賞のためでも読者のためでも

芸術新潮 2011年 02月号 [雑誌]

芸術新潮 2011年 02月号 [雑誌]

きょうは大江健三郎の76才の誕生日ですね。
彼が亡くなるまえに一度でいいから自作を読まれたいもんです。
胸を張って出せるようなものは書けていませんけど。
『波』11・2の高橋秀実によると、村上春樹の『雑文集』に≪作家にとってのいちばん大事な賞とは、あるいは勲章とは、熱心な読者の存在であって、それ以外の何ものでもない≫と載っているそうだ。
たしかにそうだ。
でも熱心な読者以外にへりくだると、樋口直哉や佐藤弘みたいに結果的に読者を失うことになるような。
先週の『バクマン。』でも読者の視点で考えることが語られていた。
絶対感覚さえあればおのずと判るような気もするが違うのか。
芸術新潮』の中原昌也「ぼくの採点症」第2回を金曜日に立ち読みしたのだが、アジア杯の決勝のつぎに名古屋地区はここで取り上げられていた『ビフォア・サンセット』という映画が放送された。
サッカーが延長したし、優勝もしたから放送中止の可能性もあると、新聞にもそういった断りがあったし、とおもったが無事放映された。
ビデオで予約録画してまだ観ていないがさわりだけ歯を磨きながら観たところ小説家の話らしかった。
恋人との一日を追った作品らしい。
迎合しないでいい読者を得たい。
私の小説の読者はおそらく多く見積もっても5人くらいだけど。
これだけいればいいとも言えるような気もする。
読者は増えたほうがいいのか。
これは不可抗力ですかね。
いや、努力しだいか。
う〜む。
新人賞に送るだけよりは同人誌のほうが人目に触れ刺激も多い。
早稲田文学新人賞と群像新人文学賞には送る予定だけど、落ちたら同人誌やこのブログに転載する気だ。
しかし進行中の作品は自分でもどこがおもしろいのか判らない。
きのう神の視点と語り手の視点がごっちゃになっていたのを統一してみたが。
このさき、いったいどうすればいいのか。
考えることができない。
こりゃまださきが長いね。
あす、あさっては小旅行につき、ブログはお休みします。