うげっ

いかんぞ、またぞろ調子が低迷してきた。 腹が減ってぐーぐーと泣き声をあげているのに食欲の方はまるで無いときた。 それでもムリして食ったが、なんだか罪悪感すら湧き上がってくる。なんというか、生命欲が希薄になっているような。 食べないで餓死しても一向に構わないような、そんな気分。
これはえらい事になったぞ・・・。(島耕作風に)

 記憶力に挑戦シリーズ(備忘録)

なんでダイオキシン? 長期のプランなら安直にヒ素の方が分かりにくいし、短期ならもっといいのがあるんじゃないか? 短期はまずかったのかもしれないけれど、それはダイオキシンでもすぐに効く場合もあるのに、なんで使う?
ただ、単に家の周りにダイオキシンが溜まっているとかじゃないのか? それを狙ってダイオキシン? 無理がありすぎるよなそれは。 じゃあなんでダイオキシン
うーむ。 陰謀論の世界は奥が深いなあ。

 感想 田口仙年堂『吉永さん家のガーゴイル 5』

日向悠二:ファミ通文庫:640円:ISBN:4757720335
今回の「吉永ガー」はお祭りが発端となり、吉永さん家に分裂の危機が訪れます。 そもそも南口商店街が主で行われるはずの桜祭りに北口のデパートも便乗するかのようにセールを企画してきた事により、北対南のお祭り抗争が勃発。 南口ひいきの吉永さん家では当然のように南口商店街に肩入れするのですが、そこにパパさんが突然「北口に頑張って欲しい」と発言したからさあ大変。 この発言にママさんぶち切れ。 それから家族は上手くかみ合わなくなっていく・・・。 というのが粗筋であります。
そこから北対南の激闘をへて一大騒乱になっていきますが、その過程で吉永さん家がきっちり家族として団結しなおし、最後にはラブラブな終わり方をするのを見ているとなんとも良い心地になってきます。 ラストの場面は、他人事ながらこそばゆくなりました。
しかし、一応非現実な者たち大集合な、ある意味怪獣大決戦みたいな話なわりにメインはあくまで御色町に住む人たち+αなあたり、こんな話がかける田口仙年堂はすごいなあと思わざるを得ません。 もうこれは、現在のライトノベルの範疇では「エッジ、または先鋭」と言って良いような気がします。 普通の話が過ぎて逆に先鋭化しているというか、どんなものでも取り過ぎは体に毒だといいましょうか、そんな具合です。 というか今気づきましたが、どうやら私、吉永さん家一帯がまるで実際にあるように感じているようです。 現実と虚構を混同するほどに書き方に説得力があるのでしょう。 やっぱり良い新人さんです。 ってまだ新人だよ?! という驚きを胸にしつつ、次の話を待ちわびようかと思います。

 己の基準

はてさて、ライトノベル作家の値打ち・第二版を読みながら思ったことおば。
読んでいて気が付いたのは、どうにも自分には「読んで損した」という基準値が存在しないような事である。 詰まり何を読んでも最低限「損は無い」のである。
これにはいくつかの要素があるが大きい二つを上げると、まずひとつに、「買った時点で買う価値があったということである」という考え方がある。 ちょっと言い回しが入り組んでいるので分かる人には分かる様に――つまり分からない人には分からない――言うと、「買うと思った時ッ! その行動は既に完了しているッッ!!」となる。 本を買うという行動は、己の中で半ば条件反射の行動になってしまっているのだろう。 これによって買った後の段階では後悔などしないようになっているのである。
それともうひとつの軸として、「最大限楽しみ尽くす」という部分がある。  つまりどういう事なのかというと、「どんな本に当たろうと、その本にあった楽しみ方を見出す」事。 当意即妙、というと少しごへいがあるけれども、当たるを幸いに読みまくっていたら、どんなものにあたってもどうにか出来る様になったらしい。これはひとつ目から派生して出てきている事は否定しないが、いつの間にかこれ単体で大きな理由となっているようである。
どうもこの二つによって、私は「読み損」という感覚とは無縁なようだ。
これは得な所と損な所を併設している。 質が悪いと言われても気にせず読めるけれど、その分良い本を読む時間が少なくなるのだ。 本と時間のトレードオフというやつである。 けれども、「損」を感じないのですから限りなく得な部分を享受できるとも言える。
これが究極的にいいのか悪いのかは、正直言えばどうだっていい。 己が持った性質がそうであるなら、それに付き合っていくまでなのだから。
はてさて、こんな捻じ曲がった思想って他に仲間がいるのかねえ?