逆鏡の法則
息子が虐められているようだと最近気づいた。友人に相談した。そしたらあなたのせいかもしれないと言われた。あなたは怒りを我慢していないかと言う。あなたは誰にも怒らない優しい人だが息子にも誰にも優しく接するように押し付けていないか。怒りを我慢するように教えていないかと言うのである。確かにそういう部分が無かったと言えない。しかしそれは日本人なら誰でも当てはまるような標準的なレベルではなかったかしら。あなたの抑えられた怒りが息子に当たったりそれを息子が我慢したりしているという。あなたの怒りを解放しなくてはいけないという。友人と別れ家でゆっくり考えていくとその原因がむくむくと沸き上がって来たのである。私は2〜3日決意も新たに厳しい顔つきで息子にも接し、ついに実家に帰って父親と大げんかを始めたのである。それは私が生まれては初めて体験するようなアパッチ砦の皆殺しのような怒りだ。狂ったようにわめき散らし近所でも大評判になるような大げんかを父親に向かってしたのだった。そして父親に俺が悪かったと言わしめたのでした。
私は勝利の雄叫びを上げ口笛を吹きながら自宅へ凱旋したのだった。そしたら息子が明るい笑顔で迎えてくれたのです。お母さん僕もはっきり言ってやったよ、もう止めてくれって。そしたらみんなも応援してくれて相手も謝ってくれたんだ。成る程、友人の指摘は間違っていなかったようだ。息子はここ2〜3日の尋常ならない私の態度から何かを悟ったようなのである。そしてそう私に助言してくれた友人に感謝したのである。
みんな日本を破滅させたがってる
それしか日本の再生の道はないから。そう考えると全てがうまく説明できる。
永遠はそんなに永くない
あなたが瞬きした瞬間に一億年が過ぎたという事を否定する証明はできない。意識がなければ何億年経ったってそれは一瞬の事である。だから永年という感覚は意識の継続期間の事だろう。人間はどの位長く意識を継続できるものなのか。大抵はもういいかと意識の継続の意欲が落ちて来るものではないのか。そうともいえないか。千年くらい継続したいと思うだろうか。そういう人がいないとも限らない。切れない電球のようにそおっと人間の中に紛れているかもしれない。
人はなぜ会話などという無駄な行為をするのだろうと
これは考えた事があるな。人は何か結論を導くためというより戯れの為に会話をする。こうして空いた時間を埋めていく。
英語ってやっぱり才能じゃない
それを言っちゃあおしめいだよ。でもつくづく思うのであった。もちろん効率がいい教育というのが存在するのだろうけど嫌々覚えても仕方が無いもの。昔の英語教育だって英語が得意な人はしゃべれなくてもすらすら読める人は多くいるわけでインターネット時代にとってもマッチしていると思う。実際話す機会より読む機会の方が圧倒的に多いだろう。今の時代状況を考えたら英語文法教育の見直しがされてもいいかも。
本も同じ厚さでも半日で読めるのもあるし一週間かかるものもある
とにかく考えるというのを要求されると立ち止まってこれってどういう意味となり何回も同じ所を読み返す事になる。そうなるとさっぱり進まなくて前のページをひっくり返したり。こういう時本って便利だと思うモニターのスクロールだと中々こうは行かない。でもキーワードを探すとなると本は不便だけど。普通の小説はまぁすらすらと読める。インタビュー形式だと表現に凝ったりしないのでもっとすらすら読めたりする。春樹のアンダーグラウンドの厚さにちょっとビビったけど意外と早く読めたりした。二日位だったか。
理解できる事は初めから分っていた事というと
なーんにも新しい事なんて知り得ないわけですが、それが人間の限界というやつですか。人間が知る事ができる事は予め定められている。理解するという事は体が分っている事を単に言葉にできる事だったり感覚で分っていた事を言葉にしただけだったりする。ナーンだとがっかりすべきか安心すべきか。
人間は初めて見る景色を理解できないといわれる。景色を理解するのは今までの景色との共通点から認識を構築していくから。ここに見えているのは何々かもしれない。何々ににているな。初めて見る火星や金星の地表の写真も砂漠や月の表面からの類推でしかない。常に似ているものを探している。つまりある程度のデジャブ(既知感)がなければ映像というのは理解不可能なのだろう。だから赤ん坊が初めて見る景色は理解不可能でそこには意味不明な色や形が浮かんでいるだけのはずである。しかしそこからどう理解が深まっていくのか。それには原初のデジャブが必要ではないのか。全くの白紙だったら何も新しい事を知り得ないという事と矛盾するから。それが生前の記憶。本能。
フェルマーの最終定理という本がある
その時はそれなりに面白く読めたような気もする。しかし今何か残っているかと言われれば何も残っていないような気がする。殆ど何も覚えていないのではないか。何か苦労して数学界の永年の解けない問題を解いたという話。そこには数学界の歴史やこぼれ話があって問題の歴史が有って概略が分るような進め方であったようだがそれが何なのだろう。これは道徳の話なのか。そういう見方をしなくてももちろんいい。数学の専門的な課題は何も分らずその周辺を眺めるしかない。良かった良かったという感想。それ以外にどういう意味があったのかさっぱり分らない。
やって来ない未来過ぎ去った過去
宿題を明日明日と言っていた少年は母親に明日は永遠にやって来ないと嗜められる。明日は日付でなくてその行為で持ってやって来る。少年が次の日に宿題をしたならば確かにその明日はやって来たのである。やらなければいつまでもやって来ない明日。しかし宿題をやったならばそれは固定化され今日になり昨日になり印を付けられカレンダー上に固定化され歴史の一日となる。
ガウディのサグラダ・ファミリアは未だに未完成で建設中である。という意味で建立何年という言い方は不可能である。しかしやがて完成すればその時から過去に置き去りにされてしまう事になる。つまり着手して継続中ならば未来はやってきながらも過去に過ぎ去る事も無いというわけだ。現在に固着して手から離れる事が無い。決して完成しない作業に着手すること。それが現在を生きている。