桜 -4-

荘川を出ると、車は川と崖に挟まれた2車線の細い道を辿った。
ここを抜ければ、合掌造りの村である。
この狭い道が白川を陸の孤島としたならば、この道は過去への
タイムマシンだ、と詩織は思った。
善文も黙ってハンドルを握っていた。善文は白川郷へ行ったことが
あるのだろうか?そんなことを考えながら、善文の顔をちらっと
見た。道のずっと先を見る善文の瞳は、既にできあがった番組を
眺めるかのように落ち着いている。公家はこんな田舎には
やって来なかっただろうな、と思ってつい詩織は笑った。


トンネルが続いた。そして幾つめかのトンネルを抜けたとき、
視界がぱっと開けた。道の脇に、合掌造りの家が顔を出した。
「うわぁ」
詩織は思わず声を上げた。そしてシートから少し腰を浮かせて、
道の先にある白川の村を待ってましたとばかりに見回した。
「ふっふ」
善文が目を細めて笑った。
「立っちゃ、危ないよ」
「だって!」
詩織は興奮して声を出した。
「本当に、こんな村があるなんて思ってみなかった。すごい!
私たち、箱庭に入っちゃったみたいじゃない?!」
「ほっほ」
善文がさらに大きな声で笑った。


車は交差点に来ると右側にウィンカーを点滅させた。
「さて」
善文は普段の顔に戻って聞いた。
「僕は右に行くけど、あなたはどうする?」
「あ…」
詩織ははっと我に返った。どっちに行こうか。決めていない。
「ここを右に曲れば村の中心だけど、そっちまで行っていい?」
詩織は両手を振った。
「ここ、ここでいいです。ここで降りるから」
「そう」
詩織はシートベルトを外し、車の外へ出た。交差点の真ん中。
それでも車は一台も見当たらなかった。
後部シートを開け、詩織は荷物を全部出した。けっこう、重い。
こんなものを持って一日歩くかと思うと、ぞっとする。
荷物を全部背負うと、詩織は車の中にぬっと首を入れて
「ありがとうございました。健闘を祈ります」
「そちらこそ」
善文は笑って答えた。詩織が車のドアをばんっと閉めると
善文のレンタカーは右へと曲って行った。


「さて。どうすべぇ」
詩織は交差点で一人ごちた。ぐるっと見ると、どこもかしこも
合掌造りの家である。思っていた以上に家は大きい。
思っていた以上に、屋根の茅は勾配がきつかった。
「これ、どうやって造るのかしら?やっぱりひと?」
呟きながら荷物を持ち直すと、やはりどこかで取材の作戦を練る
必要があると思った。
とりあえず近くにある喫茶店に寄ってみる。


鞄の中から観光マップを取り出す。今、自分がどこに居るのか
確認する。
「うわっ。宿とはかなり離れてるわ。厳しいなぁ」
姉さんかぶりをしたおばさんがお茶を持って来てくれた。
詩織は店で一番おすすめだという定食をオーダーした。
料理が来るまでに、取材の計画を立ててしまおうと思った。
宿に行く途中に、国の重要文化財「和田家」がある。
まずはここに寄ることに決めた。
「明善寺も押さえどころよね」
そう言っているうち、料理が運ばれてきた。
「え?」
割り箸を割ろうと待ち構えていた詩織の前に置かれた料理は、
幾つもの小皿に盛り付けられた、佃煮、煮物、甘露煮。
「食事って、いつもこんな感じなんですか?」
思わず姉さんかぶりを見上げる。おばさんはにこっと笑って、
「白川は冬が厳しいでしょう?こうして保存の効くおかずが
いいのよ」
詩織は改めて盆の上を見下ろす。
「ほら、まずは食べて御覧なさい」
おばさんはからからと笑いながら厨房へ戻って行った。
「ふうん」
詩織は山菜の漬物に箸を伸ばす。見た目より歯ごたえは
しゃきしゃきしていた。
もうひとつ、箸でつまむと
「お前たち、東京では定食の添え物だったかもしれないわよ」
しかし、添え物を全部平らげると、充分すぎる満足感を得た。


「さて」
食事を終えて取材へと向かう。イラスト化された観光マップでは
どこを歩いているのか分からなかった。
「これ、道かしら?」
重い荷物に改めてカメラマンの憎ったらしい顔が思い出される。
 

詩織は国重文「和田家」に入った。外では見かけなかったが、
中には他にも観光客が居た。それにしても、紅葉にも早いこの季節、
観光客は断然少ないのだろうと思った。


そのあと明善寺に寄り、鐘楼を眺め、それから今夜の宿「かんじゃ」に
足を運んだ。
「かんじゃ」の周りには何もなく、また人影もなかった。
「すみませーん」
声をかけてみるが、人が出てくる気配もない。
「おかしいなぁ」
「かんじゃ」の裏にも回ってみたが、誰も居ない。
「畠仕事かしら…。荷物だけでも置いて行きたかったのになぁ」
詩織はまた来た道を戻った。


バス通りを散々うろうろした挙句、夕方の5時頃になって、ようやく
詩織はもう一度「かんじゃ」に戻った。今度こそ、人が居た。
「いらっしゃい」
かわいい感じのおばさん…詩織とは10歳くらいしか違わない?
が出迎えてくれた。
「お連れさんはもうお着きですよ」
「え?」
あ!しまった!カメラマンの分、キャンセルし忘れてる!
あら、じゃあ「お連れ」さんて?
そう言えば!
詩織は囲炉裏のきってある部屋に荷物を置くと、くるりと入口に
駆け戻り、玄関の戸を開けて左の道路に目を向けた。
やっぱり!
そこには白い軽が止まっていた。来るときに目に入ったはずなのに
そのときは疲労のあまり、レンタカーが認識できなかったのだろう。
「どうされたんです?」
「かんじゃ」の女将は笑いながら、一緒に入口まで出て来た。
「あれ、東京から来た男性の車、ですよね?」
「そうです。だからお連れさんのじゃないかと?」
「あ!」
今度は囲炉裏から声が上がった。振り返る詩織。
そこには白いTシャツに紺のスウェットパンツ、首にタオルをかけた
善文が立っていた。


この物語はフィクションです。実在する人物・団体・組織とは一切関係ありません。