ハテヘイ6の日記

ハテヘイは日常の出来事を聖書と関連付けて、それを伝えたいと願っています。

善を行う者はいない。ひとりもいない

 「神は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。彼らはみな、そむき去り、だれもかれも腐り果てている。善を行う者はいない。ひとりもいない」(詩53:2−3)。

 昨今の政治社会情勢を考えると、上記聖書のみことばがますます真実である事を覚えます。
 セクハラ問題を取り上げてみても、政治家、官僚、記者等々、自分を正義として、互いに相手の事をあげつらっています。
 しかし聖書は「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです」(ローマ2:1)とはっきり言っています。私は全くその通りだと考えます。
 では私自身はどうか?同じです。確かに男として実際「胸触っていい?」なんて、低次元の行動に出るような事はしていません。しかし聖書の神の正義のレベルは全く比べようもなく高いのです。
 「『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」(マタイ5:28)。
 こういう男が世の中に例外なくと言ってよいほど存在しているのです。自分は絶対そんな事をした覚えがないと言われるかもしれません。
 ではモーセ十戒はどうでしょうか?その後半の一部にこうあります。「姦淫してはならない。盗んではならない。あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない」(出エジプト20:15−17)。小さい時からこんな事した覚えはない、なんて言える人は誰もいません。ゆえに「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです」(ヤコブ2:10)。
 だから「善を行う者はいない。ひとりもいない」のです。それならどうするか?「偽善者よ。まず自分の目からを取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます」(マタイ7:5)。聖書でなくても「自ら襟を正す」とよく言うではありませんか?
 その上で「他人のちり」を取り除く行動が出来ます。そうは言ってもこれが難しいです。特に政治家・官僚といった人々は、すこぶる隠蔽体質だからです。よほど多くの証言が一致しない限り、さばきは神に委ね、神が正しく裁かれるよう祈ったほうが良いと考えます。
 この日本という国には絶対的な規範がありません。だから人間に過ぎない者が同じ罪を犯しているのに、「道徳」などといったものを考え出しています。
 いわゆる先進国において例外的に低いクリスチャン人口、権力者が何をやっても容認、黙認、忍従ばかり、モラルの面では、世界でも最低だと思っています。近頃民意に近い人が長となるように、祈りに力を入れています。