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車中で読んだ本の中に、北野武「余生 北野武」があった。同書は北野武の薄ら寒い人生観に満ち満ちたロングインタビューで、大昔のロッキングオンで松村雄策が「たけしには死の匂いがする」と漫才ブームの頃にずばりと見通したことを今頃になって裏付ける内容。
気になったのは、北野武が実は「ディスカバリーチャンネル」のような番組が大好きで、科学をギャグにする番組企画を何度も出していながら、TV局関係者にまったく理解されず、「ぼく科学のことよくわかんないから」という口調ですべて没にされたという記述。殊能さんだったか最上さんのどちらかが以前、文系と称する人たち(確か小説家)が科学についてこれっぽっちも理解を示そうとしないことについて心底がっくりしたと書いていたことがあったのを思い出す【理解と言えぬおれカネゴン】。
北野武は本質的にデストラクタであり、コンストラクタではないことを一方的に確信。普通の人が無意識に大事にしていることを大事にしないし、したくてもできない。カネゴンは正直、この人に近寄りたくない。
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オタク・イン・USAのあとがきにあった、町山さんによるパトリックへのしごき:
「ヤバい経済学 ─悪ガキ教授が世の裏側を探検する」を読み始めてみて、カネゴンもまったくこれと同じ感想を持ってしまった【人の意見でおれカネゴン】。
関係ないのだけど、英語圏のこの種の本はやたら分厚く、前書きと後書きの分量を何とかして増やそうとする傾向があるような気がする。本を分厚くさせるインセンティブとやらがあるとしか思えないのだけど、主張をコンパクトにまとめると10ページにしかならないのがバレないようにするためだとしたらどうしよう【どうもせぬとはおれカネゴン】。