「へのさん」の本でいっぷく

2016-09-20 戎ルート

・ちょっと前ですが、夏休みに西荻窪のやきとり 「戎」に行ってきました。

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・南口店、通称SOUTH。夏、平日、昼間。戎に行くには最高の状況。

 ただし、ちょっとお腹が空いていなかった。ビール1本に

 カツオ刺身、かわつきねぎま2本で帰りました。

・この日、戎にいたるルートは、

モンガ堂→戎 SOUTH (2016.8.23)

・このルートは最近多い。遅い時間になると入れないから

 寄らずに帰ることもしばしば。

やきとり 戎 43周年 記念サービス

http://nishiogikubo.info/event/345

・そうか戎は43周年なのか。

          

1980年ごろか、先輩の高橋さんと吉祥寺か、新宿で呑んで、

 西荻窪の青山くんのアパートに泊まろうということになって、

 じゃあ、やきとりをおみやげに買っていこうと寄ったのが、

 FIRST 戎 SOUTH。焼き鳥を焼いてもらう間に、焼き台の前で

 ビールケースをイスにして、ビールを飲んで待っていた。

・このシーンはいまだに変わらないね。そうそうそのころは、

 戎に行くとカウンターに入らないでいつもビールケースだった。

吉祥寺or新宿→戎 SOUTH→善福寺の青山のアパート

・最初のルートはこうだった。

          

奥多摩や道志の山々をよく登っていたころは、戎でひとり打ち上げ

 をしていた。そのころ決めていたのは山頂で缶ミカンを食べて、

 降りてきたらビールを飲むことだった。

奥多摩や道志の山々→国立 アンティーク・ジョン→戎 SOUTH

・古い山日記をひもといてみた。国立の古着屋・骨董屋の

 「アンティーク・ジョン」にはいつも山を下りると寄っていた

 記述が残っているのだが、戎に行ったことは書かれていなかった。

 なぜだかわからないが、記憶からすると多くの回数戎に

 行っていた。

          

武蔵境に引っ越してからは、二つのパターン。

自宅→戎 SOUTH→自宅

・土日の早い時間に行く。4時ぐらいか。その時間だと座れた。

 そうそう、戎のカウンターが夜の時間でも半分ぐらいしか

 埋まっていない時代があった。もう、ひとつが

会社→戎 NORTH→興居島屋

・仕事終わって、夜の10時すぎに西荻について戎で一杯。

 そして興居島屋で本棚を見る。このころ興居島屋は深夜2時

 ぐらいまで店を開いていたのではないか。少なくとも終電時間

 には開いていた。

・もう少し時代が経つと

荻窪ブックオフささま書店→ねこの手→音羽館→戎 SOUTH

→興居島屋(2009.11.12)

・日記には「酔っぱらって興居島屋」と書いてある。閉店時間が

 遅いので興居島屋へはいつも戎のあとになってしまう。

戎 NORTH→国立ゆず虎嘯(2012.7.1)

・これはもう酔った勢いなのか。ロンピグさん、モンガさんと

 いっしょに行っているわ。

          

・いろいろと思い出はあるなあ。長年勤めていた会社を辞めた

 時にやまがらさんを励ます会が行われたのも戎だった。

 (あのときはうれしかったなあ)(2012.10.1)

・帰ろうと思って出たら、となりの座敷で古本猛者が飲んでいて、

 混ぜてもらったこともあった。(2012.9.25)

          

・戎の魅力ってなんだろうね。一番は豊富なメニューだな。

 定番に四季の旬のものが加わる。行者ニンニクなんて、他では

 食えないよなあ。次になにを食べようかってメニューとにらめっこ

 しながら飲むのが好きなんだな。

・あー、また行きたくなってしまったわ。


 

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2016-09-04 西村繁男の世界展

横浜神奈川近代文学館西村繁男の世界展」に

 行ってきました。横浜まで行くには「休日おでかけパス」

 2670円を購入したほうが安いのだ。

・出かけようとしたら、高崎線人身事故で不通に

 なってしまったので2時間ほど遅れてでかける。

         

企画展絵本作家西村繁男の世界展 やこうれっしゃで出発!」

http://www.kanabun.or.jp/exhibition/4691/

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・お目当てはもちろん「やこうれっしゃ」の原画。この

 絵本を知ったのはそんなに古くない。10年も経って

 いない。なんといっても最初の開いたページの上野駅

 中央改札口風景。これがもうたまらない。

改札口にの上にある壁画猪熊弦一郎自由」。これを境に

 して内と外で分けられて描かれている。なんといっても

 あの木製でペンキで塗り分けられていた列車札。駅員さんが

 改札に板を渡して、出発した列車札をはずしている。

 もう、これだけでたまりません。

・台車を押す赤帽さん。書かれていないが上野駅赤帽の控え室は

 どこだかわかる。ターレットというのか荷物を連結して運ぶやつ。

 あれも2年ぐらい前まで13番ホームと14番ホームの間に置いてあった

 が最近はみないなあ。

・列車札を見上げる人、その横で腕時計を見る人。旗を持った先頭に

 つながる団体客。結婚式のあつまりのあとの見送り、転勤の会社員を

 見送る同僚。もう、ひとりひとり見ているだけで楽しい。

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・以前一箱店主のだいこん洞さんが、この絵本のすばらしいところ

 としてこの中央改札の通用口を通る車いすが描かれていることだ

 と指摘されていました。確かに細かいところまで読む人のことを

 考えて丹念に描かれている。

         

・この列車は上越線廻り急行能登金沢行だそうで、時期は冬。

 この絵本は1980年発行。1978年に糸魚川まで行ったことがあるが、

 その時に乗ったのが「能登」だったろうか。寝台と普通、グリーン

 の混合の急行というのは珍しかったのではないか。特急はみんな

 寝台だったし。

上野駅の下ホームの一番はじの13番線が夜行列車のホームだった。

 当時の時刻表が手元にないので確かなことはわからないが、中央改札の

 次の見開きが出発前の荷物車の風景。これを見ると13番線のように

 思える。

・いやあ、全部のページのことを書こうとも思ったがネタバレになるので

 このあたりでやめるが。人や列車の細かい描写夜行列車って、こう

 だったよなあというのを思い出させてくれる。

・何回みてもこころおどらされる絵本は他にはない。

西村繁男「やこうれっしゃ」(福音館書店

やこうれっしゃ (こどものとも傑作集)

やこうれっしゃ (こどものとも傑作集)

・<追伸>

 それにしても1978年から1988年まで上野駅で乗り換えて、通学・通勤

 していたのに上野駅を写真で残しておかなかったことが悔やまれる。

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2016-08-18 ホーム転落事故の記事を読んで

・先日、東京で街を歩いていて(もちろん古本屋にいく途中)に、

 視覚障害者の女性の方が電柱に向かって歩いていたので、まずいと

 思って「どちらに行かれるのですか?」と声をかけた。

・信号を渡った向う側の郵便ポストだという。わたしは左側に

 立ち、右腕を曲げてそこを持ってもらい同行した。右手は白い杖を

 持っていらっしゃる。

郵便ポストまでお連れして、ここで別れようと思ったがもう一度

 声をかけていまきた道をまた一緒、ここまででいいですよと

 いうところまで戻った。

         

・このようなことは10年前にはできなかった。できるようになったのは

 仕事で点字カレンダーを作るために何人もの視覚障害者にお会いして

 からである。

・最初にお会いしたのが内田兄弟でいっしょに歩くのにどうすれば

 よいかわからなかったのでコーディネートしてもらった坂部さんに

 教えてもらいわたしの肩に弟さんの手を載せてもらっていっしょに歩いた。

         

わたしはいつも視覚障害者に声をかけているわけではない。たとえば、

 雨が降っているなか傘をささないで歩いている人がいたら声をかける。

 右手に白い杖を持って、左手に荷物を持っていると傘がさせないのだ。

・そういう当たり前のことも10年前にはまったくわかっていなかった。

         

・きょうの毎日新聞朝刊の余禄は青山一丁目駅での視覚障害者転落事故

 を取り上げている。そのなかでの気になったこと

いつ誰であれ転落しそうな人をみたら声をかけるのはもちろんだ

・それはもちろんなのだが、みんながみんな声をかけることができるの

 だろうか。かけようと思ってもかけられないのではないか。

・「積極的に声をかけてほしい」という視覚障害者の意見も載っている。

 それが視覚障害者の求めているもの。大切なことは視覚障害者

 知ること。知ることによって、意識が生まれる。そのことが重要なんで

 はないだろうか。意識が積極的にさせるのではないだろうか。

・今回の転落事故でそんなことを思った。

         

・一番最初に取材をさせてもらった内田兄弟のお兄さんの本があります。

 もう随分と前に読んだので細かいところは忘れましたが、知らないことばかり

 目からウロコでした。 

内田勝

「見えないぼくの明るい人生―ありのままを受け入れる生き方のすすめ」

主婦の友社

内田さんは超人です。坂部さんのこともでてきます。ちょっと前にでた

 本なので書店では探しづらいかもしれません。図書館で探してみてください。

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2016-08-16 8月16日

・14日に墓参りに行き、実家に顔をだした。10月に90歳になる

 父は近年になく元気だった。

         

・父は怒らない人である。怒ったはなしを聴いたのが1回。

 怒っているのを見たのが1回。わたしが怒られたのが1回。

 子供のころ、怒られたことは全くない。怒られたのは、

 5年ほど前のこと。理由は忘れたが「お前がちゃんとしないから

 いけないんだ」と。初めて怒られたものだから、こちらは

 どう対応していいかわからずどぎまぎしてしまった。

         

・父は泣かない人である。泣いたのは見たことない。母が

 亡くなった時でさえ泣かなかった。

・今回初めて泣いたはなしを聞いた。5歳の時に養子に出されそうに

 なったそうだ。ばあさんに連れられて新町の老夫婦の家に行った

 そうだがいやだと泣きじゃくったそうで、そのままばあさんが

 連れ帰ってきたそうだ。

         

・父は女性のファンが多い。まあ優しい人であるからなのだが、

 そうなのだが。もてるというのとも違う気がする。

・あれは、まだ父がレッズボランティアをしていたころだけど、

 きれいな女性が「よしいさ〜ん!」と手を振ってこちらに

 向かってきた。こんなきれいな女性に知り合いはいないよ、

 と思っていたら、そのきれいな女性は父の手を取って

 「久しぶり、会いたかった」といっている。わたしは嫉妬した。

・30年ぐらい前に上野松坂屋にあった古くから出入りしていた

 釣り道具屋にいっしょに行ったとき、そこの女店主が父をみて

 「来たな美少年」と言ったのにはびっくりした。まあ、江戸っ子

 のイキなあいさつだったのかもしれない。

・余談だが、デパートの1階に釣り道具コーナーがあったとは

 いまでは想像もできないよね。いくら下町とはいえ。 

         

・きゅうになにを思ったか「8月16日だ!」と父は話し始めた。

 昭和16年の5月に国鉄の就職試験を受けたのだが、なかなか

 返事が来ずに採用通知が来たのが8月16日だったそうな。

・父は15歳だな。開戦の5か月前か。こんな時期にもしも

 国鉄に入らずにぷらぷらしていたら……と思うと、

 8月16日というのは記念日なのかな、と。

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2016-08-07 県庁所在地浦和の謎

昭和45年1970年)の浦和市の人口は、26万人。

県都浦和の歴史」(小島照著)に書いてある。当時は、

 埼玉県のなかで川口、大宮に次いで3番目の人口であった

 ことを覚えている。工業都市川口、商業都市大宮

 文教都市浦和、そんな区分がなされていた。

・当時の浦和は「三ない県庁所在地」と呼ばれていた。

 三ないとは、ロードショー映画館がない、特急が停まらない、

 デパートがない。他の県ではありえないことが埼玉浦和にはあるのだ。

大宮には映画館(ハタシネマ)もデパート(高島屋)もあったが、

 浦和人はプライドが高いから大宮には行かず、東京に出ていた。

昭和50年ぐらいだったかポパイかなんかの雑誌で、原宿を歩いている人に

 どこから来たかをたずねたら、1位が浦和、2位が府中だというアンケートが

 載っていた。これを読んだ時、そうだよなと思った。浦和人は、東京人

 なりたがっていたんだと思う。

          *

原武史「<出雲>という思想」(講談社学術文庫)に埼玉の謎という

 項目を発見。出雲埼玉……というのが?であるが。

原武史「<出雲>という思想」(講談社学術文庫

<出雲>という思想 (講談社学術文庫)

<出雲>という思想 (講談社学術文庫)

・この本を読むと氷川神社出雲系の神社なのだそうだ。埼玉県南は、氷川神社

 そこらかしこにある。実家の近くには本太氷川神社があった。去年まで住んでいた

 東浦和にも氷川女体神社をはじめ見沼代用水に沿って氷川神社が点在していた。

氷川神社の総本山は、大宮氷川神社だ。大宮という地名がそれを語っている。

 武蔵の国の一の宮でもある。

浦和大宮中山道宿場町であるが、江戸時代浦和よりも大宮のほうが町と

 しては大きかったそうだ。

・遷都で明治天皇京都から江戸に移ってきて、早くも11日目には大宮氷川神社

 に来ているという。そんなに早くと思うが、それは武蔵一の宮として氷川神社

 重要性を物語っている。

・なぜ浦和県庁所在地になったかなんて考えてみたこともないが、確かにヘンだ。

 大宮県庁所在地となったほうが自然ではある。原武史はそこが「埼玉の謎」だ、

 と指摘しているのだ。

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