その23 何でもいいから本の話をして。

 タインベックの『ハツカネズミと人間』という小説に、納屋に1人で暮らしているクルックスという黒人の馬屋係が、2人づれで渡りの労働者をしている男たちの1人に話しかける場面がある。

「それからは本を読むしかねえ。本なんて、つまらねえよ。人間には仲間が必要だ——そばにいてくれる仲間が」

 ずっと本を読んでいると、ときどきこのクルックスに共感を覚えることがある。それがどんなに面白い本でも、近くにいる人がそんなに面白いことを言わなくても、やはり、誰かとしょうもない話をして盛り上がることは、何にも代え難いところがある。一日会社で端末に向かっていた日と、外に出て仕事と関係のない話を営業先でしてきた日とを比べてみると、家に帰ってきたときのテンションが全然違う。

「『大事なのは二人が話をしているということ、いや、話をしねえでただ静かに座っているだけでもいい。どちらでも同じ、同じことなんだ』ますます熱がはいって、片手でひざをたたく。『ジョージはおまえに途方もねえことを話すが、どんな話でもかまわねえ。ただ話をしているだけで、相手といっしょにいるだけでいい。それだけのことさ』クルックスは言葉を切った」

ハツカネズミと人間 (新潮文庫)

ハツカネズミと人間 (新潮文庫)

 最近、すごく面白い本に出会っても、それを通じて盛り上がる共通のルールがなくなっているような感じを覚えることがある。いいとこ取りの乱読を続けている自分の好みの問題かと思っていたところ、この感じには多少の歴史的必然性もあるということを、ある本を読んで知った。

 その本とは東浩紀の『動物化するポストモダン』という本だ。2001年に出たもので、大学時代に一度読んでそのあとは実家の段ボールの中に入っていたのだが、先日掘り出す機会があり、久しぶりに再読してみて、前には気づかなかったことをいろいろと感じた。日本社会を席巻したオタク化という現象を、20世紀後半の現代思想の流れと比較しながら説明するこの論考を読むと、私たちが文化的なことで分かり合えないということが、個人のレベルを超えた現象なのだとわかる。

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

 クラシック音楽や西洋絵画、オペラや歌舞伎みたいに「本物」が存在する文化がある。こういう文化はゴールというか天井がはっきりしているから誰かと話をするとき自分の立ち位置を説明しやすい。だからきっと、こういう文化しかない時代に生きた一部の人たちは、文化を生活に取り入れることでお互い深く繋がっていたはずである。けれど私の世代だと、宮廷文化を好きになる場合はどうしても「あえて」という感情がついてくる。その業界内で生きる人を別にすると、すでに中心的な社会構造と文化が切り離されてしまっているからだ。

第一次世界大戦の経験とその結果訪れたヨーロッパの荒廃は、啓蒙や理性に対する十九世紀的な信頼を徹底的に壊してしまった」

 いま「どんな本が好きなの?」という言葉から初めて、古今和歌集プルーストを青筋立てて熱く語れる人はすごいと思うけど、やっぱりそんな人はどこか時代に歯向かっているのだと思う。

 同様に、ロックやジャズや暗黒舞踏を口角泡を飛ばしながら熱く語れる人も、すごいと思うけど、同世代にいると、やっぱりどこか無理してるような感じを受ける。東氏の議論を援用すれば、これらのカウンター・カルチャーは戦後アメリカの快楽的な消費社会と、ソビエトの冷笑に満ちた共産社会という時代背景があったからこそ支持されたものであるらしい。

「二〇世紀はひとことで言えば、超越的な大きな物語はすでに失われ、またそのことはだれもが知っているが、しかし、だからこそ、そのフェイクを捏造し、大きな物語の見かけを、つまりは、生きていることに意味があるという見かけを信じなければならなかった時代である」

 第一次世界大戦以前に人格形成をした人は、偉大なる本物の文化を信じていた。第一次大戦から冷戦終結までの間に人格形成をした人は、偉大なるニセモノの文化を信じていた。かなり大雑把にまとめると、そういったことがこの本に書いてある。では、私が所属する世代、つまり1989年以降に人格形成をした人はどうか、というと…

「彼ら(*第三世代のオタク系)の物語への欲求は、きわめて個人的に、他者なしに孤独に満たされている。ノベルゲームは決して多人数でプレイするものではない。そしてそこで九〇年代に急速に高まった『泣き』や『萌え』への関心は、彼らがもはや、データベースを介して作られる擬似的な社交に感動や感情移入を期待していないことをはっきりと示している」

 要するに、私たちの世代、とくに時代を敏感に察知しているヲタ系の人々は、感動はゲームや漫画のなかでするもので、誰かと共感することをそのための手段としてしか見ていないということである。国家が伝統を重んじる政治制度をもっていたり、無理矢理イデオロギーを作って何かの権威を高めたりしていた時代は、その権威が、集団活動を通じて得られる「感動」によって支えられていた。けれどいま「感動」は、個人レベルで消費されるものになりつつあるらしい。

 この本はオタク系文化について語っているので、先の引用ではPCノベルゲームが例になっていたけれど、例えばダンス音楽が、有名曲中心のディスコから無名盤を回すクラブへ場所と表現を移していったことも、同じ流れにあるように思える。私が経験したことで言うと、トーキョーナンバー1ソウルセットという和製ヒップホップグループが好きで、特に川辺ヒロシという人が作るバックトラックが素晴らしいと聴くたびに思うのだけれど、このグループ、歌詞もなんだか難解でよくわからないし、歌も上手いとは言えないし、他人におすすめしにくいグループである。実際、もともと知っていた人以外に薦めていい感触を得たこともない。きっとトラックや歌い手の声に対して「萌え」があるかどうか、東氏の用語でいえば「動物的」に反応できるかによって好みの分かれるグループなのだと思う。

9 9/9

9 9/9

 「動物的」に文化を消費すること、そのことの是非をここで論じても仕方がないので今日はこのへんで終わりにしたい。ただ、つくづく思うのは、冒頭のクルックスのような感情を抱いた人が、今日もブログやSNSを必要としているのだろう、ということだ。それは決して「つながりたい」とか「わかり合いたい」という願望からの行動ではなく、簡単に見つけることが難しくなった未知とか偶然の領域に浸りたいという気持の現れではないかと思う。(波)