投稿SS6・睡蓮

睡蓮(1) 現在


「あっ、ちわーっス・・・うわッ!!・・・しゅ、主将っ!?・・・そ、その顔はどうしたんスか一体・・・?」
 この週末を経ての男の相好、その豹変ぶりは、部室内に充満する拳士達の闘志を一挙に凍り付かせるに十分であった。
男の発散する弛緩し切った妖気に、誰もが道を空ける。不規則に進むその足取りは、まるで夢遊病者のそれであった。
男はスツールに崩れ落ちる様に腰掛けると、何処へとも無く血走った視線を彷徨わせつつ、つぶやくようにいった。


「ハハッ、ちょっとな。大した事ない・・・いいから続けてくれ。・・・お前らの練習っぷりを見に来てやったんだからな」
 部員思いの男である。懸命に造られた言葉面こそ明るかったが、内容は全てが嘘であった。その証拠に言葉の最中も
未だに痛々しくも絆創膏が無数に貼られている男の両の眼は、ある人物を探して部室内をせわしなく嘗め回していた。
男の試行は徒労に終わった。やがて、眼球を動かす事も億劫になったのか、男はそのままうずくまり、泥の様に眠った。


 週末、総合病院の救急外来に搬送され戻った男を待ち受けていたものは、おぞましくも甘美なる悪夢の連続であった。
――あはは・・・くすくす・・・
 少女の透き通る様な明るい笑い声。侮蔑と優越感に満ち満ちた、脳髄に直接絡み付く様な嘲笑。
――バンッ!!!
 目の前で打ち鳴らされる、10ozのアマチュア競技用ボクシンググローブ。爆裂音。鼻が拉げ軟骨が潰される異音。
――先輩のお鼻の童貞、わたしが奪ってあげますね
 ディフェンスでは誰にも負けない自信があった。鼻血なんか出したことも、なかった。
――ほらほらほら、これが先輩の鼻血ですよ。可愛い後輩のパンチで顔面を犯される気分はどうですか?ふふ・・・
 ナックルの潔白を汚す、無数の血痕。止め処なく零れ落ちる男の涙、鮮血、自尊心、存在意義、自己同一性・・・
――弱いんですね・・・がっかりしました
 弱い・・・弱い。俺は弱い。弱い弱い弱い弱い弱いッ!!!!俺は弱い俺は弱い俺は・・・俺は・・・!!!!



睡蓮(1) 現在


 夢の少女は、昼夜を問わず舞い降りては男の睡眠時間を悉く奪い去り、男の五感をじわじわと犯し尽くしていった。
すべてが、男の狂った妄想であった。男は、自身の破滅的妄想世界の中での藍川ちはるを創造し、自らを壊したのだ。


 もう何回目の入眠になるだろうか。男は跨る少女の柔らかな身体の重み、体温までを幻触として感じるまでになっていた。
少女は男の鼻梁にその拳を躊躇いなく振り下ろした。グチュウ、という嫌な幻聴が男の鼓膜を突き抜け脳を直接犯す。
鼻腔内を瞬時に満たす鉄錆じみた幻嗅。少女はそのまま、振り下ろした拳にじっくりと体重を掛け男を責め苛む。
醜く潰れゆく男の鼻梁。行き場を失った男の鮮血は口腔内に次々と流れ込み屈辱感そのものの幻味が嘔吐感をもたらす。
鼻のみならず脊髄までも貫く激痛に耐えかね、生きたまま串刺しにされた昆虫標本の如く全身でもがき足掻く男。
少女は男の無様な狂乱を拳で、その全身で堪能すると拳を引き抜くのだ。
ニチャァ・・・
 10ozの張り詰めたナックルパートと男の鼻が一瞬だけ粘ついた紅の糸で繋がれ、浮揚していく少女の拳。
少女は拳を止め、男にその惨たらしい破裂模様をまざまざと見せ付ける。たっぷりと男の血を吸った
マチュア用グローブは時と共にその鮮血の模様を変え、グローブを掲げる美少女の顔は残酷な薄ら笑みに歪んでいた。
その幻視は、辛うじて繋ぎ止められていた男の最後の精神の糸をまさに断ち切らんとし――


「うおおあああぁッ!!!!!」
 目が覚める。これが男の週末の全てであった。しかし、男は悪夢から覚めるたび自らのトランクスが汚れている
その原因は無意識にも探ろうとはしなかった。それを探求する事だけは、何としても避けねばならなかったのだ。
男は、悪夢から覚めるたびにいつもそうしている様に、去る金曜のあの大衝撃へと虚ろな思考を彷徨わせていった。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


睡蓮(2) 過去


「おぉ・・・」
 ふたり以外誰も居ない部室に、男の嘆息が響く。拳闘具を身にまとった藍川ちはるは、ひたすらに、美しかった。
少女の持つあどけないボーイッシュな愛らしさをそのままに保ちつつ、ボクサーとしての凛々しい優雅さを
演出している艶のある黒のヘッドギア。剥き出しにされているきめの細かい肌質、しなやかな二の腕がまぶしい
エメラルドグリーンとホワイトのツートンに染められたジャージ。そして、その小さな、花の蕾の如き両の拳を包む
冷たく硬い10oz、アマチュア競技用の赤いボクシンググローブ・・・


「えへへ・・・どうです?似合ってます?先輩」
「えっ?あっ、ああ・・・もう、もう完璧だよ。俺にはもう、ちはるちゃんがボクサーにしか見えないぜ」
 少女の肢体から放たれた瑞々しき健康美は、男の脳裏から「ここは闘いのリングである」という至極当然の前提までも
失わせるに十分すぎた。男も、少女に合わせて慌てて10ozのアマチュア用グローブを装着した。


「あの・・・先輩、ヘッドギアは付けなくていいんですか」
 口にしてから、少女は「あっ」と両のグローブで己の口を塞いだ。可憐な仕草に両の10ozが圧縮され淫靡にも歪んだ。
何気ない一言だった。しかし、この言葉ひとつから、男の精神の平衡感覚は失われていったのかも知れない。
男は、ディフェンスには特段の自信があり、公式戦でダウンはおろか一滴の鼻血も流したことはなかったのである。


「・・・俺はいらない。さあ、やろう。ちはるちゃん」
 厳しい口調だった。無論それは、己の卓越した防御技術を少女に見せ付けてやろうという自己顕示欲もあったのではある。
しかしそれ以上に、眼前の美少女拳闘士・藍川ちはるが、男との正々堂々たる「試合」を望んでいる・・・
ふたりを栄光の勝者と無様な敗者に分かつ事を望んでいる、言い換えれば己をその10ozで完膚なきまでに叩きのめし
リングに這わせる為に目の前に立っている、その乾いた事実をその言葉から、その真摯な眼差しから感じたからであった。



睡蓮(2) 過去


「はい、それじゃ、行きます!」
「よし!どっからでもかかって・・・」
 セカンドロープを掴んで反動を付けてスツールから立ち上がった男。しかし、その男が最初に目にした物は
可愛い後輩のファイティングポーズではなく、既に己の顔面に肉薄していた張り詰めた左の10ozのナックルであった。


「うぉっ!!」
 咄嗟に少女の左ジャブを右手でインサイドにパリーする。左頬に10ozが掠ったのか、灼けるような痛みが脳を焦がす。
左ジャブとはいえ、その一撃のスピード、威力は想像を遥かに超えるものだった。男の体内温度が一気に上がっていく。
男の右拳が自身の眼前を一瞬塞ぎ視界が開けると、硬く握り締められた藍川ちはるの右が男の鼻梁目掛けて迫っていた。
「うわっあっ!?」
 男はわけもわからず、顎に添えていた己の左掌を鼻の前に構えブロックした。パリーにより体勢は崩れていたが
その威力に全身が一瞬浮き、左掌の感覚が一瞬に消え失せ背中が激しくコーナーへと叩きつけられる。むせ返る男。
そして、少女の左ジャブが男の左掌をしたたかに叩き付け10ozの甲を顔面に激突させる。


 男が少女に教えたパンチ、それは顔面への左ジャブと右ストレート、ただそれだけである。
しかし、少女の持つ天性のスピード、スタミナと拳闘への情熱は、そのラッシュを恐るべき凶器へと変えてしまっていた。
 男は右腕を顔面の左に投げ出し、その上に左腕を被せ左手一つで顔面をガードする、無様で異常な姿勢のまま
少女の連打に晒されていた。60兆の細胞が未曾有の恐怖に震え、硬直し、氷の様に冷たい汗が全身の汗腺から迸った。


「えいっ!えいっ!えいっ!!」
「ひっ、あわっ、わひぃっ」
 爆裂音と共に男の鼓膜を震わせる少女の懸命な、しかし甘い声。少女は、物言わぬサンドバッグを殴り潰すかの如く
男の構えた左腕のガードへ、己のボクシング技術の全て――ワンツウをただひたすらに叩き込んでいった。



睡蓮(2) 過去


「うッ、うッ、うううッおおおッ・・・!!」
 男の精神状態はもはや、未経験の域に入っていた。止まらぬ少女の連打に合わせ、背中は激しくコーナーマットを
何度も何度も強打し、グローブ一枚を隔てて顔面に吸収される衝撃は脳を小刻みに震わせ嘔吐感が男を襲った。
――俺は、俺はなにをやっているんだ。なんでちはるちゃんに、殴られてんだ・・・


 男の意識が飛びかけたその瞬間、悲しむべき破綻が始まった。男の取り続けた異様なるガード姿勢と少女のパンチは
男の両下腕を苛み続け、ついには骨と骨、靭帯と靭帯とがヤスリで削られる様に擦れ合い、限界を迎えてしまったのだ。
「ギャッ」
 脊髄反射の防御反応により、男の両腕は無情にも垂れ下がり、ボクサーには到底見えぬ形の良い鼻梁は剥き出しとなった。
しかし、少女の拳は、止まりはしなかった。


「あひっ・・・ブッ!!」
 試合開始から1分50秒、最初のクリーンヒットは藍川ちはるの左ジャブだった。
インパクトの瞬間幅広のナックルは男の鼻梁を完全に包み込み、爽快な破裂音と共にその頭蓋をリング外に弾き飛ばした。
そして、男の頭部が戻ってくるタイミングを見計らったかの如く、少女の張り詰めた右のボクシンググローブが
男の鼻面に激突した。男は、機能を失った両腕の痛みも忘れ、美少女のパンチが己の鼻を叩き潰す激痛と屈辱に喘いだ。
 男は、高校ボクシングの選手生活において、今までこれ程までに綺麗に顔面にクリーンヒットを貰った経験は、無かった。
それも、こんな美少女の後輩に。こんなか細く、やわらかな腕から繰り出されるパンチに。
 本来、守ってあげなくてはならない、か弱い存在に・・・


 異常事態に過剰に分泌された脳内麻薬は、電気のブレーカーを落としたかの如く男の痛覚を一時的にではあるが遮断した。
男は、まっすぐで懸命な表情で己の鼻面をパンチで滅多打ちにする少女の姿を、どこか他人事のように見やりながら
顔面の内部に込み上げてきた生臭いどろりとしたものの正体を、探っていた。



睡蓮(2) 過去


 ふと、少女の連打が止んだ。
ピピピピピピピピ・・・・・・
 ゴング代わりに鳴り響くアラームの音。今まさに、1ラウンドが終了したのだ。


 少女は、脱力し前のめりに崩れ落ちる男を慌てて抱き止めた。
「ハァッハァ・・・あっ・・・!鼻血、出てる・・・!!だっ、大丈夫ですかっ・・・!?」
 少女に膝枕される男、その視界の先には、先程まで己の顔面を陵辱し続けた10ozのアマチュア用グローブがあった。
連打の最中、溢れる鼻血を吸ったのであろう。右のグローブには4箇所、左のグローブには3箇所に
真新しい鮮血の痕が、まるで白いキャンバスに真紅の絵の具をボタボタと垂らしたかの如く炸裂していた。


――お、俺の・・・ち・・・血・・・鼻血・・・!?
「わおおおおおおおおっ!!!うううっ、ぎゃああおおおおおーーーーっ!!!!」
 男の思考と視覚が一つの糸で繋がったその瞬間、脳内麻薬によって辛うじて抑制されていた全ての激痛と激情とが
一気に開放され神経に流れ込み、芋虫の如くのた打ち回り狼の様に咆哮した男はそのままリングの外に転げ落ちた。


「わあああっ!!せ、先輩ッ!!・・・先輩・・・!?」
「うおあああっ・・・!!ゲホッ、ゲホッ・・・ハァ、ハァッ・・・ちはるちゃん、もう一ラウンドだっ・・・!」
 上腕の力だけでリングを這い登ってきた男。鍛えられた上半身には珠の汗が浮かび、両腕は真紫に変色していた。
膝が、両膝が震えている。少女の滅多打ちは、公式戦ならば確実にレフェリーが止めている程の壮絶さであった。
ポタ、ポタと顎から鼻血をキャンバスに垂らしながらの、臓腑を搾り出す様な男の言葉に少女は無言で頷いた。


バシィ!!
 少女はグローブの血痕をジャージで拭き取ると、目の前で高らかに打ち鳴らした。
「わかりました。先輩。・・・お互い、全力を尽くしましょう」
 藍川ちはる、その口許は10ozの肉質に隠され・・・男からはついに見える事は、なかった。



睡蓮(2) 過去


 そこからの有様はボクシングとはとても呼べるものではなく、もはや純然たる暴力の行使に他ならなかった。
自慢のフットワークも、腕裁きによるパリイングも奪われた男には、もはや少女のパンチに対抗する術はなかった。


 ゾンビの如く少女へとにじり寄る男。少女は微塵の躊躇も無く、恐怖に引き攣る男の顔面目掛け右を撃ち抜いた。
「うっ、うあっ・・・うひぃぃぃっぐぶぅぅっ!!!」
 太い血管が千切れたのだろうか。右の10ozが男の鼻柱に着弾した直後、衝撃の爆心地からは無数の鮮血がまさに
爆裂飛散し、降りかかる返り血は少女の端整な顔立ちに血化粧を施した。男は鼻血の帯を空中に残しつつ後頭部から
リングに墜落し、死骸の如くバウンドした後、うつ伏せに沈黙した。ひたすらに重く鋭い、凄絶なる一撃であった。


「ワーン、ツー、スリー・・・」
 カウントが進む。当然、レフェリー不在のため少女が自ら進めるのである。男の脳機能は少女のパンチにより異常を来し
両脚は無慙にも痙攣を起こしていた。しかし、そのカウントを取る少女の右拳に付着した、己のどす黒い血液が眼前に
突きつけられると、男の肉体は自らの意思に反し、敗北を避けるべく少女へと対峙してしまうのであった。
カウントは、5で止まった。試合は、再開されざるを得なかった。


 立ち上がるや否や、少女の速射砲の様な左ジャブが男を襲う。2発、3発、・・・全てがスナッピーに男の鼻梁を撃ち上げ
破裂音と共に鮮血が雨と飛び散り、男はダウンもままならず後退していく。8発の鋭い左ジャブを経て、男の意識レベルは
再び危険域に入り、背中は再び青コーナーに達していた。残酷にも更に5発の左ジャブが男のダウンを阻むべく加えられる。
眩む意識の中、男が最後に見たものは、視界を完全に覆い尽くす、己の血で紅く汚れた右のナックルパートであった。


「・・・先輩、これでKOです・・・!!わたしの全力のパンチ・・・受け取って下さい!!」
 男は、自らの鼻の骨が砕ける響きを聞く事は、ついになかった。迫り来るパンチの恐怖に、繋ぎ止めていた理性の糸が
ついに切れてしまったのだ。リングの上に残されたものは、全身を律動させリング外に向けてスプリンクラーの如き
暴威で鮮血を噴霧し続ける、かつて天才アウトボクサーと称えられた男の残骸、ただそれだけであった。


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睡蓮(3) 再び現在


「よしっ、今日も掃除終わった終わったと・・・おい、主将は・・・」
「全く、いつまで寝てる気だよ・・・。起こしてもマズイだろうしカギは主将が持ってるから、このまま帰ろうぜ」
「そうだな・・・そのうち起きるだろ。あーあ、ホントにどうしたんだろうな主将・・・」


 夜の運動部棟。部室から漏れる明かりも時と共に一つまた一つと消え、ボクシング部ひとつを残すのみとなっていた。
今朝までの甘苦い悪夢の連続が嘘のように、男は深く入眠していた。青春の全てを捧げて来た部室。その独特の匂いや
使い慣れたスツールの感触が、男にかつての栄光ある日々を思い出させていたのだろうか。
 

 しかし、目を覚ました男の眼前に立っていた人物、それは、かつて男の自尊心をその両の拳で完膚なきまでに叩き潰し
男を悪夢と狂気の世界に住まわせしめた少女ボクサー、藍川ちはるその人であった。
 男は、反射的に両腕を上げて顔面を庇おうとした。が、力が入らない。男の両腕の損傷は皮膚、筋肉、靭帯のみならず
骨と神経にまで達しており、後日精密検査を受けねばならぬ程、それは深刻なものだったのだ。男は全てを諦め固く
歯を食い縛り、眼をつむった。ボクサーの命である眼を閉じる事、それは己の敗北を完全に認める事に他ならなかった。


 だが、少女の拳は動かなかった。ふたりの狭間に、水を打ったような静寂、緊張感に満ち満ちた無音の空間が生まれる。
沈黙を破ったのは、少女の悲痛な声だった。その独白は、腸を自ら引きずり出す様な苦悩と悲壮感に満ちていた。


「わたし、わたし・・・!!先輩とあの試合をしてから・・・うぅっ・・・なんだかっ、おかしくなっちゃってっ・・・!」
 少女の煌く浅いブルーの瞳から宝石の粒の如く涙が溢れ、フローリング張りの床に一粒また一粒と、飛沫となって弾けた。


 堰を切った様に溢れ出す熱い涙。男は、泣き崩れる美少女に、その鍛えられた胸を差し出す事で応えた。
少女の柔らかな胸と、男の岩盤の如く堅牢な胸。両者が密着し、お互いの激情が体温と共に狂おしくも優しく交錯した。



睡蓮(3) 再び現在


「わかった・・・ちはるちゃん。・・・やろう。・・・俺達はもう、戻れないんだから」
 男は、少女の苛烈なる独白を全て受け容れた。そして現在、ふたりは再びリングの上で相対していた。


「はい。・・・わたしの全ての気持ちを、先輩に・・・ぶつけます・・・!!」
 男は両腕こそ使えなかったが、そのフットワークと上半身の柔軟さによるディフェンスは全盛期そのものだった。
まるでリングの上を縦横無尽に滑走する様な華麗な動き。無人の運動部棟全体に、二対のリングシューズの擦過音が
響き渡り続けた。少女の華奢な両腕から繰り出されるストレートパンチの重さ、針の孔を通す様な打撃点の正確さは
男も思い知っている。――捕まれば、KOや骨折だけでは、済まない――冷厳たる事実が、男の全身を更に躍動させる。


「シッ!シュッ!」
 鋭く連続する呼気音と共に、美少女の左ジャブのスピードも、男の顔面を捉えるべく異様なまでに亢進していく。
紙一重でかわす男の両頬が拳圧で裂け、血が滲み始めた。恐らく、勝負は一撃でつくだろう。少女に一撃でも許せば
鼻を冷たく硬い10ozが数十発と撃ち上げ叩き潰し、そして――男の脳裏に、おぞましき漢字一文字が浮かんでは消えた。


「ふ・・・ふふ・・・!!」
「あは・・・あははっ・・・!!」
 やがて、その攻防はもはや視認する事さえ難しい程に高速化していた。ふたりの口から同時に、激情に引き攣った
爆笑が漏れ出す。もはや、全ての打撃が、全てのジャブが全てのストレートが、全力、いや少女自身の限界値をも
超えた一撃必殺の威力にまで研ぎ澄まされていた。ふたりの全身から、真っ白な湯気が闘気の如く立ち上ってゆく。


――すごい、ちはるちゃん・・・!!これが当たったら、もしこれが、俺の鼻に決まったら・・・!?
――すごい、わたしのパンチ・・・!!先輩の骨折してる鼻にこれが、これが決まったら・・・!?


 先の試合を経て、二人の内奥に時を同じくして芽生えた破滅的な好奇心。その矛先は、悲しいまでに一致していた。
やがて、フットワークによる擦過音が鳴り止むと、代わりに恐るべき殺人的威力を秘めた狂気の弾丸が風を斬る音が
空間を支配し始め、男の喉から漏れ出す、言葉にならぬ恐怖と絶望の喘ぎと共に地上の地獄を満たしていった。



睡蓮(3) 再び現在


「あふぁっ!おひゅうっ!ひっうぁっ!」
「シッ!!シッ!!シシュッ!!ふっ!!」
 両者の情念の闘いは、ついに最終局面を迎えようとしていた。追う少女と追われる男。当初は拮抗していた両者の
実力だったが、ついにそのバランスが、崩れようとしているのだ。その先には、凄惨なる終末が待つばかりである。
ギ、シ・・・
 男の背中に、氷の様に冷たいロープの感触が伝わる。もはや、退路は断たれたのだ。唸りを上げて迫る死の弾丸。
男の防衛本能は、真後ろに上体を反らしてその直撃を避けようとした。しかし、硬いロープに背骨が深く食い込み
回避の動きが、僅かに、ほんの僅かだけ小さくなった。ついに、男の砕けた鼻を、少女の左の10ozが浅くヒットする。
「ギャあぶぅッ」
 激痛に男の動きが石化したその瞬間、男と少女の脳幹に同ボルテージの電撃が駆け抜ける。既に極限にまで
引き絞られていた少女の右の10ozは、完全に無防備となった男の鼻梁目掛け、哀しいまでに加速していった。


・・・グッシャァッ!!
 脚、膝、腰、肩、肘、手首・・・全ての関節、筋肉、腱の力を100%発揮し、強く、硬く握り締められた
少女の右のボクシンググローブは、インパクトの瞬間、完全にそのナックルを男の顔面組織内に埋め込んだ。
そして、崩壊が始まった。10ozの白いナックル表皮には、恐るべき暴威で男の鼻腔内より噴出する鮮血が叩き付け
臨界点を超えて高められた暴圧は男の口のみならず眼、耳からも鮮血を噴出させ、顔面全体を犯し尽くしせしめた。


 やや斜め下から鼻面を叩き潰された男、その両の踵は宙に浮き、万歳をする形でリング外へ向けて全身が発射される。
ぶぅっしゅぅぅーーーっ・・・しゃぁーーーっ・・・ビチビチビチィッ・・・バヂャッバチャ・・・!!
男の全体重を支え激しくたわむロープ上、鼻腔から垂直に迸った男の鮮血は廃空間の一切を死臭に閉ざし
燃え上がる激痛と屈辱の狂焔は中枢神経の安全装置を焼き切った。白目を剥き股間からは小便を垂れ流す男の狂態。
 しかし、それを目の当たりにしてもなお少女は、未だにおぞましき痺れを残す右拳に付着した男の鮮血を舐め取ると
薄桃色の唇を真一文字に結ぶのだ。小さくか細い喉が、ごくり、と鳴った。



睡蓮(3) 再び現在


 10秒余りに及ぶ鮮血の大噴霧を終え、男の上半身は髪も胸も、ボクサーとは到底思えないほど整っていた顔面も
自ら噴出した鼻血により地獄色に染め上げていた。うつ伏せに倒れんとする男、しかし、破壊はまだ終わらない。


「す、ごい・・・」
 少女は上気した唇でうわ言の様につぶやくと、緩慢に前傾する男の、既に人間としての原型すら留めていない
鼻梁を右ジャブで軽く受け止める様に突き上げた。ビクン、と男の全身が痙攣し、意識が戻ってしまう。
ゴボゴボと血の泡を吹き、陰惨な水音も憚らずグローブと顔面の僅かの隙間の酸素を求めて足掻く男。
しかし、その眼だけは、死んではいなかった。交錯する男と少女の視線と視線。沈黙と沈黙。心と心。そして――


バァンッ!!
 視線を合わせたまま少女は右の拳を静かに離すと、両の拳を叩き合わせた。両拳の狭間で鮮血模様は
ロールシャッハ・テストの如く複雑怪奇に乱舞した。ふたりの口許が、淫らにも歪んだ。笑って、いるのだ。


 少女の、そして男にとっての、最期のラッシュが始まった。
少女は左ジャブにより男を突き放すと、ロープの弾性により勢い良く跳ね返る男の鼻面、既に内部の骨は無残にも
砕けているその鼻を、またも躊躇いなく右ストレートで撃ち上げた。そして、更に勢いを増して再発射される
男の、滅茶苦茶に砕き尽くされた鼻面にその左拳を撃ち込み押し潰すのだ。もう後は、その繰り返しだった。
「「・・・!!・・・!!・・・!!・・・!!・・・!!・・・!!・・・・・・!!!!」」
 ふたりの唯一の接点である冷たく硬い10ozと顔面肉の狭間から漏れ出ずるもの、それは、どす黒い男の血と肉の
混合物だけではなかった。ふたりの声無き声、渦巻く激情そのものが爆裂音と共に廃空間を激震せしめ続ける。


 ダウンも許されず、再び少女拳闘士に蹂躙される男。しかし、間欠泉の如く血を吹き上げながら死のダンスを踊る
男の表情には、もう迷いは無かった。男は、脳を直接焼かれる様な破滅的激痛の中で、真に己が求めていたものの
正体を掴む事が出来たのだ。そして、それはかの少女も同じだった。かつて湧き上がり心の中に封じ込めておいた
どす黒くも純粋な欲求、憧れの人の顔面肉をもってそれを開放した事で、少女は己が本当に必要としていたものと
本当の自分の気持ちを、ついに掴む事が出来たのだ。



睡蓮(3) 再び現在


 吹き上がる鮮血、飛び散る汗、立ち上る死臭・・・少女は、男の全身から一切の反応が消え失せた事を確認すると
血塗られたふたりの邂逅に自ら終止符を打つべく、一陣の風の如くバックステップした。


――おっ、ヒネリが効いてるなあ。素人なのになかなかやるじゃない。こりゃ、二軍じゃ返り討ちに遭うかもな!
――えっ、そ、そんな先輩・・・買いかぶりすぎです・・・でも、ありがとうございます・・・
 最期の一撃は、少女の全ての激情を集約した右のストレートであった。愛する先輩が初めて褒めてくれた己の右。
少女の純粋な想いは強烈な腕、肘、手首の捻りと化して銃弾の如くナックルパートを回転させ、ベキバキという
異音と共に鼻、歯、顎、頬、眼窩底、あらゆる男の顔面骨と筋肉組織を巻き込み臓器もろとも血肉の塊へと化した。
少女の全てを受け容れた男はその場で仁王立ちとなると、全身をビクンビクンと二度律動させた後、顔面から墜落した。


 幾層にも男の鮮血が螺旋状に染み込んだ少女のアマチュア用10oz。そのナックルパートは、もはや完全に真紅に
閉ざされていた。少女は動かなくなった男を抱き起こすと自らの膝にその身を横たえ、自らの恐るべきパンチにより
原型を留めぬまでに叩き潰したその鼻に、ほんのりと返り血に染まったその柔らかな唇を重ね、深い、深いキスをした。
男は、最期の力を振り絞り更にもう一度ビクンと全身を痙攣させ少女の想いに応えると、永久の眠りへと還っていった。


 少女の献身的な看病と祈りも空しく、男が青春を捧げたボクシング部室へ再び戻る事は、叶わぬ夢となった。
だが、男にも少女にも後悔はなかった。拳を通じて求め合ったふたり同士、これからは、ずっと一緒なのだから。


「え〜っ、先輩、もうダウンですかぁ?よっわいなぁ〜。わたしまだジャブしか出してませんよぉ」
「つぅ〜、イテテ・・・いつになったら俺の事名前で呼んでくれるんだよ・・・もう二人きりなんだし、そろそろ、な?」
「うふふ・・・先輩がわたしに勝てたら、考えておきますねっ!ほらほらほら、このままじゃジャブだけでKOですよ?」
「そりゃ無理だっての・・・ぶっ!ぶふっ!・・・てめえ、人が喋ってる時になぐ、うっぷはぁっ!」
「あははは・・・先輩ったらもう、弱すぎ・・・!あ〜あ、また鼻血出してるし・・・あはは・・・」


 そう。これからは、ずっと。