音楽の「本当の良さ」はライブ?:レコ―デッドミュージックは砕けない

音楽の本質はライブだ、を言う人をたまに見かけるのだけれど、個人的には全く賛同しかねる。すばらしい「風景写真/風景画」が撮られた/描かれた「場所」に行き同じ構図で見たからといって、必ずしもそれ以上の感動を覚えるわけではない。美しい「場所」を撮った/描いた「風景写真/風景画」が必ずしも、その場所の持つ本来の美しさを表現しきっているわけでもない。

もちろん、ライブの良さを否定するわけではない。ライブそのもののダイナミズムはものすごく魅力的で、ライブだからこそのエクスペリエンスは存在している。たとえば、Eric ClaptonのいたCreamや、Jimi Hendrixのライブ音源を聞いていると、そのインプロビゼーションに鳥肌が立つくらいに痺れるし、それをひき出しているその「場」を作り出すこともまたライブの魅力だとも思う。実際、ライブに行ったときもそれを感じる。

では、レコ―デッドミュージック(録音された音楽)はそういったライブの代わりかというとそんなことはない。今、レコード(CD、ビニール、音楽配信など媒体を問わず)を購入/レンタルしている人でも、「できればライブに行きたいけど、行けないから代わりにレコードを…」などという人はほとんどいないだろう。今、レコ―デッドミュージックをCD購入、レンタル、ダウンロードしているほとんどの人は、レコ―デッドミュージックをそれとして楽しんでいる。

いっせーのーせっ

たとえば、The Beatlesが「いっせーのーせっ」で演奏を開始したものが録音されたとして、それが今に残る価値を持ちえたかというとそんなことはなくて。4人の才能を作品として昇華させるためにはGeorge Martinというもう1人の天才がいて、膨大なテイクの中から「ある」1つの解釈へと紡いでいく編集作業があったからこそ、The Beatlesのアルバムは未だにその輝きを失わないのだと思っている。

また、コンサートをドロップアウトした二十世紀最高のピアニスト*1Glenn Gouldは録音、編集が芸術作品を創りあげるための優れたメディアであることを見いだしている。

[グールドによれば、]新しいメディアたる録音は、聴衆を音楽に関与させる力を持ち、両者の平等な関係を回復させるという。録音には、自身の満足できる芸術を創ることができるという長所も見出したグールドは、自身が気に入るテイクを得られるまで何度でも録音をし直し、気に入ったテイク同士を自身で接続したこともあったと語っている。グールドは、録音を映画に喩え、テイクを切り貼りするのは、より良い作品を創るための正当な行為と捉えていた。

グレン・グールド - Wikipedia

ここで面白いのは、Gouldは録音にこそ「聴衆を音楽に関与させる力」があるとしていること。ライブこそ音楽の本質、という人の多くはライブにこそ「聴衆を音楽に関与させる力」がある、と主張しているように思えるのも興味深い対比だと思う。もちろん、Gouldがコンサートをドロップアウトした時代の状況と、今の状況とは異なっているので簡単に比較しうるものではないのだけれど*2、ここで私が思うのは、録音にもライブにも「聴衆を音楽に関与させる力」があるのだということ。ライブには行かずともレコ―デッドミュージックを楽しむ人がいる。レコ―デッドミュージックを購入するよりもライブに行くことを好む人がいる。ライブにも行くし、レコ―デッドミュージックを楽しむ人もいる。どちらの選択肢も私たちにはオープンなものであったのだから。

レコ―デッドミュージックはライブのショーケースじゃない

TechCrunchがしばしば、今後も音楽を売り続けようなんてのは馬鹿げてる、いずれ無料化される、と主張している*3のは、レコ―デッドミュージックに価値がないといっているのではなくて、デジタルコピーがあまりに容易にできる時代にあっては

限界製造原価がゼロ、プラス、完全な競争(みんな消費者であると同時に全員どんな曲のプロデューサーにもなれるという状況)、イコール、やっぱり価格ゼロになってしまう

楽曲無料化行進曲は鳴り止まない

という主張なのである。少なくともMichael Arringtonは、レコ―デッドミュージックは、「経済的な価値」が失われると考えている。だから、レコ―デッドミュージックを収入源と考えるのではなく、無料で流通させ、ライブチケット、グッズ、限定エディションなど「リアルの製品をマーケティングする手段」と考えるべきだ(というより他に選択の余地はない)、と彼は主張する。

これが正しいかどうかは別にして、あくまでもビジネスとして見たときの考え方だろう。だから「価値ゼロ」ではなく、「価格ゼロ」なのだ*4。では、リスナーとしてレコ―デッドミュージックを聴いたとき、「価格ゼロ」であることはその価値に影響を及ぼすだろうか。答えはNOだろう。経済的な価値の有無に関わらず、良い音楽は良いと感じる。その表現は私たちの心を動かし、そして、また聴きたいと思わせる。ライブに行くための試聴であれば、行く行かないを判断した後に再び聴く動機づけなどは湧いてこないだろう。

「何だかよくわからないけど好き」

もちろん理由をつけようとすればいくらでも理由をつけられるけれど、ただ単純に音楽を聞くだけでも「好き」とか「そうじゃない」と感じてしまう。その「好き」という感情こそ、私は「音楽の持つ魔力*5」だと思う。その音楽を取り巻く文脈、明示的/非明示的なコミュニケーションツールという側面もあるのだろうが、しかし音楽を聞いて/聴いて私たちが感じる感情は、文脈、ツールとしての機能とはまた別のところにあるのではないだろうか。

1つの理想の形を求めて丹念に創りあげられた作品、それは何かの代わりではない。絵画を見て心を動かされるように、録音された音楽もまた、私たちの心を動かす。あまりに身近すぎて、もしくは商業的すぎて*6、芸術という権威が与えられなければ、そうであると考えにくくなっているのかもしれないが、どんな音楽であれそうした部分を有していると思っている。

芸術という言葉は何やら権威めいたもののようにも思えるのだが、芸術性の評価だってあんなものは「誰か」がある種の「文脈」を加味した上で「どう感じられるか」を「表現したもの」ものに過ぎないと思っている。それはそれで面白いし、奥深いものではあるのだが、私個人の感じ方まで、そうした権威や評価に曲げられるのはごめんだ。たとえ全世界が酷評しようとも、私にとって最高の音楽は最高なのだ。そして、私にとってイマイチな曲は誰がなんと言おうとイマイチなのだ*7

ある意味では、かたっ苦しい芸術概念なんてものを越えて音楽が広まっていることは、それはそれで良いことのように思える。ただ、考えて欲しいのは、「あなた」があなたの「文脈」を加味した上で「どう感じた」と「思う」かが、あなたの音楽への評価だということ。決して「どう感じたか」だけがそれを決めているわけではない。

音楽に限らず、いろんな芸術に言えることだけれど、全ての作品は半分はその作り手が、残りの半分はその受け手が創りあげるものだと思っている。ある曲を聴き、ある人は絶望に涙し、ある人は希望に奮い立ち、ある人は平凡さに安らぎを覚えた。しかし、その曲の作り手は日常の空虚さを表現しようとしていた。この曲の解釈としてどれが正しいのだろう?私は誰も「間違っていない」と思う。

音楽は変わらない、変わるのは…

音楽の持つ価値、音楽が生み出す価値は多種多様で、これが音楽本来の…というものではないと思う*8。たとえ、あなたにとって「音楽本来の価値」というものがあったとしても、それは「あなた」が音楽に見いだした価値に過ぎない。ただ、その価値は「あなた」にとって何物にも代え難い、という点で素晴らしいもの。

もし、あなたがレコ―デッドミュージックに感じていた価値が、ますます容易になっていくデジタルコピーによって失われるのだとすれば、その価値を失わせたのは音楽そのものが変化したためではなく、あなた自身が変わったからなのだろう。

余談

私はMartha and the Vandellasという60年代に活躍したのモータウンのガールグループが好きで*9、私のハンドルもその代表曲『(Love Is Like a) Heat Wave』からとっているくらいなのだが、その曲と同じくらい『Dancing in the Street』という曲に魅せられ続けてきた。

この曲はたくさんのアーティストにカバーされているし、彼女たちのバージョンもすごく有名なので*10、知っている人も多いかもしれない。熱気あふれるパワフルなビート、アップテンポでダンサブル、そしてMarthaのソウルフルでワイルドなボーカル、十数年聞き続けてきて未だに色あせないどころか、ますます好きになる曲なのだけれども、その中でも特にその歌詞が大好きで。

All we need is music, sweet music
There'll be music everywhere
There'll be swinging, swaying, records playing
Dancing in the street

Oh it doesn't matter what you wear
Just as long as you are there

"(Love Is Like a) Heat Wave"
written by William "Mickey" Stevenson, Marvin Gaye, and Ivy Jo Hunter

これが私にとって一番しっくり来る音楽の在り方かな。私たちはみんな音楽を必要としていて、そこかしこに音楽があふれていれば、そしたらもうみんなご機嫌だよね!って。

*1:の一人

*2:Gouldがコンサートをドロップアウトした理由と、まさに今レコ―デッドミュージックが硬直していることに対する批判とは、根を同じくしているような部分もありそうだが。

*3:これについては賛否両論あるのだが

*4:価値ゼロならば、無料で配る意味すら持たないだろう

*5:または個々人の感じる芸術性

*6:または消費財として扱われすぎて

*7:もちろん、私が変わることでそのイマイチな音楽が最高の音楽に変わることもあるけれど。

*8:もちろん、「ある側面に限定すれば」音楽の価値を語ることはできるとは思っている。

*9:The SupremesやThe Marvelettesに比べるとR&B、Soul、Rock寄り。

*10:当時は公民権法制定後も続く反人種差別運動の真っ直中にあり、この曲が政治的なものとされたこともあった。その点でも有名な曲かもしれない。