4年前の記憶

雑誌の山を整理していたら、写真のデイリーサッカーダイジェストが出てきました。4年前の2002年6月、通常はウィークリーのサッカーダイジェストが毎日出ていた異常なあの6月の記憶。4冊の日付は6月5日号、10日号、15日号、19日号。そう、日本代表の試合があった次の日ですね。たった、4年前の記憶なのに懐かしかった。


記事の内容については、あえて読んでいません。悲しくなっちゃうかもしれませんから。
今年の6月も、熱く燃えられるのか。もうすぐですね。ヒデの視線の先には、新たな目標は見えたのでしょうか。

WC入場券とか

4年前も問題になりましたが、今回も入場券の問題が少しだけ出ているようですね。
対立深めるFIFAと地元組織委員会 ワールドカップはだいじょうぶか 大住良之さん
サイト上での支払い方法の変更など一部対応に問題が見られる今回のドイツワールドカップ入場券販売方法ですが、それでも4年前のバイロム社による販売とくらべたら月とスッポンぐらいの差で安定感や安心感があると思っています。もちろん見たいと思う人の数がチケットの枚数以上に多い場合、全ての人がハッピーになれる販売方法など存在しないわけですが、それでも購入者のことを考えれば現在の方法はベストではないけれどバイロム社の販売よりはベターだと言えると感じています。


そのような実感を踏まえた上でブラッター氏の発言を読むと、実際には購入者のことよりも自分達のグループの利権のことだけしか考えていないのではないかと思えてしまいます。

ブラッター会長のOK2006批判は、3月1日付けのスイスの新聞に載ったインタビューでのものだった。そのなかで、「ドイツの入場券販売システムはまったく理解できない。今回は地元組織委員会に任せたが、あんな宝くじ販売のような方法なら、FIFA自身の手でやったほうがはるかにましだった。4年後の南アフリカ大会は、我われの手に取り戻す」と語ったのだ。

チケットの総数と購入希望者の総数が変わらない以上、何処の誰が販売しても宝くじのような確率になるわけで、FIFAがやると欲しい人に公平に行き渡るような素晴らしい方法でもあると言うのでしょうか。

2002年ワールドカップで、FIFAは初めて地元組織委員会から入場券の販売権を取り上げ、自ら販売を行った。といっても、実務能力が皆無のイギリスの代理店にその仕事を丸投げし、その代理店の不手際で入場券の配送が遅れたり、大量に売り残しが出て、最終的には日本と韓国の組織委員会に多額の補償をしなければならなくなった。ブラッター会長は、わずか4年前のこの不祥事を忘れてしまったのだろうか。

自分達の失敗は忘れてしまう都合の良い人たちなのですかねぇ。

相手を理解するには…

ちょっと頭の体操的な話になってしまうかもしれませんが、本を読んでいたら次のような一節がありましたので考えてしまいました。

相手を理解するには、言葉ではなく、相手の描いている夢を、感触を、感動を、見たり聞いたりしているものを、自分も見て、聞いて、感じる必要があります。それには、相手の置かれた環境を想像する力が大切になります。

就任から4年近くが経過して、未だに納得できないジーコ監督率いる日本代表のサッカーですが、それを理解する努力をしてみようかと。


『相手を理解するには、言葉ではなく』
ということは、インタビューや記者会見の言葉を見たり聞いたりして考えていることを推測しようとしても効果がないということでしょうか。もちろん監督の記者会見などは、ジーコ監督に限らず本心を隠したり三味線を弾いたりすることもあるわけで、「いついつのあの発言から考えれば…」などと推測することには意味がないのかもしれません。


『相手の描いている夢を、感触を、感動を、見たり聞いたりしているものを、自分も見て、聞いて、感じる必要があります』
ジーコ監督が描いている夢、何でしょうね。自分が率いる日本代表が、ワールドカップ本大会において快進撃を繰り広げることでしょうか。自身の現役引退後に再び日本で現役復帰をしてプレーをし、その後もチーム運営に関わる中でお世話になった日本に対しての恩返し的な意味と、世界のサッカーシーンから賞賛を浴びること。その中でも日本に対しての恩返しは勝利という結果で示したいでしょうし、世界のサッカーシーンに対しては組織や戦術ガチガチの現在のサッカーシーンに対するアンチテーゼとして、個の自由を謳いそれぞれの選手が生き生きと躍動する攻撃的サッカーの実現ということでしょうか。


『それには、相手の置かれた環境を想像する力が大切になります』
現役時代に攻撃的な選手として活躍したジーコ監督のこれまでの選手生活の中で、攻撃の選手をマンマークしたり激しく削ることで攻撃の選手の自由を奪おうとする守備の選手は好きではなかった。というより嫌いだったでしょう。サッカーとは相手のゴールにボールを入れるスポーツであって、そこには個々の選手の才能や自由な想像力が最大限発揮されるべきである。守備という相手の長所を消すことに等しい作業はあくまで陰の部分であって、攻撃こそが陽である。もしジーコ監督がそのようなことを考えているとしたら、現在の日本代表の選手の選出基準も納得がいきそうです。


これらのことを考え合わせて、3ヵ月後に迫ったワールドカップに向かう日本代表を率いるジーコ監督の頭の中を想像します。
基本的に守備を固めるという発想はない。相手に押し込まれて守備の時間になることはあっても、守備を整備して、そこで奪ったボールをいかに攻撃していくかという発想にはなり得ない。はじめに攻撃ありき、それが基本であり、選手の選考についても攻撃力のある選手という条件が全てに優先する。試合の勝敗としては、日本の攻撃力が相手の攻撃力を上回れば勝利できるし、相手の攻撃力が日本の攻撃力を上回れば負ける。そこには日本の攻撃力対相手の守備力という図式や、相手の攻撃力対日本の守備力という概念は存在しない。


三都主選手 トリッキーなフェイントからの縦への突破と意表をついたクロス。中に切れ込んでシュート。
加地選手 豊富な運動量から中盤の選手とワンツーを決めて縦への突破からクロス。
宮本選手 するどい読みによるインターセプトから攻撃の起点となるパスを出す。
中沢選手 セットプレーでの攻撃参加から、高い打点のヘディングによる得点を期待。
福西選手 恵まれたフィジカルから効果的に前線に参加し、走りこんでのシュート。
中田選手 中盤の底で攻撃の起点となるロングパスやFWに打ち込む早い楔のパス、上がってシュートも。
小笠原選手 ドリブルによる少しのタメとシュート、ラストパスも期待。
中村選手 左足からの正確なクロスの供給と、もちろんセットプレーからの得点を取ること。
高原選手 下がってきてボールを受け、中盤に落とした後は前線に侵入しシュート。
久保選手 守備は一切せず、前線に残り一瞬のチャンスを逃さず得点する。


以上は現時点でのジーコ監督が考えるベストメンバーだと思われるボスニア・ヘルツェゴビナ戦のスタメンフィールドプレーヤーですが、GKはともかくとして全員の選考基準を攻撃性に置いていると考えると非常に納得がいきます。相手の攻撃力に対する守備などという概念を取っ払えばとても分かりやすい選手の選び方ですね。チームのバランスとか攻守のバランスには拘らず、そのポジションで最も攻撃力が高いと思う選手を配置し、相手の攻撃力を凌駕してしまうこと。相手の攻撃に対しては点を取られなければいいし、とにかくボールを弾き返せればOKと割り切る。
攻撃力で勝つことが全て。


まあ、まったくの想像ですし頭の体操のようなものかもしれませんが、これが当ってたらどうしよう。
最後に、同じ本から別の一節を。

理解とは、相手の意見に同意することではありません。
相手を受け入れることと、同意することとは別問題です。「ほう、そんな見方や考え方もあるのか」と、素直に受け取ることです。意見が違ったままでいいのです。

もしこれらの想像が当っていたとしても、やはり同意はできませんけどね。