「へのさん」の本でいっぷく

2016-08-18 ホーム転落事故の記事を読んで

・先日、東京で街を歩いていて(もちろん古本屋にいく途中)に、

 視覚障害者の女性の方が電柱に向かって歩いていたので、まずいと

 思って「どちらに行かれるのですか?」と声をかけた。

・信号を渡った向う側の郵便ポストだという。わたしは左側に

 立ち、右腕を曲げてそこを持ってもらい同行した。右手は白い杖を

 持っていらっしゃる。

郵便ポストまでお連れして、ここで別れようと思ったがもう一度

 声をかけていまきた道をまた一緒、ここまででいいですよと

 いうところまで戻った。

         

・このようなことは10年前にはできなかった。できるようになったのは

 仕事で点字カレンダーを作るために何人もの視覚障害者にお会いして

 からである。

・最初にお会いしたのが内田兄弟でいっしょに歩くのにどうすれば

 よいかわからなかったのでコーディネートしてもらった坂部さんに

 教えてもらいわたしの肩に弟さんの手を載せてもらっていっしょに歩いた。

         

わたしはいつも視覚障害者に声をかけているわけではない。たとえば、

 雨が降っているなか傘をささないで歩いている人がいたら声をかける。

 右手に白い杖を持って、左手に荷物を持っていると傘がさせないのだ。

・そういう当たり前のことも10年前にはまったくわかっていなかった。

         

・きょうの毎日新聞朝刊の余禄は青山一丁目駅での視覚障害者転落事故

 を取り上げている。そのなかでの気になったこと

いつ誰であれ転落しそうな人をみたら声をかけるのはもちろんだ

・それはもちろんなのだが、みんながみんな声をかけることができるの

 だろうか。かけようと思ってもかけられないのではないか。

・「積極的に声をかけてほしい」という視覚障害者の意見も載っている。

 それが視覚障害者の求めているもの。大切なことは視覚障害者

 知ること。知ることによって、意識が生まれる。そのことが重要なんで

 はないだろうか。意識が積極的にさせるのではないだろうか。

・今回の転落事故でそんなことを思った。

         

・一番最初に取材をさせてもらった内田兄弟のお兄さんの本があります。

 もう随分と前に読んだので細かいところは忘れましたが、知らないことばかり

 目からウロコでした。 

内田勝

「見えないぼくの明るい人生―ありのままを受け入れる生き方のすすめ」

主婦の友社

内田さんは超人です。坂部さんのこともでてきます。ちょっと前にでた

 本なので書店では探しづらいかもしれません。図書館で探してみてください。

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2016-08-16 8月16日

・14日に墓参りに行き、実家に顔をだした。10月に90歳になる

 父は近年になく元気だった。

         

・父は怒らない人である。怒ったはなしを聴いたのが1回。

 怒っているのを見たのが1回。わたしが怒られたのが1回。

 子供のころ、怒られたことは全くない。怒られたのは、

 5年ほど前のこと。理由は忘れたが「お前がちゃんとしないから

 いけないんだ」と。初めて怒られたものだから、こちらは

 どう対応していいかわからずどぎまぎしてしまった。

         

・父は泣かない人である。泣いたのは見たことない。母が

 亡くなった時でさえ泣かなかった。

・今回初めて泣いたはなしを聞いた。5歳の時に養子に出されそうに

 なったそうだ。ばあさんに連れられて新町の老夫婦の家に行った

 そうだがいやだと泣きじゃくったそうで、そのままばあさんが

 連れ帰ってきたそうだ。

         

・父は女性のファンが多い。まあ優しい人であるからなのだが、

 そうなのだが。もてるというのとも違う気がする。

・あれは、まだ父がレッズボランティアをしていたころだけど、

 きれいな女性が「よしいさ〜ん!」と手を振ってこちらに

 向かってきた。こんなきれいな女性に知り合いはいないよ、

 と思っていたら、そのきれいな女性は父の手を取って

 「久しぶり、会いたかった」といっている。わたしは嫉妬した。

・30年ぐらい前に上野松坂屋にあった古くから出入りしていた

 釣り道具屋にいっしょに行ったとき、そこの女店主が父をみて

 「来たな美少年」と言ったのにはびっくりした。まあ、江戸っ子

 のイキなあいさつだったのかもしれない。

・余談だが、デパートの1階に釣り道具コーナーがあったとは

 いまでは想像もできないよね。いくら下町とはいえ。 

         

・きゅうになにを思ったか「8月16日だ!」と父は話し始めた。

 昭和16年の5月に国鉄の就職試験を受けたのだが、なかなか

 返事が来ずに採用通知が来たのが8月16日だったそうな。

・父は15歳だな。開戦の5か月前か。こんな時期にもしも

 国鉄に入らずにぷらぷらしていたら……と思うと、

 8月16日というのは記念日なのかな、と。

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2016-08-07 県庁所在地浦和の謎

昭和45年1970年)の浦和市の人口は、26万人。

県都浦和の歴史」(小島照著)に書いてある。当時は、

 埼玉県のなかで川口、大宮に次いで3番目の人口であった

 ことを覚えている。工業都市川口、商業都市大宮

 文教都市浦和、そんな区分がなされていた。

・当時の浦和は「三ない県庁所在地」と呼ばれていた。

 三ないとは、ロードショー映画館がない、特急が停まらない、

 デパートがない。他の県ではありえないことが埼玉浦和にはあるのだ。

大宮には映画館(ハタシネマ)もデパート(高島屋)もあったが、

 浦和人はプライドが高いから大宮には行かず、東京に出ていた。

昭和50年ぐらいだったかポパイかなんかの雑誌で、原宿を歩いている人に

 どこから来たかをたずねたら、1位が浦和、2位が府中だというアンケートが

 載っていた。これを読んだ時、そうだよなと思った。浦和人は、東京人

 なりたがっていたんだと思う。

          *

原武史「<出雲>という思想」(講談社学術文庫)に埼玉の謎という

 項目を発見。出雲埼玉……というのが?であるが。

原武史「<出雲>という思想」(講談社学術文庫

<出雲>という思想 (講談社学術文庫)

<出雲>という思想 (講談社学術文庫)

・この本を読むと氷川神社出雲系の神社なのだそうだ。埼玉県南は、氷川神社

 そこらかしこにある。実家の近くには本太氷川神社があった。去年まで住んでいた

 東浦和にも氷川女体神社をはじめ見沼代用水に沿って氷川神社が点在していた。

氷川神社の総本山は、大宮氷川神社だ。大宮という地名がそれを語っている。

 武蔵の国の一の宮でもある。

浦和大宮中山道宿場町であるが、江戸時代浦和よりも大宮のほうが町と

 しては大きかったそうだ。

・遷都で明治天皇京都から江戸に移ってきて、早くも11日目には大宮氷川神社

 に来ているという。そんなに早くと思うが、それは武蔵一の宮として氷川神社

 重要性を物語っている。

・なぜ浦和県庁所在地になったかなんて考えてみたこともないが、確かにヘンだ。

 大宮県庁所在地となったほうが自然ではある。原武史はそこが「埼玉の謎」だ、

 と指摘しているのだ。

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2016-08-02 柳澤健『1974年のサマークリスマス』

・「科学的立証」というそうだ。

ある生物学研究者がノミの実験をした。

机の上にノミを置き、「跳べ!」といった。

ノミは3メートル跳んだ。

研究者は「跳躍距離3メートル」と記録した。

その後、足をもう一本切りとり「跳べ!」といった。

ノミは2メートルしか跳ばなかった。

研究者は「跳躍距離2メートル」と記録した。

それからまた、べつの足を切りとり、「跳べ!」。

ノミは1.5メートル跳んだのでそのように記録した。

その後も研究者はノミの足を切りとり続けた。

そして、とうとう一本の足もなくなってしまったノミを

机の上に置き、「跳べ!」といった。

ノミは動かない。

研究者はいう。「跳べ!」

ノミはピクともしない。

そんなわけで、彼はこう記録した。

「ノミは足をぜんぶ切りとられると耳が聞こえなくなる」

・中学3年のころ、TBSラジオの深夜1時から3時までは

 パックインミュージックを聴きながら受験勉強していた。

 わたしの家はむかしからラジオTBS派だったから、

 深夜放送もパック派だった。

・そう金曜日のパーソナリティーはナッチャコ。

 通称ナッチャコパック。これはもう深夜放送の王道。

・そのあとのパック第二部が深夜3時から5時までで、パーソナリティーが

 林美雄だった。深夜3時からだから、いつも途中で寝落ちしていたんだ

 と思う。

          

・この「科学的立証」が林美雄が読んだときには、足をもがれた蚤が

 かわいそうでなんと悲しい詩なんだろうと思った。だれの詩かわから

 なかったのだが、最近、「科学的立証」というアメリカのブラック

 ジョークだと知った。

林美雄パックがそんなに好きなわけではなかったが、この「科学的立証」

 だけ40年以上もあたまのなかに残っていた。

          

柳澤健『1974年のサマークリスマス』(集英社)読了。

柳澤健『1974年のサマークリスマス

・いやあ、この本おもしろかった。この「科学的立証」のことも書いてあった。

・1974年当時の時代の雰囲気をこれほど思い出させてくれる本もないなと

 思った。著者はわたしよりひとつ下だからかな。

勉強部屋でひとり孤独にラジオを聴くリスナーは、パーソナリティの孤独に

共鳴する。かくしてパーソナリティは頼れる兄貴となり、ヴァーチャル

恋人なっていく

・ほんとそうだね。

君が生きている時代に、きちんと向き合って生きようよ。目を背けるな、

逃げるな、避けるな。僕はそう言い続けたつもり

・これはパックをどのような番組にするかという先輩アナウンサー

 桝井論平のことばだが。TBSラジオ荻上ちきセッション22」をよく

 聴いているがこのことばがあてはまるな。TBSラジオの伝統なのか。

ユーミンがこの林美雄パックから紹介されたというが、覚えてない。

 やっぱりはじまってすぐに寝落ちしてしまっていたんだろう。

          

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・この本の装丁は好きだなあ。林美雄の写真がいいからかもしれないが、

 文字の配置、文字色の使い方が抜群。装丁は、島田隆。

          

・もうすこしきちんと読書感想文を書くつもりだったのに書けないな。

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2016-07-27 立川談四楼「談志が死んだ」

・それにしても気分の滅入る事件だな。

 どうしてこんなことができるんだろう。

 社会ってなんだろうね。

          

立川談四楼談志が死んだ」(新潮文庫)読了。

立川談四楼談志が死んだ」

談志が死んだ (新潮文庫)

談志が死んだ (新潮文庫)

談志を知ったのはやなせたかしと一緒にやっていた

 テレビ番組 NHK「まんが学校」。Wikipediaで調べると

 1964年から1967年までというから、幼稚園から小学一年生

 だな。内容は覚えていないが立川談志やなせたかしという

 名前は覚えた。談志は一番最初に知った落語家なのか。

・子供のころは演芸番組をたくさんあってよくみていた。

 談志落語をテレビで見た覚えがない。談志はいつも

 洋服で立って漫談をしていた。それが面白くないんだ。

 わたしが子供だったからなのか。

          

落語自体はライブで聴いたのは5回ぐらいじゃないかな。

 談志落語は観たことがなかった。興味はないわけでは

 ないんだが。それなのに落語の本は好きでよく読むのは

 どうしてなんだろう。

落語と同じことが言えるのが、小津安二郎。映画は

 そこそこは観ているがあまり積極的には観ていない。

 それなのに小津に関する本は好きで読んでいる。

          

・「シャレのち曇り」があまりにも面白かったので、

 「談志が死んだ」を読んだ。こちらも負けず劣らずの

 読み応え。

・特に談四楼が談志からクビを言い渡されてからのこと。

 もう推理小説のようで。「なにが原因なんだ」と考え

 させられるのだが、なかなか謎解きになっていかず、

 悶々とさせられる。談四楼のなかに入ってしまったような。

          

・そういえば、談志のような奴がいたなあ。怒りっぽい割に

 あとからフォローはしっかりしてくるタイプ。

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