その13 愛について語るときに我々の読む本。

を開いたら、君がいたよ」。大好きだった人から言われて思ったのは、どんな本なんだろう、ではなく彼の目にうつる自分ってどんな姿なんだろう、ということだった。

 毎朝30分間は読書の時間。電車の中、膝の上でそっと本を広げる。男の子がポストから手紙を取り出す場面から始まる物語。窓から射しこむこうばしい光に背中を暖められながら数ページ読み感じた、体の中で何かが染み出す感覚。「あ、やばい」と思うのが先だったか、涙が滲んだのが先だったか。

 誰かが死ぬわけでもない。悲しい出来事が起きるわけでもなければ、感動的な出来事が起こるわけでもない。そこにあるのは一組の恋人の日常だけ。彼は山梨の高校で先生をしている。彼女は京都の大学院に通っている。彼と彼女は恋人同士。便箋に見立てたページの上に散らばる文章たち。綴られる言葉の間にそっと挟まれるのは、手紙を書いた人と手紙を読む人の生活。手紙と恋文の違いはそこに書かれることにおける日常生活の分量によると思う。恋という病に冒された人間の書く手紙は、そりゃあもう狂っている。紙の上に踊る文字は、好きだ好きだ愛している会いたい好きだ。内容はといえば、自分相手相手自分自分自分。そこに日常生活の介入する余地はない。恋の病の症状は「相手を想うこと」を自分の軸にすることだから仕方ない。一方、手紙の中心にあるのは自分の生活。相手への想いは、行間にうっすらと香るだけ。彼と彼女は恋人なのに手紙を書きあう。恋文ではなく、手紙を。

何年も前に友達からきた手紙に「手紙っていうのは、自分のことだけを書くためにあるのかな」って書いてあって、手紙を書くたびにいつもそのことを思い出します。

 ページを捲りながら思い出したのは、3月の終わりに表参道の小さな本屋さんで聞いたお話。その話は、人を愛することについて語ったもので。「先日、40歳になりました。40歳って、もっと大人なんだろうな、と子供のころ思っていましたが、僕は、まだ全然子供です」という店主の自己紹介から始まった。「愛することって、何だと思いますか?」と、その人は訊いた。婚約を控えた男性に。恋人のいない女性に。妻のいる男性に。「相手を大切にすること」「相手の全てを受け入れること」。1つ1つの答えに彼は静かに頷くと、彼にとっての「愛すること」について語った。「愛することは、相手をコントロールすることではない。好き、というのとも違うし、相手を自分のものにしたい、というのも違う。愛することは、相手を生かすことなんです。愛されることは、自分が生きることなんです」。

 相手の全てを自分のものにしたい、ではなくて。自分の生活を持つこと。相手の生活を受け入れること。手紙を通して「愛」が描かれている本だからか「穏やかで優しい恋愛のお話」なんて紹介されているのを目にしたりもするけれど、わたしはこの本を開くたび、かなしくなってしまう。その「かなしさ」について考えていたけれど答えが見つからず悶々としていたのだけれど、何気なく読み返した古い手紙に「かなしさ」の正体を的確に表している(と思った)文章があったので、書いてみる。

僕はあることに気づいたのだ。しかもたった今。
「かわいそう」とか「会いたい」とか言葉にできるものを書いたり、しゃべったりしてしまうと「かわいそう」の範囲におさまらない、その外側やら周囲にある気持ちを取り逃がしてしまうってことだ。だったら書かない方がいーの?っつーことなんだけど、そんなことはなくて、やっぱり、これはボクの文章表現力の問題ということに集約されてしまう気もしてきた。
うーむ、なにを書いているのかよくわからなくなってきたので、もうこのへんでやめるけど、そういう言語化されない部分をお互いわかりあうには、やっぱり二人の時間をたくさん持つことが大切なんではなかろうか、ということだ。いろんな気持ちをこめて「好き」って書いたり言ったりするんだからね。ではまた。

 同じ温度、同じ形、同じ大きさで言葉をやり取りするには、同じ時間を過ごす以外に方法はない。どんなに言葉を重ねても、そこからはみ出てしまう想いというのは確かにあって、遠く離れた地で暮らす二人のあいだには、書いた手紙の分だけ「語られない想い」が積もってゆく、それがせつなくかなしかったのだ。この本には複数のタイトル案があったらしいのだけれど、そのなかのひとつ「話そう、の余白に」というタイトルには、そのかなしさが表れていると思う。ちなみにボツタイトルは6つ。

  • 「きみの住む町には、花が咲いている」
  • 「いつか忘れてしまうけど」
  • 「きみに会いに行くよ」
  • 「忘れない日々のこと」
  • 「思い出したら、手紙を書いて」
  • 「話そう、の余白に」

どれも素敵だけれど、やはりこのタイトルが一番しっくりくる。「いつか、僕らの途中で」。


 「君がいたよ」と教えてくれたのは、大好きだった人。かつて、時間も気持ちも独占したいと足掻いた相手。彼は女の子のどこにわたしを見たのだろう。自分を生きる彼女のどこに、彼と1つになりたいと本気で思っていたわたしを見たのだろう? ふうっと息を吹きかければ、はらはらと散ってしまいそうな挿絵。鉛筆の濃淡だけで描かれた京都と山梨の町並みと、そこで生活する二人。ロングヘアーで猫が好きな女の子、長身で少し猫背の男の子。確かに、背格好はわたしたちに似ている主人公たち。でも、そこに流れるのは穏やかな愛。わたしたちにはなかったもの。わたしたちが求めたもの。二人のあいだに生じる距離だとか時間を、言葉で埋めればよかったのかもしれない。独占したいだなんて傲慢だった。でも、それはもう過ぎてしまったこと。本を閉じ、手紙を書きたくなった。大好きだった人へ。恋文ではなく、手紙を。

いつか、僕らの途中で

いつか、僕らの途中で

季節が変わったと気づく、その瞬間に去年とおなじ日におなじ花のあの薄い色誰かに伝えたくて
思い浮かべているのは一人なのに「誰か」って言うのは、どうして?

(歩)