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片柳神父のブログ「道の途中で」

2018-10-14

バイブル・エッセイ(825)本当の知恵

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本当の知恵

 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。(マルコ10:17-22)

「あなたに欠けているものが一つある」と、イエスは話しかけてきたこの人、おそらく若者に声をかけしまた。「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」というのです。永遠の命を受け継ぎたいと願うこの人に欠けていたもの、それは隣人を愛するということだったのです。隣人を愛さないなら、それは神のみ旨に反することですから、神をも愛していないことになります。たくさんの律法を守ってきたこの人は、それらの中で最も大切な「神を愛し、隣人を愛する」という掟を守っていなかったのです。欠けているものはたった一つでしたが、永遠の命を受け継ぐために最も重要な一つが欠けていた。それが、この人の不幸だと言っていいでしょう。

「わたしは知恵を王笏や王座よりも尊び、知恵に比べれば、富も無に等しいと思った」と知恵の書は言っています。恐れや不安から解放され、神様の愛の中で幸せに生きていくためには知恵が不可欠。知恵なしに富や名誉、権力を手に入れれば、自ら不幸を招くだけだということでしょう。今日の福音がわたしたちに教えてくれる知恵。それは、分かち合うことだと思います。どれほどたくさんの富を手に入れたとしても、それを分かち合わないなら、決して永遠の命を受け継ぐことはできないのです。

 わたしたちは、何かをしようとするとき、つい「自分にとってこれは得だろうか、損だろうか」と考えてしまいがちです。損得を素早く見分け、得なことはするが、損なことはしないというのが、生きていく上での「知恵」になってしまっていることが多いのです。ですが、この「知恵」にしたがって生きていくと、最後に大変なことになります。自分のためにため込んだすべての富、名誉、権力などは死によって奪い取られてしまうからです。最後に何も残らないとすれば、人生そのものを損したことになるでしょう。素早い損得勘定を「知恵」と思い込んでいると、得をしたつもりで、最後に大損をする。賢いつもりで生きてきた自分が、実は最も愚かだったことに気づくのです。

 本当の知恵は、分かち合うことの中にあります。分かち合うことによって家族や隣人とのあいだに結ばれた愛の絆、神さまとの間に結ばれた愛の絆は、死でさえ奪うことができません。死の床についたとき、誰か一人でも最後まで付き添ってくれる人がいるなら、あるいは、すべての人に見捨てられたとしても、神さまだけは見捨てないと確信できるほど強い絆が神さまとの間に結ばれているなら、その人は幸いです。全体を見たとき最後に得をするのは、分かち合った人だと言っていいでしょう。

 目先の利害損得にとらわれず、分かち合う知恵を持ちたいと思います。神さまがわたしたちに求めておられるのは、ため込むことではなく分かち合うこと。自分だけの幸せを願うことではなく、みんなの幸せを願うことなのです。

2018-10-07

バイブル・エッセイ(824)二人は一体

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二人は一体

 ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(マルコ10:2-9)

 「人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である」とイエスは言います。互いに愛し合い、神さまの愛の中で一つに結ばれた二人は、相手の体が自分の体であるというくらいに堅く結ばれている。もはや切り離すことはできない、ということでしょう。夫婦の絆ということが、今日の聖書箇所のテーマだと思います。

 二人が一体であることの根拠は、神が人を「男と女とにお造りになった」ことに求められます。男と女は、もともと一つの体であったものが切り離された。だから、一つの体に戻るのが自然だということでしょう。もっと言うならば、男と女は、一つに結ばれたとき、人間が男と女に別れる前の姿、人間としての完全な姿に戻ると言ってもいいかもしれません。互いに愛し合い、「相手を自分のことのように愛し合う」絆が二人のあいだに結ばれるとき、二人は人間として完成するのです。

「一体」という言葉からは、まず身体的な意味での一致が連想されるかもしれませんが、もっと重要なのは心の一致ということだと思います。二人が一体であるというのは、相手の身に起こることを、そのまま自分に起こることとして受け止める。相手の喜びを自分の喜びとして喜び、相手の苦しみを自分の苦しみとして苦しむということでしょう。互いが互いを思いやり、労わることの究極の理想が、一体という言葉に込められていると思います。

 では、結婚しない人はどうなるのか。一生、真実の愛を知らないまま、不完全な人間として終わるのでしょうか。だとすれば、わたしたち神父はとても不幸だということになりますが、そうではないと思います。神父の場合は、結婚式ではなく叙階式によって「教会と結ばれる」と言われます。「神の民」である教会を、常に自分自身のこととして考えるほど深い愛で結ばれることで、神父も完全な姿になってゆくのです。結婚しなかったとしても、誰かと深い愛で結ばれることによって、わたしたちは人間本来の姿に戻ってゆくのではないかと思います。

 絆を守るために何より大切なのは、相手を思いやる心でしょう。一体になるためには、相手の身に起こることを、すべて自分の身に起こることとして受け止めるほどの思いやりが必要なのです。相手に対して初めに抱いた愛を忘れず、二人の愛を永遠のものにできるように祈りましょう。

2018-10-06

フォト・ライブラリー(593)キリスト教本屋大賞2018

キリスト教本屋大賞2018

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10月2日、東京・大田区の産業プラザで開催された「クリスマス見本市&キリスト教ブックフェア」の中で、「キリスト教本屋大賞」の授賞式が行われました。

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プロテスタント、カトリックの垣根を越えて、たくさんのキリスト教系出版社がブースを連ねるこのイベント。書店の皆さんが全国から集まり、出版社との直接、仕入れの交渉をします。

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クリスマスに向けた主力製品がびっしり並ぶ各出版社のブース。書店の皆さんが、商品を熱心に手に取り、仕入れ交渉をする姿があちこちで見られました。

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15時からの一般公開に合わせて、キリスト教本屋大賞の授賞式が行われました。キリスト教本屋大賞とは、キリスト教出版販売協会に加盟する全国のキリスト教専門書店が、過去1年間に刊行された本から「売りたい・お勧めの本」を投票形式で選ぶ賞です。

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今年の大賞は、なんと『こころの深呼吸〜気づきと癒しの言葉366』(教文館刊)。わたしが書いたものを本にしてくださった出版社の皆さま、本を書店まで運んでくださった取次の皆さま、本を販売して下さった書店の皆さま、そしてすべての読者の皆さま、本当にありがとうございました。

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推薦文を書いてくださった大阪キリスト教書店の上田玲子さんから花束を頂きました。推薦文は、このような内容でした。

「聖書の言葉やキリスト教独特の表現は一切出てこないのに、日々たった1ページ、しかも限られた文字数の中でこんなにも心があったまり『神さまの愛』なるものをめいっぱい感じられる本を、他に知りません。」

【お知らせ1・NHKラジオ『宗教の時間』】

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渋谷のNHK放送センターで、NHKラジオ『宗教の時間』の収録をしてきました。11月4日8時半から放送予定。テーマは「マザー・テレサに導かれて」。「NHKラジオ らじる★らじる」のホームページからお聞きになることもできます。

https://www.nhk.or.jp/radio/

【お知らせ2】

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11月下旬に、教文館から新刊『始まりのことば〜聖書と共に歩む日々366』が発売されます。「聖書を読んでみたいけど、全部はちょっと難しい」、そんな方にぜひお勧めの1冊。どうぞよろしくお願いいたします。

2018-09-30

バイブル・エッセイ(823)本当の目的

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本当の目的

 そのとき、ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。(マルコ9:33-37)

 イエスの名を使って悪霊を追い出す人を見て、弟子たちは止めようとしました。なぜでしょう。それは、おそらく嫉妬だと思います。イエスの弟子でもない人たちが、イエスの名を使って悪霊を追い出し、人々から称賛されているのを見て、弟子たちは嫉妬したのです。そんな弟子たちに、イエスは「やめさせてはならない」と言います。すべての人がイエスの名によって救われることが自分たちの目的なのだから、イエスの名によって救いの業を行う人がいたなら、その人は自分たちの味方。争う必要などないといことでしょう。

 弟子たちの姿は、わたしたち自身にも重なるように思います。たとえばあるとき、ミサの後で、一人の信徒がわたしのところに来て「この間、〇〇神父様のごミサに出てきました。本当にすばらしい説教で、救われた気がしました」という話をしました。わたしは、「それはよかったですね」と応じましたが、内心は穏やかでありませんでした。「じゃあ、わたしのいまの説教はどうだったんですか」と思ってしまったからです。典型的な嫉妬と言っていいでしょう。説教とはそもそも、すべての人の心に神様の愛を届けるため、すべての人の救いのためにするものなので、誰の説教を通してであっても、その人が救われたのなら喜ぶべきでしょう。嫉妬が生まれるということは、やはりどこかに不純な気持ち、人を救うことによって自分が評価されたいとか、神の恵みを独占したいとか、そのような気持ちがあるのだと思います。

 嫉妬は争いを生み、争いは、せっかく始まった神様の救いの業を台無しにしてしまいます。たとえばわたしが、信徒がせっかく称賛している神父様について、「いや、あの人はこんな欠点があるのだよ」などと悪口を言い始めれば、信徒はがっかりして、「なんと心が狭い。キリスト教は、この程度のものなのか」と思うかもしれません。神様がせっかく始められた救いの業が、台無しになってしまうのです。その信徒が救われたのならば、そのことを純粋に喜ぶ。そして、その喜びをさらに大きく育ててゆけるよう協力する。それが神父の役割でしょう。

 神父に限らず、教会ではこのようなことが起こりがちだと思います。「なんだ、あいつは自分ばかりかっこつけて」「あんなやり方はおかしい」などと、自分の評価を求めて教会の中で競い合う。あるいは、他の教派や宗教団体が人助けをこしているのを見て競争心を燃やし、その人たちの悪口を言う。そんなことが起こりがちです。ですが、それは神のみ旨ではありません。わたしたちが互いに協力しあい、一人でも多くの人が救われること、それこそが神のみ旨なのです。人のことを妬んでいる時間があれば、自分にできることを見つけて、それをした方がいいでしょう。すべての救いという目標を目指して、協力することができるように祈りましょう。

2018-09-23

バイブル・エッセイ(822)争いの原因

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争いの原因

 そのとき、イエスと弟子たちはガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」(マルコ9:30-37)

 弟子たちの間で、誰が一番偉いのかという言い争いが起こったと記されています。家も財産も、すべてを捨ててイエスに従った弟子たちの間で、こんな争いがあるというのは意外なことです。しかも、弟子たちはイエスの一番近くにいて、「互いに愛し合いなさい」と繰り返し言い聞かされていたはずです。それなのに、なぜそんな争いが起こるのでしょう。

 このような争いが起こる原因について、「あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか」(ヤコブ4:1)とヤコブは指摘しています。誰かが「自分こそ、イエス様の一番弟子だ」などと主張しても、「一番弟子とか二番弟子とか、そんなことはどうでもいい」と思っているなら、腹は立たないでしょう。腹が立つのは、その人の中に、「自分も偉くなって、みんなから尊敬されたい。自分が一番弟子になりたい」という思いがあるからです。争いを引き起こすのは、わたしたちの心の中に隠れた欲望だと言っていいでしょう。自分の中に相手と同じ欲望があるから、欲望と欲望が競い合い、わたしたちの間に争いが生まれるのです。

 そのようなことは、わたしたちの間でよくあることです。「あの人は、自分だけ目だとうとしている」と人の悪口を言う人の心の中には、「自分だって目立ちたい」という欲望があるし、「あの人は、モテようと思って気取っている」と人の悪口を言う人の心の中には、「自分だってモテたい」という欲望があるのです。すべての人が目立ったり、モテたりすることはできませんから、当然、欲望と欲望の間には競争が起こり、競争は妬みや怒り、争いを生み出します。これが、人間のあいだに争いが起こる根本的な理由だとヤコブは見抜いているのです。

 「自分が偉くなりたい」と争い合う弟子たちに、イエスは、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と語りかけます。欲望を剥き出しにし、人を踏みつけてでも自分の欲望を満たそうとするような人は、神様の前で少しも偉くない。むしろ、自分の欲望を捨て、家族や友人、助けを求めているすべての人々に献身的に奉仕するような人こそが偉いというのです。自分を忘れて愛する人こそが、神様の前では一番偉いと言ってもいいでしょう。

 では、どうしたら欲望を捨てられるのでしょうか。そのためには、神様の愛で満足することだと思います。「仲間の間で一番になる必要などまったくない。わたしは、イエス様のそばにいて、イエス様にお仕えできるだけで満足だ」と思えるようになれば、「偉くなりたい」という欲望は自然に消えます。もし、誰かに対して妬みや怒りが生まれたなら、それはまだ、わたしたちが神様の愛で十分に満たされていない証拠。そんなときこそ、心を落ち着け、神様に向かって心を開きたいと思います。心が満たされたなら、乱れた欲望は消え去り、欲望同士が争い合うこともなくなって、この世界に平和が実現するでしょう。わたしたち一人ひとりの心を、神様が愛で満たしてくださるように祈りましょう。