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片柳神父のブログ「道の途中で」

2017-02-26

バイブル・エッセイ(767)いまを精一杯に生きる

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いまを精一杯に生きる

「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:25-34)

「だれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」とイエスは言います。わたしたちは、明日もそのあとも生き続けることを当然の前提として「ああなったらどうしよう」「こうなったら困る」と思い悩んでいますが、今晩死んでしまうかもしれません。明日、大地震が起こるかもしれないし、病院で癌を告知される可能性だってあります。どんなに綿密に計画を立てても、死がやってくれば、すべてご破算になってしまうのです。自分がいつ死ぬかという一番大事なことがわからないのに、先のことをあれこれ思い悩んだところで意味があるでしょうか。

 あてにならない地上の富や権力などに執着し、自分の力ではどうもならない先のことまで自分の思った通りにしようしてあれこれ思い悩むのは、自分の人間としての限界をわきまえない傲慢とさえ言えるかもしれません。「明日のことは明日自らが思い悩む」とイエスは言います。自分の力でどうにもならない先のことは神様の手に委ねて、いまこのときを精一杯に生きなさいというのが今日の福音のメッセージでしょう。

 そのような生き方の模範になるのが花や鳥だと思います。「空の鳥をよく見なさい」というのは、バードウォッチングを趣味にしているわたしが一番好きな聖句の一つですが、確かに鳥たちの姿の中に人生の答えがあるように思います。鳥たちは「種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない」とイエスは言います。働かなくていいということではないでしょう。鳥たちを見ていて見習いたいのは、先のことまであれこれ心配しないということです。長年バードウォッチングをしていますが、将来のことで悩み、暗い顔をしている鳥をこれまでに見たことがありません。鳥たちは「もっと種を植え、刈り入れて餌をためておかないと、冬になって困る。子どもも多いんだし」などと心配しないのです。

 鳥たちは、いつもその時を精一杯に生きているように見えます。目の前にある状況と全力で向かい合い、ただいまこの時を生きることだけを考えているのです。そんな鳥たちを、神様は豊かに養ってくださる。だから、先のことは心配せず、いまを精一杯に生きなさい。そういう意味で「空の鳥をよく見なさい」とイエスは言っているのでしょう。「野の花」についても同じことが言えると思います。花たちは、先のことを考えず、いまこのときを全力で咲いているのです。

 鳥や花たちに共通しているのは、先のことを心配しないということです。それはまるで、神様の恵みを信頼しきっているかのようです。鳥や花は、冬の次には春が来る、どんなに暗い夜にも必ず朝がやってくる、そのようなことを素朴に信じています。「神様がすべてをよくしてくださる」ということを前提に、いまを精一杯に生きているのです。「わたしがあなたを忘れることは決してない」というイザヤ書の約束を信じ、わたしたちもいまこのときを全力で生きられるよう祈りましょう。

2017-02-23

フォト・ライブラリー(516)教会の庭のスズメと花

教会の庭のスズメと花

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雪の日の朝、コートを着て庭に出ると、スズメたちも寒そうに膨らんでいました。寒いとき、鳥たちは体に力を入れて、全身の毛を逆立たせます。

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雪の中で餌を探すスズメ。嘴が白くなっています。

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雪の中に顔を突っ込んだスズメ。餌を探しているのか、それとも顔を洗っているのでしょうか。

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ふっくらふわふわのスズメ。まさに「ふくら雀」です。

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降りしきる雪と北風の中で、寒そうにしているスズメたち。うちの中に入れてあげたいくらいですが、近づくと逃げてしまいます。

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雪の中から顔を出したフキノトウ。寒さの中でも、確実に春が近づいています。

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教会の庭のプランターで、節分草が花を咲かせました。早春の代表的な山野草です。

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葉ボタンも今が見ごろ。まるで、大きな花のようです。

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庭のあちこちで、スイセンも花を咲かせています。とてもやさしい香りです。

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庭の片隅に植えられた白梅も、可憐な花を咲かせました。2月の青空に映えています。

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餌を探して歩いているスズメ。スズメは跳ねて移動するので、こんな風に歩くのは極めて珍しいことです。

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一生懸命にジャンプしているスズメ。まるでボールが跳ねているようです。

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プランターの縁にとまってこちらをじっと見ているスズメ。貫禄十分です。

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仲よく並んで餌を探すスズメたち。カップルかもしれません。

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厳しい冬も、もうすぐ終わり。スズメたちが元気に春を迎えられるよう祈らずにいられません。

2017-02-19

バイブル・エッセイ(766)愚かなまでの愛

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愚かなまでの愛

「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:38-48)

「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とイエスは言います。これは、地上の知恵で考えたとき、まったく愚かなことでしょう。ですが、これこそが神の愛であることも事実です。神は、わたしたちが神に背いて悪事を働いているときでも、わたしたちを愛して下さっています。神に敵対し、神を傷つけるわたしたちを愛して下さいます。神の愛は、人間の目から見たときには愚かです。ですが、そんな神の愚かなまでの愛の中にこそ、わたしたちの救いがあるのです。

 相手から攻撃されると、わたしたちはつい感情的になって言い返してしまいます。自分を滅ぼそうとする相手を、こちらも滅ぼそうとするのです。だが、それは神の思いではありません。神は、どんな人間も救いたいと望んでおられるからです。わたしたちを攻撃するような憎い相手でも、神様の子どもであり、わたしたちの兄弟姉妹だということを忘れてはいけません。

 もちろん、何を言われても、黙ってへらへらしていろという訳ではありません。相手の救いのために言うべきことは言わなければなりません。ですが、感情的になって、相手の人格を否定するような言い方はすべきでありません。あくまでも、相手のことを思い、相手が救われることだけを願って言うのです。たとえば、自分の周りの人たちについて、不平不満や悪口ばかり言っている人に対して、「不愉快だからやめろ」というような言い方をしてはいけません。「人の悪口ばかり言っていれば、あなたの魂が滅びることになる。だから、そんなことはやめなさい」と言うべきなのです。

 喧嘩をしたときに、相手が謝ってくるまで絶対に和解しないというのも神の思いではありません。神は、一刻も早く兄弟姉妹が仲直りすることを願っておられるからです。わたしたちが互いにののしり合い、無視しあっているのをみるとき、神は悲しみます。だからこそ、相手の方が明らかに悪くても、こちらから先に謝るのです。「あんな言い方をして悪かった」ということから始めればよいでしょう。

 どうしても、「なぜ、あんな奴にそこまでしなければならないのか」という思いが浮かんできますが、それは人間の思いです。そんな相手でもゆるし、救おうとするのが神様の愛なのです。わたしたちは、愚かになることを選びたいと思います。世間の人々がわたしたちのことを見て、「なんであんなに簡単にゆるすんだ。何であんな損なことをするんだ。あいつら馬鹿だ」と言うくらいになれば理想的です。愚かなまでの神の愛を、地上に証してゆくことができますように。

2017-02-13

フォト・ライブラリー(515)長崎・外海巡礼

長崎・外海巡礼

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講演会で長崎に行ったついでに、外海の教会群を巡礼してきました。息をのむほど美しい海と、何百年にもわたる人々の祈りを引き継ぐ長崎の教会。写真でお楽しみください。

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まず訪れたのはカトリック黒崎教会。遠藤周作の小説『沈黙』に登場する「トモギ」は、この辺りをモデルにしているそうです。

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祈りの雰囲気がたちこめる、黒崎教会の聖堂。吉永小百合主演の映画『母と暮らせば』に登場した教会です。

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最近では、長崎の観光キャンペーンでキスマイが来たことで有名。キスマイのファンの「聖地」になっているそうです。

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ステンドグラスから射し込む暖かな光を浴びながら、しばらくお祈りさせていただきました。

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海沿い建てられた遠藤周作記念館からの眺め。展示もすばらしかったのですが、景色の方に思わず目が行ってしまいました。

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「人間がこんなにも哀しいのに、主よ、海がこんなにも碧いのです」と、遠藤が「沈黙の碑」に記した外海の景色。この日は特に晴れていて、五島列島がはっきり見えました。長崎を追われたキリシタンたちは、この辺りから舟で五島に渡ったそうです。

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世界遺産の候補になっている、カトリック出津教会。パリ・ミッション会の宣教師、ド・ロ神父が建てたものです。屋根が低いのは、風雨を避けるためとのこと。国の重要文化財に指定されています。

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出津教会の周辺は、段々畑が続いています。昔は、斜面のほとんどが畑だったそうです。

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急な斜面の上に、ちょこんと建てられたカトリック大野教会。こちらも、ド・ロ神父が設計したとのこと。世界遺産の候補になっています。

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教会の屋根瓦には、赤い十字架が記されています。当時の教会ではよく見られるそうです。

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素朴な造りの聖堂内部。現在は、年に1度の記念ミサで使用されるくらいだそうです。険しい坂の上にあるので、ここまで来るだけでも大変でしょう。

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玄武岩のかけらを漆喰で固めた独特の壁。ド・ロ壁と呼ばれているそうです。

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フランス貴族の出身であるド・ロ神父が、女性の自立支援のために私財を投て作った出津救助院。日本で初めてマカロニが作られた場所とされています。

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うっそうとした森の中に建つ、枯松神社。伝説の伝道師バスチャンの師であった、サンジワンを祀っています。神社にキリシタンが祀られているというところが興味深いです。

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ところどころに置かれた大きな石は、潜伏キリシタンたちの墓だと言われています。

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墓の上に置かれた白い石。お祈りをするときだけ十字の形に組み、終わったら発見されないようにばらばらにしたとのことです。

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森の中の大岩。陰に数人が入れるくらいの大きさです。かつて、潜伏キリシタンたちがここに集まって祈りを捧げたと言われています。

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外海巡礼を終えて、西坂の二十六聖人記念館にやって来ました。豊臣秀吉の命によって処刑された6人の外国人宣教師と、20人の日本人キリシタンたちを記念しています。

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記念館の隣に建てられた聖堂。記念館と同じく、建築家・今井兼次氏の設計によるもので、バルセロナのサクラダ・ファミリア教会を模しているとのことです。

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小高い丘の上に建つ、カトリック浦上教会。長崎教区のカテドラルで、日本でも最大規模の教会です。

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原爆によって一度は破壊されましたが、戦後、信徒たちの手によって再建されました。この日は、隣にあるカトリックセンターで講演させていただきました。

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浦上四番崩れで、配流の地に出発するキリシタンたちのレリーフ。今年でちょうど150年になります。

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原爆によって破壊された聖人たちの像。聖堂の中には、被爆したマリア像もあります。

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青空に向かってそびえたつ信仰の碑。わずか2日間でしたが、長崎の地に受け継がれるキリスト教信仰の重みに触れた旅でした。殉教者たちの蒔いた種が、いま確かに豊かな実りを結んでいます。

2017-02-12

バイブル・エッセイ(765)神の声に耳を傾ける

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神の声に耳を傾ける

「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』 と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。(マタイ5)

「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、決して天の国に入ることができない」とイエスは言います。義とは何でしょう。それは、「神の子」らしさだと言っていいでしょう。「神の子」として、恥じることなく神の前に立つことができる状態を「義」と呼ぶのです。罪を犯したアダムとエバが、神を畏れて木陰に隠れたように、よくないことをしていれば、恥ずかしくて神の前に立てません。一部の律法学者やファリサイ人のように、外見は立派でも、陰で悪いことをしていれば、すべてを見ておられる神さまの前に立つことはできないでしょう。「神の子」として神の前に立ちたいなら、普段から「神の子」としてふさわしくふるまう必要があるのです。

 悪魔は、わたしたちが罪を犯すように誘惑します。ですが、わたしたちの罪を悪魔のせいにすることはできません。なぜなら、罪を犯すのはわたしたち自身だからです。「馬を水辺にまで引いてゆくことはできても、水を飲ませることはできない」と言いますが、悪魔にできるのは、わたしたちをおいしそうな木の実の前に連れてゆくことだけです。「望んで選んだ道が、彼に与えられる」とシラ書が言う通り、手を伸ばしてその実をとるのはわたしたち自身なのです。厳しい事実ですが、逆に言えば、わたしたちが誘惑に負けさえしなければ、悪魔には何もできないということでもあります。

 ではどうしたら、悪魔の誘惑に負けず、いつも神の子としてふさわしく生きることができのるのでしょう。そのためには、悪魔の声ではなく、神の声にしっかり耳を傾けて生きることしかないでしょう。

 たとえば、わたしたちが一時の感情に流され、よく考えずに何か始めると、心の中に「本当にこれでいいのかな」「何かが違う気がする」といったモヤモヤした気持ちが生まれます。そのモヤモヤの中に、神の呼びかけが隠れていることが多いようです。何か引っかかるものを感じたら、ゆっくり時間を取り、心のモヤモヤとしっかり向かい合ってみたらよいでしょう。そのうちにモヤモヤの中から、「どんなに得だといっても、人に迷惑をかけるようなことはすべきでない」とか「ばれないからといって、誰かを傷つけるようなことをすべきではない」というような、自分の本当の気持ちが現れてきます。その声こそが、わたしたちの本心であり、神様からの呼びかけなのです。わたしたちの心の一番奥深くに住んでいる神様が、わたしたちの心を通してそう呼びかけているのです。

 心の奥底から呼びかける神の声、わたしたちの心の奥深くに眠る愛の声に耳を傾けることこそ祈りの始めです。その声が、何かをやめるように呼び掛けているなら、今度はわたしたちの方から、「神さま、それをやめるための力をお与えください」と祈りましょう。何かをするように呼び掛けているなら、「神さま、それをするための力をお与えください」と祈りましょう。それこそ、神の御旨にかなった祈りです。その祈りは、必ず聞き届けられ、実現するでしょう。

 先日、列福された高山右近のように、神の声だけに従って生きる堅い決意を持った人に、悪魔は何もすることができません。日々、神の声にしっかりと耳を傾け、悪魔の誘惑と戦ってゆきましょう。