読みまくる

今年の電撃新人、沖田雅さんの「先輩とぼく」を読み終わる。
なんかいい。上手くいえないけれども。なんかいい。
なんだか心地よい雰囲気というか、なんか和むというか、テンポが気持ちいいというか、まあそんな所のあるコメディ物です。
今後に結構期待大。

 『ファウスト誌』を思う

さて、今日は「ファウスト誌」の2号発売を記念して、
私がどうにも「ファウスト誌」、というか『ファウスト系』にうまくノリが合わない理由を、「突っ込んで!」「突っ込んで!」「突っ込んで!」「そう、突っ込んで!」「そこをガツンだ!」という勢いで考えてみます。勢いだけなのでいきなりこれです。
さて。
簡単に『ファウスト系』という括りについて自分勝手に定義しますと、『ファウスト誌に掲載される作家群、またはそのファン』という意味になります。ってこれは乱暴に言い過ぎですね。
もうちょっと具体的に定義しますと。
ファウスト誌に切に求められる作家群、またはファウスト誌を切に求めるファン』
となります。80年代生まれ――ファウスト誌曰く『ゼロ波の新人』――周辺の人達によって主に構成されている、らしいです。
うそ臭い定義はこのくらいにして。
今日(2月9日)、正式に2号が発売したわけですが、昨年の第1号発売時の「秋のはてなファウスト祭り(勝手に命名)」や以後の言及を含めての波及効果の大きさ、『ファウスト系』作家*1の本屋での扱いなどを日々見るにつけ、『ファウスト系』が大きな勢いを持ち始めているのがわかります。
え〜では、この「ファウスト誌」の購買層はどこからきたのか、という事になりますがこれは主に「ライトノベル」の読者層、そのなかでも読む事または読んでいた事を恥じる層ではないか、と言われています。
そもそも、「ゼロ波の新人」周辺というのは、富士見ファンタジアの隆盛期*2に当たる人達であり、現在ではすでに20代になります。
既に成人である人が、世の認知としては悪書、または子供の物である「ライトノベル」を読むこと、または読んでいた事を恥じる。
それゆえに、世の中に認められる「良書」、というか「文学」に通じる道として『ファウスト系』を求めるのでは、と。*3
一時期ライトノベルを読むことに迷った私としては、分からない感覚ではありません。
しかし、私はこう思うのですけれど。
そもそも、「良書」である事と認められる必要があるのでしょうか?
小説を読んでいたら「くたばってしまえ!」とか言われた時代ならいざ知らず、現代において小説を読む事はむしろ奨励されている部分すらありますし、「あらすじ本ブーム」を見るにつけ、中高年の人もそれほど「良書」と言われる物を読んでいなかった事がわかるわけで。
そんな中、「ゼロ波世代」*4が世に認められるために、無理に「ライトノベル」と「良書(文学)」との習合を求める必要は無いんではないか、「時代小説」ような「通俗小説」の位置を目指せばいいのではないか*5、そう思うゆえに、「ファウスト誌」に性急さを感じてしまうのです。
う〜ん。やっぱり『ファウスト系』の人とは感覚が違うのかな。
この辺、今度もうちょっと考えてみるかな。
さてさて。
まぁ何のかんの言ってもちゃんと買ってますけどね、「ファウスト誌」。あの得体の知れない雰囲気が好きですし、こういうグワンゴロガキーンとしている所から、分けのわからない力が出てくるものですから。
でもなにか急いているような気がするんですよね。

*1:特に講談社

*2:スレイヤーズからオーフェン初期辺りかな?

*3:具体的なデータは無いのが難ですが

*4:使いやすい補助線だなぁ、これ

*5:そういう意味では、「Missing」の『現代ファンタジー』という括りはいいと思う