小島先生の最新作を読んでいて、限界効用というものについてひとつどうしても気になることがあった【知らぬ身の程おれカネゴン】。

財の追加購入分の効用は逓減するとのことなのだけど、以下のような例はどうなるのだろう。

  • 覚醒剤は、服用すればするほど覚醒剤への欲望は逓減するのだろうか。
  • アルコール中毒の人は、人間関係などあらゆるものを犠牲にしてでも酒を欲しがるのだけど、彼らはあとどのぐらい飲めば効用が逓減してくれるのだろうか。
  • ギャンブルにはまる人は、いくら金をつぎこんでも飽きることを知らないのだけど、彼らの欲望がある日突然逓減することはあるのだろうか。
  • カネゴンが昔仕事上で会ったある人は、「僕は金さえあればいくらでも女を囲えますよ」と豪語していたのだけど、女を囲うことの効用は彼の場合逓減しないのだろうか。
  • ほとんどのギタリストは「ギターを見ると買いたくなる病」に根深く侵されていて、アルフィーの高見沢のごとく、たとえどれほどたくさんギターを持っていようと、見知らぬギターを見るとつい買いたくなってしまう例をカネゴン山ほど見てきた。彼らにとって、あとどのぐらいギターを買ったら効用は逓減するのだろうか。
  • 今日という日を安らかに過ごすことができた、その安らぎという快楽は、味わえば味わうほど逓減してしまうのだろうか。あるいは、学問を身につけて得られた喜びはどうなのだろう。この種の安らぎや喜びは金で買うものではないので、一緒にしたら経済学の人たちに怒られそうではあるのだけど【いつかそのうちおれカネゴン】。

限界効用は既に金融理論などにさんざん組み込まれてしまった後なので、今からこんなことを気にしてしまうのは悪いのだけど【倒壊さすとはおれカネゴン】。

ここでひとつヒントになりうるのは「同一性」ではないだろうか。
(覚醒剤とアルコールとギャンブルの場合は、彼らにとっては「それ」でありさえすれば内容や品質はまったく問われないので除外する方がよさそう)
たとえば、女を千人囲っていても【いつかそのうちおれカネゴン】、それらが皆同一の遺伝子を共有するクローン人間だったら、囲う側にとっては一人の場合と何の違いもなくなってしまう【ご飯も千杯おれカネゴン】。
限界効用でよくたとえに出される「砂漠での一杯の水は、ダイヤモンドにも等しい価値を持つ」も、普段の水と砂漠の水は(たとえ物質的には同じであっても)コンテキストが同じではないと考えれば筋が通る。もっと言えば、あのとき飲んだ水と砂漠で今目の前に出された水は、同じ水分子であるとは限らなかったりしないだろうか。分子や原子には個性がないというのが常識のはずなのでちょっと苦しいのだけど。
ギタリストにとっても、それらのギターがみな違うギターだからこそ欲しくなるのかも知れない。たとえ千本のギターを所有していても、それらがことごとく量産ザクのごとき無個性で同一の品だったら、所有のうれしさは一本の場合とまったく変わりないと断言いたす。つまり、品によっては逓減どころか一本の増加でいきなり効用の増加がゼロになってしまうと考えてしまってよいだろうか。
なお、なぜかピアニストやトランペッターなどの他の楽器では、狂ったように楽器を集めまくる人は少ない。ピアノの場合でかすぎて千台どころか10台集めるのも困難なせいなのかとも思うのだけど、トランペットをコレクションしまくるトランペッターをカネゴン今のところ知らない。
知らない分野のものはすべて同じ物に見えてしまうことから、同一性は人の心の中にしかないとカネゴン考えることにします。

お釈迦様は、人間の欲望自体が問題なのではなく、その欲望に限りがないことが問題なのですと言ったそうで、カネゴンもそこのところに全面賛成いたします。
つまり、人間の欲望は基本的に無限であり、ただし肉体的な制限が加わる場合に限り、その効用は逓減すると考える方が自然ではないだろうか。水を風呂桶いっぱい飲めないのは、単に肉体が一度に受け付ける量を超えているだけで、そうした肉体の制限さえなければ人はいくらでも水を飲んでしまうのではないか。
なので、肉体の制限が課されないようなアイテム、たとえば貨幣やギターの場合には、欲望はいくらでも膨らみ続けて限りがなくなってしまうのではないかと。
覚醒剤やアルコールの場合、肉体のそうした制限に関する部分を破壊してしまうので、心の欲望が膨らみ続けるのを抑制できなくなり、いくらでも摂取しようとしてしまうのではないかと。

効用についてさらに気になることがある。
限界効用の「限界」(marginal)は微分的な考えのはずで、にもかかわらず、効用が時間に沿ってどう変化するかということについて気のせいか何の言及もないように思えるのはカネゴンの調べが足りないのだろうか【他にも足らぬおれカネゴン】。
カネゴンの乏しい経験だけで描写するなら、効用は積分回路にパルスを入力したときの出力結果のような変化を辿るような気がする。つまり徐々に上昇してピークに達したのち減衰し、そのまま元よりさらに低くなってからまたゆっくりと元通りになるような感じで。

カネゴンは、どうやら欲望と効用をどこかでごっちゃにしていたようです【混ぜると危険なおれカネゴン】。小島先生が、冷静に議論するために記号化が有効だという理由がよくわかりました。失礼しました【出直し得意のおれカネゴン】。