桜 -5-

お膳を向かい合わせにして、善文と詩織は座っていた。
若い女将がやってきて
「お酒はどうしましょう?」
と尋ねた。
「ビールはお一人様に一本おつけしますけど」
「あ。じゃあビールだけでいいです」
善文が即答した。
女将はお膳の横に置かれた冷えた瓶ビールを開けてくれる。
「どうぞ」
二人のグラスにビールが注がれたとき、善文と詩織はなんとなく
目を合わせ、そして
「お疲れ様でした」
とグラスを上げた。


囲炉裏をきってあった部屋の隣、天井のある部屋が食事処であった。
部屋のもう片隅には4つの膳が用意されている。客が他にも
あるらしい。
二人は会話らしい会話もなく、黙々と食事をしていた。
ほう葉の上では飛騨牛さいころステーキがほどよく焼けてきた。
「ごはんお持ちしましょうか」
女将がおひつを持って入って来た。
「お二人は、お部屋、別々でよろしかったんですね?」
女将の問いに、詩織は飛騨牛を噛まずに飲み込むところだった。
善文は飲んでいた味噌汁を、もう少しで気管へと流しこむところだった
らしい。ごっほっと咳き込んだあと
「あの、僕ら、全然そういうんじゃないですから」
慌てて否定する。詩織も大袈裟に頷いた。
「あら失礼。東京からお二人だと聞いたもんで」
詩織は善文を斜め上目遣いでにらんでみせた。
善文は今夜も予約なしの飛び込み客であった。それが偶然にも
同じ民宿で、詩織のキャンセルし忘れも手伝って、女将を誤解させた
ようだ。


善文は詩織より早く食事を終えると、両腕を床に着いて天井を見上げ、
「思ったよりずいぶん温かいんですね」
と言った。
「ええ、囲炉裏に火が入るとね」
女将はお茶を煎れながら優しく笑った。
「壁と柱とか、黒いのは煤ですか?」
「そうです」
「部屋が煙たくなりませんか?」
「煙は上の方に上がってしまうでしょう?屋根の茅に煙がまいて
虫除けにもなるんです」
「へえ。この茅は、ずっと同じですか?」
「屋根は決まった順番に、村全員で葺き替えるんです」
「え、やっぱり葺き替えるんですか?」
「そうです。全員で。一日かけた、大作業です」
「ああ、そういえば、そんな記録ビデオを観たなぁ」
そんな会話を聞いているうちに詩織も食事を終えた。完食である。
「あの、『かんじゃ』ってなんですか?」
「屋号です」
「どういう意味ですか?」
「さあ、屋号の意味までは…」
女将は苦笑した。
「愛称みたいなもんですよね」
善文は女将に向かってにこにこして見せた。
詩織は思いついたことをすっと口にした。
「もっとモダンな家とか、住んでみたいと思ったことはないですか?」
「さあ。どうでしょうね」
女将はただ微笑むだけで、質問には答えなかった。


食事を終え、それぞれ部屋に戻った。とても静かだった。
テレビの音も車が通る音も、東京では当り前に聞こえる音が、
この部屋には…この村には全然無かった。
退屈なので囲炉裏端に行ってみようと詩織は部屋を出た。
囲炉裏には既に善文が座っていて、灰をくるくるとかき混ぜていた。
「あ…」
「こんばんは」
たった今会ったかのような挨拶をすると、詩織は善文とは違う場所に
腰を下ろした。
他の4人の客が着いたらしく、食事処はにぎやかだった。
4人が4人とも、Yシャツにネクタイを緩め、合掌造りを褒めていた。
女将はビールの追加を運びながら、楽しそうに笑う4人のおじさんの
相手をしていた。
世界遺産登録を目指している地域が白川郷の例を聞きに来たんだって」
「ふうん」
詩織は興味がなかった。
世界遺産に登録されるというのは、そんなに名誉なことなのだろうか。
建物ひとつ改築できなくて、ますます時代に取り残されて行く。
それでも残したいのだろうか、この村を。


善文がぼぉっとしている詩織に向かって
「散歩に出ませんか」
「あ…」
特に断る理由も見付からず、詩織はそのまま上着も取りに行かず
夜の白川郷へ出て行くことにした。


「外はけっこう、冷えるんですね」
トレーナーは着ているものの、裸足の善文は寒そうにした。
「合掌造りって、よっぽど温かいんですね」
詩織も薄手のジャケットを前で合わせるようにして背中を丸めた。
「バス通りまで出てみませんか」
そういう善文のあとを黙ってついて歩いていたつもりが、
「きゃっ」
詩織は急に軟らかくなった土に足を取られた。あぜ道に落ちたようだ。
「大丈夫ですか?」
善文が詩織の腕を捕まえて通りに引き上げた。
「すみません」
詩織は急にドキドキしたのを善文に悟られまいと、すっと善文の手から
腕を下ろした。善文はあぜ道から上がった詩織に、もう一度
「大丈夫ですか?」
と聞いた。
「大丈夫みたいです」
「道の真ん中を歩きましょう」


車通りはほとんどなかった。都会の夜に目がなれた詩織には、白川の夜は
とても暗く感じた。空はまだ濃い青色を残しているのに、白川は山に
囲まれて、闇に沈んだようである。
「なんか、思っていた以上に何にもないですね」
善文が笑った。
「日が暮れたら仕事はおしまい、って感じですね」
遠くに近くに、影だけになっている合掌造りの家々は、それだけで生きて
いるようだった。昼間よりもずっとずっと大きく見えて、息をひそめて
二人を見詰めているように感じた。
「戻りましょうか」
善文は笑って言った。


「かんじゃ」に戻ると囲炉裏のぬくもりが二人を包んだ。
「ああ、あったかい」
善文が嬉しそうに笑った。
今気がついたのだが、善文には「かんじゃ」の入口は低すぎるようで
ある。なにげなくひょいと腰を屈めて入った善文の格好は、もう
何年も通い慣れた人のようだった。
公家でもここには来たんだわ。詩織はそう思った。


善文は囲炉裏端にあぐらをかいて座ると、寒そうに両手をすり合わせた。
通りかかった女将が笑う。
「外はもう冷えたでしょう」
「ええ、体がひえちゃいましたよ」
善文は小さな子供がみせるような無邪気な笑顔で
「すみません、酒、ありますか」
と女将に聞いた。女将も善文の笑顔に負けたのか
イワナの骨酒でしょう?特別ですよ」
「すみません」
善文は悪びれもせず、ただ嬉しそうにニコニコしていた。
詩織もまた囲炉裏端に腰を下ろした。
「佐倉さん、酒、いける口ですか?」
善文の無邪気な笑顔が詩織に向けられた。
「ええ」
答えてからはっと気付いて取り消した。
「いえ、たしなむ程度です」
「ほっほっほ」
善文はまた公家笑いをする。
イワナの骨酒は、酒好きにはたまりませんよ。一緒に飲みましょうよ」
酒を「たしなむ程度」なんてのは詩織の大嘘である。ぜひ、その骨酒を
ご相伴に預かりたいものだ。


女将は盆に2杯の骨酒を乗せて現れた。
本当に魚がグラスに入っていた。詩織が初めて見る酒だ。
「焼いた魚の出汁が、いい感じに酒に出るんですよ」
善文は女将から2杯ともグラスを受け取ると、一つを詩織に渡した。
燗だった。グラスに顔を近寄せると、焼き魚独特の匂いがした。
「お互いの成功のために」
善文は無邪気な笑顔のまま、詩織のグラスに自分のグラスをカチンと
当てた。


それから二人は囲炉裏端で他愛のない話に花を咲かせた。
ハイビジョンカメラを落としてレンズを割ったこと(善文談)。
地方ロケに水着を持って行ってみんなの前に曝されたこと(詩織談)。
ビデオ編集のとき、煙草の煙がすごすぎること(善文・詩織共通談)。
相手が天下のNHK−EPのディレクターであることも忘れ、詩織は
楽しい時間をすごした。時間の感覚すら忘れるほどに。


「ああ、酔ってきた。僕、酔うとすぐに眠くなっちゃうんですよ」
善文は囲炉裏端にごろんと横になった。肘枕をついて詩織を見る。
「今日、どこ回ったんですか?」
善文が真顔で聞いた。
「え、どこって」
「いいじゃないですか、それくらい」
また酔っ払いの顔に戻る。
「それじゃあ、先に田辺さんが答えてくださいよ」
「いいよ」
善文は左の手の指を折って
「商工観光課でしょ、教育委員会でしょ、白川郷観光協会…」
「また役場に行ってたんですか?」
「そうだよ」
「和田家や明善寺には行かなかったんですか?」
「ああ… 重要文化財ね… うーん、外から見ただけ」
「えー、信じられない」
「あー、でも荻町展望台には行ったよ」
「展望台?」
「そう、荻町が見下ろせる丘。すごかったなぁ、別世界だと思ったよ」
善文はもうそうとう眠そうである。


そこへ女将が通りかかって、聞いた。
「明日はお二人とも五箇山ですか?」
「あ、私、違います。東京に帰らないと。バスの時刻表ありますか?」
「ああ、それなら役場のかっちゃんが朝から岐阜にみえるって言ってた
し、頼んでみてあげるわ」
「すみません」
女将はかっちゃんとやらに電話をしてくれた。
「乗せてってくれるって。朝8時に出るけど、構わんかって」
「大丈夫です、8時に出ます」
肘枕もやめ、すっかり囲炉裏端に崩れていた善文が、聞いてもないのに
「僕も8時に出ます。僕は五箇山に行きます」
と答えていた。いや、もしかしたら寝言かもしれない。


この物語はフィクションです。実在する人物・団体・組織とは一切関係ありません。