3月29日
朝9時にケータイが鳴った。そんな時間にかかってくる電話といえば、滞納しているお金を払うようにであるとか、延滞しているDVDを返却するようにとった電話ばかりなのだけれども、この日は少し違っていた。
電話の相手は、制作のはやしさんである。
今日はマームと誰かさん・ごにんめ「名久井直子さん(ブックデザイナー)とジプシー」の初日で、はやしさんからは写真撮影をお願いされていた。
「橋本さん、朝早くにすみません。今回は撮影自由にしようかって話になってるんですよ。公演も、お客さんにじっと座って観てもらうんじゃなくて、展示を観てもらっているところに青柳のパフォーマンスが入るって感じになると思うので、本番中に撮ってもらいたくて。それで、藤田君と青柳は、できれば昼も夜も撮ってもらいたいと言ってるんですけど……。でも、橋本さんにもご予定があると思うので、もちろんそちらを優先してもらって全然構わないんですけど、もし可能であれば……」
はやしさんは、電話の向こうでとても申し訳なさそうにしている。何と返事をしようかと考えていると、電話の相手が替わった。
「もしもし、青柳です。今日の公演、正直まだどうなるかわからないんですけど、それも含めて、橋本さんには昼も夜も観てもらいたいんです」
青柳さんがそんなふうに言うのは珍しいなと思った。青柳さんがこんなに余裕のない声をしているのも珍しいなとも思った。
電話の声は再びはやしさんに替わった。
「青柳はこう言ってますけど橋本さんの予定を優先していただいていいんですけど――」
「大丈夫ですよ。今日は野球を観るくらいしか予定はないですから」
「え、それは大事な予定じゃないですか!」
「野球を観るといっても、テレビでなんですけど」
「ああ、じゃあお願いします」
13時、会場であるVACANTに入ってみると、そこにはずらりと本が展示されていた。藤田さんが展示したのだという。少し眺めていて気づいたのだが、そこに並んでいるのはすべて名久井さんが装丁を担当した本だ。こんなにもたくさんの本が、一人の人間を通じて生み出されたなんて、気が遠くなりそうだ。装丁を担当するからには、当然ながら、一冊一冊と向き合わなければならない。名久井さんはこれだけの数のゲラを熟読し、この本にふさわしい装丁はどんなものかと考えて、それをこうして形にしてきたのか――。
ここに写っているのはごく一部で、もっとたくさん展示されている。
14時。公演が始まると、青柳さんと名久井さんが登場した。名久井さんは会場の隅に置かれたテーブルにつき、パソコンを広げて仕事を始める。名久井さんは最後までそこにいて、口を開いたり移動したりすることはなく、ひたすら仕事をしている。一方の青柳さんは、客席に囲まれたタイルの上に立ち、一冊の本を手に取ると、それを読み上げ始める。読まれているのは、名久井さんの夢日記をまとめたリトルプレス『夢袋』だ。
いくつか『夢袋』を読んだところで、青柳さんが説明を加える。
「……みたいな感じで、この『夢袋』を読んだり、デザインした本を紹介したり、そんな感じで進めてまいります。ごゆるりとお過ごしください。ドリンクのお代わりはご自由に、有料ですけど。あの、あれです、ここでデザインした本を紹介したり、そんな感じで進めてまいります。ごゆるりとお過ごしください。ドリンクのお代わりはご自由に、有料ですけど。あの、ここで私がしゃべっている最中も、展示されている本を、本たちを、お手に取ってご覧になっていただいて結構です。どうぞよろしくお願いします」
説明の通り、名久井さんがデザインした本の紹介が続いていく。穂村弘さんの文庫『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』。穂村弘さんの『ラインマーカーズ』と『にょっ記』、『にょにょっ記』。雪舟えまさんの『たんぽるぽる』と『タラチネ・ドリーム・マイン』。長嶋有さんの『パラレル』と『佐渡の三人』。そして、川上未映子さんの『すべて真夜中の恋人たち』と『愛の夢とか』。それぞれの本がどんな経緯でデザインされたか、どんな苦労があったのかなどが語られていく。青柳さんは、台詞を自分の中に入れて語っているというよりも、名久井直子さん自身を自分の中に入れて語っているように見える。
昼公演を観ているときは、少し厳しい気持ちになった。ブックデザインにまつわる話を、教養番組で観るのならともかく、演劇作品として上演する必要はどこにあるのだろうという気がしたのだ。それともう一つ、まだ台詞が入りきっていないのか、ときどき手元にある紙を確認して作品は進んでいった。それは少し意外だった。台詞をあっという間に覚えてしまうという青柳さんが、紙を確認しながら舞台に立つというのは、異常なことであるように思えた。
昼公演が終わって夜公演が始まるまで、4時間近くあいだがあった。そのあいだ、会場では稽古が続いていた。会場の隅でその様子を眺めていると、細やかに調整が加えられていく。
「未映子さんとか穂村さんの名前を言うときの感じと、たとえば大竹伸朗さんの名前を言うときの感じが違っちゃってるんだよね。でも、名久井さんは当然会ったことがあるから、その人たちの名前を言うときのニュアンスが同じなんだよ。だから、ヤギも同じトーンで言ってほしいんだけど」
あるいは、長嶋有さんの『パラレル』についてのシーンを稽古していたときのこと。
「この『パラレル』っていうのは、人間関係がいろんなふうに続いてたのが、交差したり離れて行ったりみたいな話なんだけど、じゃあそれをセロハンテープで作ろうかなと思って」
青柳さんがそう台詞を言った瞬間、藤田さんが鋭く訂正を加える。
「セロテープ!」
「名久井さんはセロハンテープって言ってる」
青柳さんもひるまずに言い返す。その場の緊張感に堪えきれなくなって、僕は原宿を散歩しながら夜公演が始まるのを待った。
夜公演には、雰囲気がずいぶん変わっていた。まず、編集が加えられて上演時間が短くなっていたし、使用される音楽もところどころ変わった。あとで話をしていると、「あれ? 橋本さん、今日撮ってくれてました?」なんて青柳さんは言っていた。そんなに切羽詰まっていたのかと、少し驚いたのをおぼえている。
終演後には、急遽アフタートークが行われることになった。しばらく藤田さんと名久井さんが話していたけれど、ふと名久井さんが「青柳さんの話も聞きたいな」と言った。
「青柳さん、どうでしたか」と藤田さんも話を振る。青柳さんはこの1ヵ月で、穂村さんとジプシーがあり、「まえのひ」ツアーで早稲田といわきのステージに立ち、「先端で、さすわ さされるわ そらええわ」「まえのひ」「戦争花嫁」の3篇を上演し、そして今、名久井さんとジプシーをやっている。しかも、そのどれもが一人芝居だ。
「今月はすごいペースで作品を作り続けて――今日の朝、『今日という日が青柳さんの死ぬ日かもしれない』と思ったんですけど、そこらへんについてはどう思いましたか?」
藤田さんの質問に、ようやく青柳さんも口を開く。
「ええ、一番追いつめられて。だって、台本もここに置いてありますから」
台本に書かれている言葉は――つまり青柳さんが語っている言葉は、名久井さんへのインタビューによって引き出された言葉だ。そのインタビューが行われたのは3、4日前だったという。最初はテープを聞いて耳でおぼえようとしていたようだが、そうやって覚えるには時間が足りず、文字に起こして覚えることにしたらしい。
ここ2作の誰かさんシリーズは、最初の3作とはずいぶん印象が違ってみえる。最初の3作ーー大谷さん、飴屋さん、今日さんとの作品は、共同制作の可能性を探るという意味合いが強かったように思う。マームと、誰かさんとが、一緒に何かを作るとき、どんな回路がありうるのかーーその共同制作には、今日マチ子さんという原作者のいる「cocoon」を舞台化するための試行錯誤という側面も多分にあったのではないかと思う。
「cocoon」は昨年の夏に上演された。そのあとに再開された誰かさんシリーズの色合いが変わったのは、必然とも言える。
穂村さんとジプシーと名久井さんとジプシーに共通するのは、インタビューを元にして作品が制作されているということだ。インタビュアーにもよるけれど、インタビューにおいて重要なのは聞き手の言葉よりも語り手の言葉だ。前回はインタビュアーの質問も掲載されるQ&A形式の編集になっていたのに対し、今回はインタビュアーの質問は省かれ、独り語りであるように編集されている。
「この誰かさんシリーズでも、こんなに誰かの言葉に頼ったことはない気がする。ほぼ全篇が名久井さんのテキストになってるけど、何でそうなっているのか、自分でもわかってないんですよね」
「段々、わからなくなってきちゃったんじゃないですか。いろんなことがね」。藤田さんの言葉に、名久井さんはそう答えていた。
マームとジプシーの作品で上演されるテキストは、すべて藤田さんが書いた言葉を使っていた。そのマームとジプシーが、藤田貴大以外の書いたテキストを舞台にのせたのは、川上未映子さんとの作品でのことだった。その経験は、藤田貴大という演劇作家にとっても大きな揺らぎだったはずだ。そのことが、今回の舞台をすべて名久井さんの言葉で構成するという形で影響を及ぼしているのかもしれない。
お客さんのいなくなった会場で談笑していると、青柳さんがケーキを運んできた。プレートには「名久井さん10周年とちょっとおめでとう」と書かれている。名久井さんが最初に装丁を手がけたのは2003年で、去年が10周年だったのである。ただ、バタバタしていてそのお祝いができなかったので、この場でお祝いすることになった。この時点ではまだ公表されていなかったけれど、今日の舞台で最後に紹介された『愛の夢とか』などで講談社出版文化賞ブックデザイン賞を受賞することも内定していた。
展示された本と一緒に、記念写真を撮影する。名久井さんと青柳さんは一緒に買い物に出かけたらしく、お揃いの服を着ていた。二人が並んだ姿を眺めていると、なんだか姉妹のようにも見えてくる。