「コミュニケーション写真論」的なもの


ケータイで撮った写真はほとんど見返されない問題

「ケータイで撮った写真は、保存されたままで実はあんまり見返されない」。日常生活の中でしばしば体験されることだ。実際に私も、ケータイで撮った写真のほとんどを(記念写真/メモ写真を問わず)すぐに見返さない、という状況がしばしばあり、随分後になってカメラフォルダをのぞいた時にまとめて出てくる「忘却された写真」の数々にびっくりすることがある。
たとえば、上の写真。これは仕事で香川に出張に行った時に撮影した写真で、ふとマイピクチャを掘り返していて発見したものである。レンタカーで高松市内にある屋島展望台に行った際、『夢虫館』という名前からしてちょっと面白そうな昆虫博物館(らしきもの)を見つけたので入ろうとしたら「3/31で閉館しました」との貼り紙があって残念&憤慨したときに撮った一枚。閉館していて悔しかっただけならわざわざシャッターを切る必要もないものだが、ポイントはこのときその場に居たのが私一人ではなく、複数人であり、その全員によってこの残念&憤慨が「共有」されていたことにある。
「なんだよ!営業してないのかよ!この野郎!……貼り紙でも写真に撮っとくか!」という流れで、一同の笑いを誘う。その瞬間、貼り紙を撮影するという行為にこめられていた期待とは、いつかくる未来にその写真をじっくり見返したいということではなく、カメラを構えたまさにその現在において他人とコミュニケートするというものだった。もちろん、貼り紙を撮るという行為にはいくつかの動機があり、「ずっと後になってその場に居た誰かとこの写真を見返したときにかなり笑えるかもしれない」という期待があった可能性も十分に考えられるが、あくまでそれは二次的な動機だと言っていい。
結局、私はこの写真を撮ったことすら忘れている。しかし、それで特に問題はない。この写真はほとんど撮られたその場で完結してしまっていたからだ。このような撮影行為を通してのコミュニケーションが、「ケータイ」というそれ自体多面的なコミュニケーションアイテムの中の一機能によって実現されているという点もまた非常に興味深い。

写真に対する2つの期待値

便宜的に言うと、写真(を撮ること)には2つのアプローチの仕方があると言える。一つ目は、撮影して出来上がった写真そのものに期待値が置かれるような方法。この場合、「撮ること」は写真を完成させるための手段でしかない。そして二つ目は、撮影行為そのものに期待値が置かれるような方法。この場合、出来上がった写真やそれを「見ること」は、目的としての「撮ること」の派生系でしかない。言うまでもなく、この2つのアプローチは、完全に分離出来るものではない。寧ろ、あらゆる撮影行為にはこの2種類の動機が複雑に絡み合っていて(あるいは並行に存在していて)、どちらか一方の期待値のみによって写真が撮られることはほとんど無いと言っていいかもしれない。ここでは仮に、前者を「アウトプットのための写真」、後者を「コミュニケーションのための写真」と呼ぶことにする。
この2つのアプローチの配分が、「撮ること」のシーンによって大きく異なることに注目したい。たとえば、履歴書に貼る写真や、遺影、航空写真、鉄道写真といったコレクション/アーカイヴ要素の強い写真においては、出来上がった写真それ自体(の出来映え)によって、事後的に撮影の成功が左右される。これらの写真が撮影されるシーンでは、「アウトプット性」が強く「コミュニケーション性」は極めて低い。これに対して、結婚式場で撮影される写真や、旅行写真といったライフログ要素の強い写真においては、撮影されるその場のノリや、カメラを向けてシャッターを切る行為そのものが共有されるということが重要な意味を持っている。これらのシーンでは、逆に「アウトプット性」は低く「コミュニケーション性」が非常に高いことがわかる。
写真における「アウトプット性」と「コミュニケーション性」は、互いに背反することはなく、ときにまったくパラレルな変数として立ち上がってくることもある。それをもっともよく示す事例が、“プリクラ”(プリント倶楽部)の写真である。プリクラでは、「プチ記念」や「プチ友情」の交換・確認行為というコミュニケーションのレイヤーと、出力された写真シールの完成度やおかしみを楽しむ/配信するというアウトプットのレイヤーとが矛盾無くそれぞれ強固に同居している。ここからわかるのは、写真を「撮ること」と「見ること」は、つながっているように見えて(つながっている場合もあれば)それぞれ個別の事象として体験・処理される場合もあるということだ。
また、特にデジカメやケータイ等による撮影では、撮ってすぐに再生して確認して更にまた撮り直して互いに見せ合う、といった具合に、アウトプット層とコミュニケーション層とを短時間にハイペースで行き来することも特徴的である。

コミュニケーション写真論宣言

少し話が脱線したが、「コミュニケーションのための写真」にフォーカスし直すと、極端に言えば、「コミュニケーションのための写真」は、後で見返される必要はまったくない(しかし、見返すことができる、という保証は必要不可欠である)。たとえば学園祭や居酒屋やカラオケボックスで、盛り上がってカメラを構えてフラッシュをたいてシャッターを切るとき、そこでは「ハッピーなこの瞬間を残そうとしている」というある種のメタメッセージが共有されることこそが重要なのである。コミュニケーションとしての撮影は、カメラを持ってシャッターを切るという単純な行為によって「この時間、この場所」をメタ的に捉え直すかたちで他人と共有し、おかしさやうれしさを増幅するという特徴を持っている。*1
ただ、こうした写真の側面が、写真の論壇や写真展の題材として採用されることはほとんどない。社会学的見地からデジカメやケータイでの撮影行為が語られるケースはいくつかあるが、写真家や写真評論家が、こうした「ソーシャルな」写真の性格について言及することはほとんどない。写真論において主流なのは、

  • 写真そのものを、撮られた場所や時代背景という環境も含めて絵画論的に読み解くという表象中心的なもの
  • 写真家の思考・思想に寄り添う作家中心的なもの
  • 「見るもの/見られるもの」という、撮影者と対象との二元的な関係性について掘り下げて行くもの
  • メディアとしての写真について論じたもの

といったようなラインナップである。
凡庸な言い方だが、ケータイやデジカメといったデバイスの登場と普及によって、写真の質が大きく変動したことは事実である。確かに、「デジカメ」や「データとしての写真」に関する写真表現や写真論は多いが、いずれも、その空虚性、消去可能性、反復性、編集性などといった「アウトプット性」重視のキーワードによって探求されていくものがほとんどだ。既に試みとしてはあるのかもしれないが、今後は、ソーシャルな写真のあり方や、撮ることと見ることの圧倒的な乖離というような、より大きな関係の枠組みで写真をとりまく環境の変遷について言及するような表現・批評ががもっと出てきてもいいかもしれない。

*1:デジカメやケータイは、その場で画面で写真を見ることが出来るから、そこでアウトプット性が担保されてしまうことによって、後で見返す必要性がなくなるのではないか?という見方が生まれるかもしれないが、両者は全く別物だと考えた方がいい。撮影時にモニタで確認したからといって後で見返す必要性・必然性がなくなるわけではないし(アウトプット性を高めるためにその場で随時確認しながら撮るというスタイルもある)、更に言うと、コミュニケーションとして撮影行為が機能するために、画面で確認することは必須ではないし、撮影する装置はデジカメやケータイである必要はなく、フィルムカメラでもまったく変わらない。