桜 -1-

「ったく、ふざけんじゃないわよ!」
詩織は公衆電話の受話器を乱暴に叩き切って、小声で呟いた。
管理人室でテレビを観ているおばさんには聞こえなかったようだ。


長良川沿いに、一軒ぽつんとある民宿。1階の半分が食堂になって
いるが、午後2時すぎの食堂はガランとしていて、有線が申し訳
程度に流れている。
詩織は公衆電話のある民宿の廊下から食堂へ降りて、珈琲を
オーダーした。長良川の流れが見える席に腰を下ろす。
清流の音は、有線の音もかき消していた。


インスタントかと思うような熱すぎるコーヒーを一口飲んで、
詩織はまた「ったく!」と呟いた。


郡上街道には東京より一足早く秋が訪れていた。
「夕日を浴びて走る長良川鉄道が絵になる!」と言うから
こんな人気のない村の一軒屋に宿を取ったのに、取材に同行する
カメラマンから、たった今ドタキャンの電話を受けたところだ。


珈琲を持て余しながら、詩織は長良川の流れを眺めた。
「明日からの取材、どうしよう」
カメラマンとはこの民宿で合流することになっていた。
カメラマンが岐阜でレンタカーを借りて、2泊3日で郡上八幡から
白川郷にかけて二人で周ることになっていた。詩織の足が無くなって
しまった。
「ったく、どうしようっていうのよ!」


航空会社が、オリンピック観戦客のために空港のスクリーンで
「日本の美」をテーマに短編番組を流すと言い出した。コンペの
連絡がきて半月。詩織はてっきりコンペには参加しないのだと
思っていた。それが昨日になって突然、詩織に命令が下った。
「この番組、取ってこい」 部長はいつも思いつきだ。
コンペは一週間後に迫っていた。詩織は充分な用意もできないまま
とりあえず東京を飛び出した。
稲穂の揺れる白川郷を想像した。しかし長い時間、長良川鉄道
揺られているうち、それは不可能だと気付いた。田圃の稲は
とっくに刈り取られていたのだ。


「どうしようかなぁ!」イライラした気分で詩織は繰り返す。
とりあえずカメラは持ってきている。一人で取材を続行するしか
なさそうだが、足が無い。近くにレンタカーもなさそうだし、
国道にはタクシーはおろか、バスも1時間に1本あるかどうか。
「あーあ…」 詩織はコートからポケットサイズの時刻表を
取り出すと「長良川鉄道の旅かよ、航空会社だぞ、おい」。
ぶつぶつと独り言を言っていると、食堂のドアが開いた。


「こんにちは」若い男性の声だった。
詩織は無意識にそちらに目を向けた。白いタートルネック
紺のチノパン。少し茶色味がかった髪。すらっとした長身で
丁寧にドアを閉じる男性の仕草は、洗練された都会の雰囲気を
感じさせた。
「すみません、今日、こちらに宿泊できますか?」
男性は来客に気付いていなさそうな管理人室のおばさんに
向かって声をかけた。
詩織以外の、今夜の宿泊者が到着したようである。


この物語はフィクションです。実在する人物・団体・組織とは一切関係ありません。