくる。完全に春のサイクルだ。やはり今年は季節の歩みが半月は早い。
▼穏やかな日曜日である。奇跡的に1月の日曜を全て休むことができた。雨が近いせいか、朝から暖かくてストーブを入れる必要がない。子供たちは二人とも外泊したまま帰らない。妻はヨガ。なんとも平和でのどかな朝である。だが昨夜「イスラム国」に動きがあったらしく、午前中の報道番組はこれ一色。まあ動きがなくてもこれ一色だったろうけど。
▼この間二人の人質の報道にはずいぶん偏りがあった。メディアの紹介はほぼ99%フリージャーナリストの後藤さんのみ。政府による指示がなかったとしても、「イスラム国」と敵対する組織と行動していた「民間軍事会社代表」の湯川さんに多くを割くより、「善意のジャーナリスト」後藤さんを宣伝した方が「イスラム国」を刺激しないとの勝手な判断と自主規制があったのかもしれない。
▼だとしても、同じように二人並べて死刑宣告を受けて、こうまで世間の扱いが違う理由が個人のこれまでの生き方に由来するとすれば、つい自らの来し方を反省的に振り返りたくもなる。事実二人の命の重さは違った。殺害予告期限の72時間の間、「イスラム国」は日本の反応をメディアを通して注視し、そこから次の行動を決めたはずだ。結果は湯川さん一人の殺害となった。偏った報道によって、後藤さんの方がより重要な人物、つまり人質として価値があると判断されたのだ。
聖人君主のような後藤さんにもわからない部分は多い。母親のコメントによると、殺害予告が出て初めてお嫁さんと電話で話し、出発の2週間前に赤ちゃんが生まれていたことを知ったという。自分の赤ちゃんが生まれた直後に奥さんを残して赤の他人を救出しに死地に赴くという行動も理解しがたいが、孫が生まれたことを母親が知らなかったというのも腑に落ちない。こういう感想自体ステレオタイプなものなのかもしれないが。
▼これはあくまで僕の憶測にすぎないが、おそらく「イスラム国」の要求は一貫している。表に出てくる情報は別にして、水面下では常に日本政府に対し身代金を要求しているはずだ。単純に彼らにとってそれ以外にメリットがないからだ。より利用価値がある方を残し、金銭的に折り合える地点を探っているのではないか。一連のテロ行為に対し仏首相が「世俗主義に対する挑戦」と演説したが、世の争いは常にお金を巡るものという意味では、これも世俗主義世俗主義の戦いである。
▼政府には表に出せる情報出せない情報があるかもしれないが、答えられない質問もある。二人の邦人が「イスラム国」に拘束されている中で、中東歴訪中の安倍首相が「イスラム国」に敵対する周辺国に2億ドルの支援を表明するにあたって、政府はこういう事態を予測していたのかいなかったのか。予測していなかったとしたらお粗末にすぎるし、予測していたとしたら政府にとって国民の命は、はなから国家間の同盟関係より軽いということになる。日本はそのような国だ。
▼やがて上の子が帰ってきて「後藤さん爪が剥がされてる」と言う。湯川さんの写真を持った指の先が赤いらしい。何事にも無関心な彼が、めずらしくこの事件には並々ならぬ関心を示している。何か思うところがあったのかもしれない。普段は新聞どころかテレビのニュースも見ない子だ。不謹慎かもしれないが、世の中について考える契機になればいいと思う。
▼昼過ぎにヨガから帰ってきた妻と本当に今年度最後になるであろうランチデートを楽しむ。フランス料理のシェフが開いたカレー店。僕は牡蠣のカレー、妻は牡蠣のグラタン。


大ぶりの牡蠣が軟らかく仕上がって格別である。カレーにしては多少値が張るが、フランス料理だと思えば安い。妻も大満足だ。
▼食後のデザートを求めて二度目(妻は三度目)の大北海道展へ。日曜日とあってか先週と変わらぬ大盛況ぶりだ。白い恋人やお目当てのシュークリームは既に売り切れていた。大混雑の会場で会社の事務員夫婦とすれ違った。互いに美男美女のカップルだ。ジェラートを楽しんでいるのも同じ。

▼我々はアラブ諸国の人々はもちろん、事業に失敗して奥さんを病気で亡くし、局部を切り取って自殺を図ったブサイクな女装の湯川さんとも比較にならないほど恵まれた境遇にある。日本に居場所のなかった彼はシリアに新天地を求めたのだろうか。それとも死に場所を求めていたのだろうか。少なくとも彼がその生き様によって再確認させてくれた事実はそれほど小さいものではない。

夕食は牛丼に野菜スティックにポトフ。
▼さあ明日から戦いの日々が始まる。犯罪にこそ手を染めることはないが、僕だって最終的にはお金が目的である。世の中はお金が全てだ。合法的にお金を手に入れる術を知っている人のものである。現代社会はそれを是とすることで成り立っている。お金さえあればなんだってできる。お金さえあれば命だって贖える。あらゆる宗教や寓話や教訓が、尽く「お金が全てではない」と教えていることが、逆にそのことを雄弁に物語っている。