分かる事は良いことではない

クイズの答えが分かる。試験の問題が分かる。人の話が分かる。分かる事や理解できた事は何か良い事のような気がします。それはそうでしょう、親も学校もテレビも分かる事を求めて正解者にはご褒美や賞金が出る。人々は絶えず理解する事を求められ、理解できない奴は蔑まれ冷遇されたりする。何でも分かれば良いってもんじゃない、そんな事はよく言われた時代もあったが昨今ではまるで忘れ去られてしまったようだ。こういう現象はよくある事で社会は直ぐに劣化する。絶えず誰かが引き上げないと重力の重みで荒廃や磨耗でエントロピーが増大するのだ。
 分かるとは神経細胞の一つが接続し一本の回路が開く事かもしれないけど、それによって他の接続の可能性が往々にして閉じられてしまう事になる。クイズや試験の問題でも答えが出てしまえばもうその問題を考えなくなってしまう。過ぎ去ってしまったものは省みない。本当は別な答えもあるかもしれないのに正解という決められた解答の前にその処理は終了する。つまり分かったとはもうその問題にタッチしないという宣言でもある。さようならである。お前の事は完全に理解した、お前はそれだけのつまらない奴だバイバイと。しかし本当はそれだけではない。普段は見せない隠れた性質だって持っている。
 本当はもう解決済みの事だって別な解釈が可能かもしれない。しかしそこまで社会はリソースをさけないから合理的判断で妥当と思われる線で物事を進める。それが一般の自分と余り関係のない事なら構わない。だが自分に関係するならそれだけでは済まないだろう。個人のこだわり。分かるという事は無限の可能性の接続の可能性から一本に絞ってしまう事なのだ。それが一番妥当に見えるという事で。で一本が選択されてしまうともうそれについては考える事を止めてしまう。人生は短い。社会は忙しい。誰も一つの事に悠長に時間を掛けていられない。模範解答を用意してもらって効率的に社会を回す。それが人間社会の限界って所でしょうか。
 ここで分かる事は良い事ではないと言ったのは注意も向けたいという事もあっての極端な言い方だが、つまり分かるということが無限の可能性の一つを開いただけでそれで済ませるだけでなく常に保留にしておく態度のようなものである。答えはあくまでそういう可能性があるという程度の事で常に別の可能性を受け入れられる状態にあること。もうその問題は済んでしまったと言ってあなたは何処へ行く処があるんですか。実はしなければならない事なんて何にもないんですよ、本当は。