ブログトップ 記事一覧 ログイン 無料ブログ開設

片柳神父のブログ「道の途中で」

2018-01-14

バイブル・エッセイ(786)イエスと時を過ごす

f:id:hiroshisj:20180114205851j:image

イエスと時を過ごす

 ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。(ヨハネ1:35-42)

 ヨハネの弟子たちは「ついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった」と書かれています。きっと、イエスと話しこんでいるうちにすっかり遅くなり、「もう今日は泊ってゆきなさい」というようなことになったのでしょう。弟子たちはこの人こそメシアであることを確信し、「わたしたちはメシアに出会った」と証し始めます。イエスと共に時を過ごし、イエスの言葉に耳を傾けるとき、わたしたちはイエスがメシアであることを知ります。そして、イエスのことを人に伝えずにはいられなくなるのです。

「来なさい。そうすればわかる」とイエスは言います。イエスは、わたしたちをご自分の住むところへと招いておられるのです。イエスの住まいとはどこでしょうか。それは、わたしたちの心です。わたしたちの心は「聖霊が宿ってくださる神殿」であり、イエスはその神殿の一番奥深くに住んでおられるのです。さまざまな思いが去来し、欲望の騒音でかき乱されている心の表面、騒々しい道端に、イエスは住んでおられません。イエスは、他の人が誰も入ることができない、わたしたちの心の奥深く。穏やかな静けさの中に住んでおられるのです。まず大切なのは、イエスの招きに応え、心の深みに降り立つことでしょう。

 わたしは神父という務め上、教会や幼稚園、刑務所などさまざまな場所で皆さんに神様のことを話さなければいけません。そのときに、決定的に大事なのが、一人になって沈黙の中でイエスと共に過ごすことです。自分の頭で考えたことを話しても、相手にイエスを伝えることはできないのです。イエスと出会って、実際に自分が感じたこと。イエスから聞いたことを語るときにだけ、わたしたちは相手にイエスを伝えることができるのです。人前で話すとき、わたしはその前に何時間も一人きりで過ごします。ただ、自分の心の中におられるイエスだけと向かい合い、「これから出会う人たちにために、何を話せばよいでしょうか」と尋ね続けるのです。こちらがじっと耳を傾けていると、イエスが話し始めてくださいます。滑らかに流ちょうに話し始めるということではありません。ぽつりぽつり、小さな声で話し始められるのです。その一言、一言を丹念に聞き取り、心の中で思いめぐらしていく中で、話が出来上がってゆきます。神の愛がどれほど素晴らしいものなのか、神様はどれほど慈しみ深い方なのか、何の迷いもなく、実感を込めて力強く語れるようになっていくのです。

 神父に限らず、キリスト教徒は誰もがイエスを人々に証する使命を与えられています。苦しみの中で救いを待ちわびている人たちに、自分が出会った救い主の素晴らしさを語ること。それこそ、キリスト教徒の使命です。イエスと出会って、その素晴らしさを人に伝えずにいられなくなった人たちの集まりが教会だと言っていいくらいです。その使命を果たすためには、イエスと共に過ごす時間、イエスとゆっくり語り合い、イエスと共に眠る時間が不可欠です。イエスと共に過ごす祈りの時間の中で、わたしたちは語るべき言葉と、語らずにいられなくなる情熱を与えられ、キリスト教徒になってゆきます。「来なさい。そうすればわかる」とイエスはわたしたちを招いておられます。その招きに応え、イエスが待つ心の深みへと降りてゆきましょう。

2018-01-10

フォト・ライブラリー(562)お正月の帰省

お正月の帰省

f:id:hiroshisj:20180110172747j:image

ご近所の初日の出名所、山口宇部空港から見た2018年の初日の出。いったん教会に戻って新年のミサをお捧げした後、埼玉の実家に帰省しました。

f:id:hiroshisj:20180110172826j:image

羽田に向かう飛行機の窓から見た富士山。うっすら雪化粧していました。

f:id:hiroshisj:20180110172814j:image

空港から埼玉に向かう列車の窓から見た夕焼け。懐かしい景色です。

f:id:hiroshisj:20180110172805j:image

上尾駅から見た富士山。まるで燃え上がっているようでした。

f:id:hiroshisj:20180110172740j:image

母と外食してから実家までたどり着くと、頭の上に大きなお月様が。なんと、この日は正月早々のスーパームーンでした。

f:id:hiroshisj:20180110172732j:image

実家の庭に咲いた山茶花。実家に戻ると、身も心ものんびりします。

f:id:hiroshisj:20180110174533j:image

朝、目を覚ますと庭から「コンコンコンコーン」とキツツキが木をつつく音が聞こえてきました。

f:id:hiroshisj:20180110172715j:image

庭の柿や梅の木に、コゲラとシジュウカラの混群が来ていました。コゲラは日本最小のキツツキ。体長15センチしかありませんが、嘴の鋭さはさすがにキツツキです。

f:id:hiroshisj:20180110174526j:image

羽毛を膨ませてふわふわのコゲラ。どこか愛嬌のある顔をしています。

f:id:hiroshisj:20180110182950j:image

コゲラと一緒に行動しているシジュウカラ。この群れは、コゲラの方が多いようでした。

f:id:hiroshisj:20180110172654j:image

シジュウカラたちに続いて、今度はメジロの群れがやって来ました。大きな鳴き声で、すぐにわかります。

f:id:hiroshisj:20180110174516j:image

実家の近くにある神社。子どもの頃は、この神社の幼稚園に通っていました。

f:id:hiroshisj:20180110174511j:image

実家の庭に咲いた菊の花。母もだいぶ歳をとってきましたが、花の手入れは行き届いているようです。

f:id:hiroshisj:20180110174500j:image

羽田空港に向かう途中、銀座の教文館に立ち寄りました。今年も、神様から与えられた使命を、力の限り果たしたいと思います。

2018-01-09

フォト・ライブラリー(561)新春の草津温泉

新春の草津温泉

f:id:hiroshisj:20180109221827j:image

湯煙漂う新春の草津温泉。今年も、母と一緒に行くことができました。

f:id:hiroshisj:20180109221816j:image

前日まで大雪だったとのことでしたが、わたしたちが到着したときは幸い晴れ間が出ていました。

f:id:hiroshisj:20180109221804j:image

たくさんの人でにぎわう湯畑。硫黄のにおいが、かすかに漂っています。

f:id:hiroshisj:20180109221751j:image

お饅頭のお店が軒を連ねる温泉街。ときおり、ちらほらと雪が舞っていました。

f:id:hiroshisj:20180109221716j:image

ライトアップされた、夜の湯畑。幻想的な美しさです。

f:id:hiroshisj:20180109221705j:image

夜は氷点下まで気温が下がる冬の草津。湯冷めしないように、コートを着込んでの見物です。

f:id:hiroshisj:20180109221652j:image

降りしきる雪も、ライトアップされて幻想的な雰囲気を作り出していました。

f:id:hiroshisj:20180109221730j:image

温泉街の外れにある、西の河原公園。お湯の川が、湯気を立てて流れています。

f:id:hiroshisj:20180109221635j:image

雪で覆われた自然遊歩道。この辺りまで来ると、もうほとんど人影はありません。

f:id:hiroshisj:20180109221631j:image

雪道を歩いていると、どこからともなく鳥たちが飛んできて、目の前の木の枝にとまりました。ひょうきんな顔のヤマガラです。

f:id:hiroshisj:20180109222154j:image

足のあいだに挟んだ木の実を、嘴でつついているヤマガラ。なんとも愛らしい仕草です。

f:id:hiroshisj:20180109222149j:image

しばらく歩いていると、今度はツグミが現れました。ツグミはシベリアからの渡り鳥。寒さには慣れているようです。

f:id:hiroshisj:20180109222226j:image

豊かに湧き出す温泉と、自然の美しさに身も心も癒された温泉旅行。母も大満足で、とても楽しい正月の思い出になりました。神に感謝。

2018-01-08

フォト・ライブラリー(560)陽春の鎌倉散歩

陽春の鎌倉散歩

f:id:hiroshisj:20180108190729j:image

毎年恒例のお墓参りのため、学生時代の友人たちと鎌倉に行ってきました。

f:id:hiroshisj:20180108190712j:image

北鎌倉駅で降りて、まずは円覚寺へ。とてもよく晴れて、陽春という言葉がぴったりの天気でした。/span>

f:id:hiroshisj:20180108201941j:image

境内に咲いた山茶花。北風にも負けず、大輪の花を咲かせています。

f:id:hiroshisj:20180108190637j:image

境内の一角にある庭園に、シジュウカラなどの小鳥たちが集まっていました。どうやら、ヤマハゼの実が目当てのようです。

f:id:hiroshisj:20180108190644j:image

日本で最も小さなキツツキであるコゲラ。普段は木をつついて虫を食べていますが、ヤマハゼも大好物です。

f:id:hiroshisj:20180108190631j:image

メジロもつられてやって来ました。小さな嘴をいっぱいに広げ、木の実を丸のみにしてしまいます。

f:id:hiroshisj:20180108190652j:image

ひょうきんな顔のヤマガラもやって来ました。たわわに実をつけたヤマハゼの木は、鳥たちのレストランです。

f:id:hiroshisj:20180108190620j:image

暖かな陽射しを浴びて咲く蝋梅の花。新春にふさわしい、上品な黄色です。

f:id:hiroshisj:20180108190607j:image

円覚寺から少し歩いて、鎌倉五山の一つ建長寺へ。

f:id:hiroshisj:20180108190557j:image

境内には、まだところどころ紅葉の名残がありました。

f:id:hiroshisj:20180108202010j:image

長い石段を上がって半僧坊へ。富士山がとてもよく見えました。

f:id:hiroshisj:20180108201958j:image

穏やかな表情の相模湾。石段を上った疲れが吹き飛ぶ美しさです。

f:id:hiroshisj:20180108201929j:image

鶴岡八幡宮の人込みを迂回して鎌倉宮へ。境内で、寒桜が満開を迎えていました。

f:id:hiroshisj:20180108201917j:image

墓参りを終えてた帰り道、雪ノ下教会に立ち寄りました。一歩足を踏み入れただけで心を癒される、厳かな祈りの空間です。

f:id:hiroshisj:20180108201906j:image

友人が帰天して、早くも18年。墓参りに行くわたしたちも、すっかり「おじさん」になってしまい、時の流れの速さを実感しないわけにはいきません。来年もまた行けることを願います。

2018-01-07

バイブル・エッセイ(785)真実の光

f:id:hiroshisj:20180107182104j:image

真実の光

イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。(マタイ2:1-12)

「東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた」とマタイは語っています。異邦人を照らす光が現れ、人々はそれに向かって集まって来るというイザヤ書の預言が、文字通りに実現したのです。現代の世界で、遠くの空に突然まばゆく輝く星が現れて人を導くことはないかもしれませんが、誰かの人生の中に福音の光が輝き、人々をイエスのもとに導くということはあると思います。

 20世紀の世界に福音の光を輝かせた人の一人が、マザー・テレサだったことは間違いがないでしょう。わたし自身もそうでしたが、キリスト教をまったく知らない人たち、他の宗教に属する人たちがマザーに引き寄せられ、マザーのもとでキリストと出会いました。スラム街の貧しい人たちと同じ生活をし、貧しい人々のためだけに生涯を捧げるマザーの生き方の中に、人々は福音の光を見たのです。その光は、愛の光、真実の光だと言っていいでしょう。人間の心は、奥深いところで常に愛の光、真実の光を求めています。苦しんでいる人々のために惜しみなく自分を捧げる真実の愛に憧れ、その光に触れたいと願っているのです。できることなら、自分自身もそのような愛の中に生きたい。光の中を歩みたいと願っているのです。誰かの生き方の中に愛の光、真実の光を見つけ出すとき、わたしたちの心はその光に引き寄せられます。人間の心は、そのようにできているのです。

 愛の光、真実の光を輝かせ、人々をキリストのもとに招く使命は、わたしたちにも与えられています。「そんなことはマザー・テレサだからできたことで、わたしたちにはできない」とつい考えてしまいがちですが、そんなことはありません。なぜなら、マザーが輝かせていた光は、自分自身の光ではなく、神から射した光だったからです。神からあふれ出す愛の光がマザーを満たし、マザーの生涯を輝かせたのです。すべては神から出たこと。マザーは、ただ神の愛に自分のすべてを明け渡し、神の愛に満たされて生きただけなのです。

 それは、わたしたちにも出来ることでしょう。愛に満たされた人生、真実なものに貫かれた人生を生きようと試みる限り、わたしたちの人生は光を放つのです。例えば、サビエル高校で教えるためにはるかアフリカやインドからやって来たシスターたち。彼女たちの顔は、いつも喜びの光、静かな愛の光に満たされています。その光は、子どもたちの心を引き付けるに違いありません。あるいは例えば、忙しい毎日の中で、地域での奉仕活動に従事しておられる信徒の方々。彼らの顔は、いつも喜びの光、静かな愛の光に輝いています。その光は、キリスト教徒まったく関係のない人たちでさえ、引き付けずにいない光です。

 私利私欲を捨て、ただ愛の命じるままに生きようとするとき、わたしたちの人生は光を放ちます。たとえ小さな光でもかまいません。暗闇の中で生きている人たちにとっては、ほんの小さな光でさえ貴重なのです。神様の愛を心にしっかり受け止め、自分に与えられた場所で小さな光を輝かすことができるよう祈りましょう。