フェスタまちだ2005に胡屋青年会のエイサーを見に行く
のんびり家を出て、昼過ぎに町田に着いた。
どこでやってるのやらわからんけども、なんとかなるだろうと思っていたら、案の定向こうのほうから「ヒヤミカチ節」が聞こえてくる。
めったにないような快晴で、空に突き上げる旗頭の姿がかっこいい。
太鼓のエイサーを見慣れてきた。踊りのうまい下手だけじゃなくて、構成の工夫とか、そういうのが見えてくる。
たくさんの団体が出ている。迫力のあるところ、表情のとても素敵なところ、いろいろあった。
そして、胡屋青年会のエイサーは……
とてもシンプルな踊りの連続で、アクロバティックな動きはない。それなのに、いや、それだからか、とにかくアツい。「踊る魂」が降りてきたかのような、彼らはまさにエイサーシンカ――踊りの神の使いだった。最後の唐船どーい、あの動きと切れはナイチャーには決して出せないたぐいのものだ。
「音に鳴響まりる、大村御殿の栴檀木(うとぅにとよまりる うふむらうどぅんのしんだんぎ)」
と歌う、「とよまりる」のあとに一拍おいて手踊りが始まるんだけど、その針の先のような真空の一瞬、手踊りの女の子たちの指先が角度を変え始める臨界点の一瞬、あれが彼らと俺たちの差だと痛烈に思った。それは極端に美しく、切れ味が鋭すぎる。
土に染み込んだリズム、水に溶け込んだ三線の音色。その土と水で沖縄の人が育つ、土台が違うのだと思った。彼らと、沖縄好きの差。それはちょうど、女の子に名前をつけるのに、大地の力と恵み、偉大なるものの霊力にあやかって「カマド」「ウシ」とつける感性と、「まい」「ほのか」なんてつける俺たちの感性の差のようなものだろうと思う。
それでも俺なんかが踊るのは、どこかで絶えず沖縄とつながっていたいからだし、ひょっとしたらその感性になにか感じるところがあるからなのかもしれない。
なんて、ぼんやりと思った。