桜 -6-

翌朝、善文は普段のきりっとした殿様に戻っていた。白いシャツに
黒の皮パン、揃いのベストを羽織っていた。
「おはようございます」
凛と響く声。
昨晩の独り言は寝言ではなく、本当に8時に白川郷を発つ予定らしい。


詩織は昨晩、骨酒の余韻に浸って眠った。
取材の資料も、番組のテーマも決められなかった。
まぁいいか、タイムスリップしたこの世界を満喫しておこう。
おのずとテーマなんて決められるはず。
そんな甘い考えのまま夢の中へと落ちていったのであるが、今朝になって
みると、テーマが絞れないのはさすがに痛い。


役場のかっちゃんが8時すぎに「かんじゃ」まで迎えに来てくれるという
ので、詩織は荷物を全部まとめて、囲炉裏を背に座っていた。
玄関の戸が開いていて、ぼんやり外を眺めていた。
善文が荷物を部屋から出して来て、詩織の座っている近くの柱の陰に
まとめて置いた。
「女将さん、すみません、僕、もう出ます」
奥に声をかけると、女将さんが愛想良く出て来た。
五箇山までの道も細いから、気を付けてね」
善文は宿代を女将に手渡した。
「じゃ、荷物、運んじゃいますから」
そう言うと、三脚つきのカメラとビジネスバッグを持って、民宿の玄関を
出た。柱の陰にはコートと大きな紙袋が残っていた。


女将は玄関の外へ出て、善文の車の方へと歩いていった。
詩織は部屋に一人で居た。
すると、突然、バサバサバサという音と共に、善文の紙袋から何枚もの
紙が滑るように落ちた。そして順番もなにもめちゃくちゃに、辺りに
広がった。
咄嗟に拾おうと腰を浮かせた詩織は、はっとして立ち上がるのを止めた。
落ちたのは、善文の絵コンテだった。


一番遠くに飛んでいったコンテの右上の数字はNo.86。
拾うのをためらった詩織だが、それでもそれらを拾い集めた。
順番はめちゃくちゃかもしれないが、一番上にはNo.1のコンテがあった。


画面の描写は殴り書き。しかし映像番号とタイムコードがしっかり書き
こまれている。NHKは過去に収録したビデオを全部検索して観られる
ようにライブラリ化していると聞く。きっとその番号なのだろう。
善文はそれらを全部見て下見をし、目的をもって取材に来ているのだ。
10枚単位ごとに、ペラペラと中を見てみた。全部のページに、細かく
映像番号が記されている。しかし半分以上に、大きく×がしてあった。
×をしてある横には赤い文字で「新規撮影」と書かれたものもある。
詩織はもう一度、No.1のページをみた。下半分は×。
そして恐らく番組のタイトルであろうOP(オープニング)のコマには
「残された日本の美」という文字があり、そのうち「残された」の箇所が
何本もの横線で消されていた。
「なにしてるの」
詩織ははっと顔を上げた。
玄関を入ったところ、善文が詩織のすぐ前に立っていた。
「なにしてるの」
善文は再び言った。今度は前よりはっきりと、そして怒りのこもった声
だった。
「あ、あの、これ、下に落ちて…」
詩織は必死で説明しようとした。
「見たんでしょ」
善文の強い口調は変わらない。
「見たっていうか、拾って…」
「そういうこと、しない人だと思ってたよ!なんだか、がっかり!」
善文は詩織からコンテを奪い取ると、破れた紙袋に入れ、コートと一緒に
抱えるように外へ出た。
振り返らなかった・・・
女将が「気を付けて」手を振るのが見えた。そして白い軽が「かんじゃ」を
出て、道をまっすぐ下って行くのが見えた。
善文は…振り返らなかった・・・


2週間後。


部長のところへ営業がやってきた。
「決まったらしいよ、航空会社の『ようこそ、日本の美』」
「なんだ、うちじゃないのか?」
「違うよ。NHK−EPだってさ」
「EPかぁ」
コンペには結局8社が参加した。詩織ももちろん企画を練った。
郡上八幡から白川郷にかけて自然にあふれた日本の美をテーマに
しようと思ったが、善文の「残された日本の美」というタイトルが頭から
離れなかった。善文との別れ際の後味の悪さもあって、企画は頭の中で
こんがらがった。そこで結局、白川郷の美しさを切って貼って集めた
ような企画になってしまった。我ながら、最悪だと思った。
「落ちた原因は?」
「EPの企画が圧倒的に良かったんだって!」
「圧倒的?」
「そう。群を抜いていたって!」
「なんだ、そうか。予算じゃ負けるはずないもんなぁ」
部長は立ち上がって営業の肩をぽんっと叩いた。
「そりゃそうでしょう。今回は頑張ったもの!」
「悪い、悪い、珈琲でもおごるよ」
部長と営業は部屋から出て行った。
詩織はため息をついた。
はぁ… 同じ取材をしてるのに、やっぱり天下のNHK−EP様だわ。
ごみ箱の前まで椅子を持って行って「ようこそ日本の美」のオリエン
シートをちょきんちょきん、とハサミで切った。

この物語はフィクションです。実在する人物・団体・組織とは一切関係ありません。