桜 -終-

夏。
詩織は人でごったがえしの成田空港出発ロビーに居た。
オリンピック観戦客で出国も入国も時間がかかる、と言われている。
そんな中、詩織たち一団は海外ロケを敢行しようとしていた。
TシャツによれよれのGパンを履き、赤いブラウスを腰に巻いて
詩織は仲間が到着するのを待っていた。
混んでいるからと集合時間が出発2時間前になっている。なのに
案の定、ちゃんと着いているのは詩織も含め、3人だけだった。


あーあ。昇ってくるエスカレータを恨めしそうに眺めながら
詩織はため息をついた。全員が揃うのはまだまだ先だな。


隅にあるコンビニで飲み物を買うと、詩織はロビーの椅子に腰を
おろした。椅子は窓の外に向けて設置されていて、蜃気楼にゆれる
滑走路が見えた。大きな飛行機が荷詰めをしている。
椅子の横に大きなスクリーンがあった。白い雲の上の真っ青な空を
飛行機が飛んでいる。ああ、パイロットはこんな景色を見ているの
かなぁと思いながら、お茶をひとくち。


と、画面がフっと変わった。突然画面に飛び出したのは、あの
白川の合掌造り村落であった。仮タイトル「ようこそ、日本の美」、
NHK−EPの田辺が造った番組である。
詩織は飲み物を膝の上に抱えると、スクリーンに体を向けた。


合掌造りの村。4階建てにもなる家を、スクリーンは遠くから近くへ、
そしてまた遠くへと流れるように映している。
それは詩織が実物を見たときと寸分違わず、鮮やかでたくましかった。
村の人たちが集まってくる。どんどん、どんどん集まって来る。
小学低学年くらいの男の子と女の子が、大人たちの中をはしゃぎながら
走り回っていた。
集まった人たち、たぶん村中の人たちが一軒の家に集まる。
すると半数近くの人が屋根に昇って、茅を落とし始めた。
「あ、屋根の葺き替え!」
詩織が民宿で聞いた通り、とても多くの人たちが皆で屋根の葺き替えを
している。屋根の勾配はきつかった。大変な作業である。
映像は無声ビデオの仕様だったはずだ。なのに画面からは、大人たちが
声をかけあって茅を掛けている様子が、子供たちが辺りを走りながら
大騒ぎをしている様子が聞こえてくるようだ。
「大工さんが葺き替えるんじゃないんだ。ただの人があんなに集まって」
画面がまた変わった。
今度は村中が水びたし。放水ポンプを一斉に開けたのだった。
勢いよく飛び出す水が、まるで一番高い屋根の上にまで届きそうだ。
ここでも大人たちが呼びかけあっている声が聞こえるようだった。
今度は真っ赤なほっぺのおじさん。
杯を持ってにっこにこ。あっちにもこっちにも、杯を持った人たちで
境内はいっぱいである。
「ああ、これが『どぶろく祭り』なのね?」
詩織は独り言。
子供が大人から杯を受け取って、匂いをかいで恥ずかしそうに杯を
返した。大人が笑っている。子供はぴょんぴょん飛び跳ねた。
彼らも大人になったら、酒で頬を赤く染めて大笑いをするのだろうか。


それから村は冬の景色になった。雪がふりしきる。
合掌造りが雪に埋もれていく。
そのとき、詩織は画面右下に小さく映像のタイトルとNHK−EPの
ロゴが入っているのに気が付いた。タイトルは
「守り継ぐ日本の美」
詩織ははっとした。善文の番組は合掌造りや町並を映しているんじゃない。
そこで「生きている」人たちを映しているんだ!
映像の中では、囲炉裏を囲んだ人たちが居る。子供たちは囲炉裏端に
寝転んで、二人で何事か話している。内緒話をしているのだろうか、
時々口を抑えて、くすくす笑っている。
外は雪。


これが善文の見た白川郷なのね?
「残された美」なんかじゃない、白川郷なのね?
時代に取り残された村なんかじゃない。同じ時代を自分たちのスタイルで
生きている人たちの姿なのね?
「残し」たいんじゃない。自分たちのスタイルを守りたいんだ。
そして次の世代へ「継いで」いくんだ。それが白川の「世界遺産」なのね?
詩織は涙がこぼれそうになるのを必死でこらえていた。
善文の「残された」を何度も消したあのタイトル文字が思い出される。


厳しい冬の中、ライトアップされて神々しいまでに青く輝く荻町が
映し出された。幻想的だった。まるでガラス細工の中に入ってしまった
ようである。しかしここでも、善文は二人の子供の姿を追っていた。
そして雪解け。
小さな川が生まれる。ふきのとうが顔を出す。白川の村に
「色」が帰ってきた。
桜? 濃いピンクでぽっちゃりとした花が咲いている。
合掌村落がバックに映っている。荘川桜ではないようだ。
ここでも二人の子供が楽しそうに走りぬけていく。ところが
女の子だけが桜の木の下に戻って来た。ピンクの花に向かって
何事かをつぶやいた。その口元とピンクの花がアップになった。
「え?」
詩織は驚いた。しかし驚きを確かめる術は無いように思われた。
画面がまた変わった。
今度は空撮である。岐阜から長良川に沿って、映像は北上する。
郡上八幡を通り過ぎる。荘川桜が花を残している。
さらに北上し、白川郷を通り過ぎ、五箇山まで行って
映像はホワイトアウトした。この空撮の間、画面の下にはずっと
エンドロールが流れていた。最後にNHK−EPと航空会社の
ロゴが流れた。
するとまた、先ほどの桜がディゾルブで現れた。女の子の口が
さっきの言葉を繰り返す。


「おい、佐倉、両替に行くぞ」
先輩社員が詩織を呼んだ。しかし詩織は椅子から立ち上がれなかった。
「ワ ス レ ナ イ デ、サ ク ラ」
女の子の言葉が画面に文字で表示された。
「ワ ス レ ナ イ デ、サ ク ラ」
そうして今度こそブラックアウトして番組は終わった。
「おい、さ・く・ら!行くぞ!」
詩織の頬を涙が伝った。忘れないで、さくら。忘れないで。
詩織は指先で涙をぬぐった。そして元気よく立ち上がった。
「忘れないよ、私も」


(終わり)


この物語はフィクションです。実在の人物・団体・組織とは一切関係ありません