その55 全世界に裏切られた気分のこんな日は。

 なことがあると聴く音楽がある。自分の力ではどうにもできないことに翻弄された日のわたし、乾燥機の中の洗濯物のきぶん。生暖かな風にぶわぶわ吹かれながら同じ場所を回り続ける。熱くて苦しくて頭がくらくらする。なにかを考えるのも嫌なくらいに疲れきったわたしはヘッドホンをかける。柔らかく尖った声、甘いコーラス。韻を踏み広がってゆく物語は、目の前の空間を切り裂き穴をあける。満員電車のなか身体を預けたドアに、目の前のパソコンの画面に、寝転んでいるベッドのシーツの下に。ざくり、と穴があきわたしは墜ちてゆく。ゆっくりと。落下しながら想ったのは、あの世界のこと。

ひみつの組織が来て
8時のニュースが大変
都会に危機がせまる
巨大な危機がせまる


あの世界。


 嫌なことがあると開く本がある。活字を追いかけるのも辛いほど疲れた日。ページを開いたそばから活字が流れてゆく。本のページから、雑誌の記事から、マンガの枠線から言葉がぽろぽろと溢れ出す。慌てて手を差し出しても、指の隙間をするりと抜け消えてゆく言葉たち。本もマンガもわたしを助けてくれやしない。行き場を失った手は宙を彷徨いベッドの脇、枕元にいちばん近い本棚へ向かう。写真集と画集の並ぶ小さな空間を指でなぞってゆく。居並ぶ背のなか、ちょっと大判、つるつるとした質感の本に指が止まる。そっと抜く、表紙を撫でるだけで溜息が漏れる。

ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で

ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で


 青い空、白い雲、緑の芝生、ピンクに黄色にオレンジと色とりどりのドレスを着た女の子たち――と書くと幸せの象徴みたいなのに幸福感がゼロの薄ら寂しい世界。黒く塗りつぶされた瞳、石膏像のようにのっぺりとした顔つきの死体みたいな女の子たち。冷たい身体に繋がった頭、張り付けられた笑顔。ひとの体温だとか優しさだとかはもう結構、こんな日は華やかで寂しい世界のドアを押す。生気にあたると酔ってしまうほど疲れたこんな日は。

暇ならわたしと来て
こわれた世界を体験
時代の危機がせまる
稀代の事態になる


 子供奴隷制をもつ軍事国家と7人の少女が率いるカトリック国家との戦いを描く1万5145ページに及ぶ大長編。7人の少女がひみつの組織と戦い勝利をおさめる物語。ひとりの男が作った「もうひとつの世界」。パステル調の柔らかな色合いで描かれる世界、あちらこちらに少女たちが倒れている。手足を切り落とされ、首を絞められ、腸を引き摺り出され、苦悶に顔を歪める少女たち。ありとあらゆる拷問が描写される。淡く甘い色使いで。


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 初めてそこへ行ったのは3年前のこと。気持ちよく晴れた休日の午後、原美術館でわたしは彼に出会った。広い展示室に並ぶ硝子のパネル。パネルとパネルの間に挟まれた絵を見て思った。わたしきっと見てはいけないものを見た。離れられなかった、絵の前から。


 水彩絵の具で淡く色づけられた世界はまるで標本室。漂うにおいは静謐な死の香り、触れると崩れてしまいそうな脆さを放つ。廊下を歩いて部屋に入って部屋を出て階段を登って降りて。展示室を何度往復したか分からない。朝いちばんに入館したというのに、気がついたら窓の外が暗くなっていた。家に帰りたくなくて、もっともっとこの世界に浸りたくて。だからわたしは画集を買った。見てはいけないものは、見れば見るほど見たくなるから。だって、そうじゃない? 


 会期中4度足を運んだ美術館へ。わたしに泥棒の才能があったなら、絵を盗んだだろう。うすいパネルのあいだ、そっと広げられた長い長い物語。破けないよう指で優しくつまみ、するりするりと抜いてゆく。ひみつの組織がやってきて、女の子たちが戦う物語。触れたかった、やわらかそうなその紙に。直接見たかった、せめて硝子越しではなく。わたしと世界を遮るつめたい硝子。憎らしいそいつを指で弾くと、かちんと音がした。


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 何度開いたか分からない画集。仕事もプライベートも行き詰まって、なんだかすべてに見放されたような、世界に裏切られたような、そんな気持のときは大きな鞄にこれを突っ込んで家を出た。人前で堂々と開ける内容ではないし、大判だから電車のなかで開くわけにもゆかない。帰宅するまで一度も開かないなんてこともあったけれど、それでもこの本を鞄に突っ込んでわたしは家を出た。お守りのようなものだった。その行為はひょっとすると“死体を見る”のに近かったのかもしれない。平坦な戦場で彼女たちが、ぼくらが生き延びるための方法。

「若草さんは初めてアレ(死体)を見た時どう思った?」
「・・・よくわかんない」
「あたしはね"ザマアミロ"って思った。世の中みんな、キレイぶって、ステキぶって、楽しぶってるけど、ざけんじゃねえよ、いいかげんにしろ。あたしにも無いけど、あんたらにも逃げ道ないぞ、ザマアミロって」
リバーズ・エッジ109Pより)


幼い頃から悲しい話が好きだった。戦争のルポタージュから始まりマーダーケースブックまで。「そんなに人が死ぬ話が好きなの!?」と母に頬を張られたこともある。生と死は対極でも延長でもなく表裏であるということ。それを実感させてくれるものが好きだった。例えば「リバーズ・エッジ」とか。

リバーズ・エッジ (Wonderland comics)

リバーズ・エッジ (Wonderland comics)


 上履きを隠すあいつも根拠の無いうわさ話を流すあいつも頭を掴んで水溜りに突っ込むあいつも死んでしまえばみんな一緒。皮一枚剥いでしまえばなにも違いはない、その事実だけで元気になれた。あのころのわたしは。


 全世界を敵だと思っていたあのころ。いまはそんな思いに捕われることもないけれど、三つ子の魂百までとはよく言ったものでそんなとき開くのは結局こんな本だったりする。ひとりの男が作った、ひとりの男のための物語。狭い部屋で彼は描いた新聞紙の裏に電話帳の中に。誰にも見られるはずのなかった秘密の世界。彼もわたしと同じだったのだろうか。死体の持つ魔力に魅せられていたのだろうか。或は。

この街は
悪疫のときにあって
僕らの短い永遠を知っていた
僕らの短い永遠
僕らの愛
僕らの愛は知っていた
街場レヴェルの
のっぺりした壁を
僕らの愛は知っていた
沈黙の周波数を
僕らの愛は知っていた
平坦な戦場を


明日からまた憂鬱な1日が始まる。耳にイヤフォンを鞄にこの本を突っ込んで出社しようか。

シンクロニシティーン

シンクロニシティーン

おまけ
http://www.hammergallery.com/Artists/darger/Darger.htm