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片柳神父のブログ「道の途中で」

2018-09-17

フォト・ライブラリー(592)山陽小野田市・焼野海岸の夕景

山陽小野田市・焼野海岸の夕景

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日本夕陽百選の一つに選ばれている、山陽小野田市、焼野海岸の夕景。この日は、太陽が沈んだ直後からとてもきれいな夕焼けを見ることができました。

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焼野海岸のシンボルである、舟の帆のモニュメント。皆さん、それぞれの夕暮れ時を楽しんでおられます。

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周防灘を行く貨物船。これからどこに向かうのでしょうか。

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日没直後の焼野海岸。空の色が反射して、海もオレンジ色になりました。

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静かに打ち寄せる波。波の音を聞いていると、心が落ち着いてきます。

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オレンジ色に染まった西の空。まるで燃えているようです。

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舟の帆のモニュメントと、赤く染まった雲が、芸術的な風景を作り出していました。

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教会から車で15分ほどのところにある焼野海岸。壮大な景色と、海をわたる爽やかな風、穏やかな波の音を通して、神様の愛を全身で感じることができる場所です。

2018-09-16

バイブル・エッセイ(821)神のことを思う

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神のことを思う

 そのときイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(マルコ8:31-35)

 受難と死を予告するイエスを、ペトロがいさめたと書かれています。きっと、「そんなことを言ったら、人から誤解されますよ」などと話したのでしょう。そんなペトロに向かって、イエスは、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と言いました。大切なのは、人からどう思われるかではなく、神様のみ旨にかなっているかどうかだと言うのです。

 行動に迷ったとき、わたしたちはつい、「こんなことをしたら、人からどう思われるだろうか」と考えてしまいがちです。自分がしていることが神様の目にどう映っているのか。神様の前でどんな意味を持つのかとは考えずに、つい身近な人たちからの評価を気にしてしまうのです。たとえば、わたしはいま新しい本の準備をしているのですが、ついつい、「ここはこうしたほうが売れるのではないか」「こんな書き方をした方が、好感を持ってもらえるだろう」などと考えてしまうことがあります。まさに、「人間のことを思っている」状態です。もちろん、読む人たちに配慮することも大切ですが、何よりもまず考えるべきなのは、自分が書いているものが、神様のみ旨にかなっているかどうかでしょう。「この本を出すことは、神のみ旨に適っているのか」、「書いていることは、神様の本当の想いをゆがめていないか。神様の愛を、まっすぐに伝える言葉になっているか」、そのようなことこそ、まず考えるべきことなのです。どんなに世間に評価される本であっても、神様のみ旨にかなわないものであれば、出版する意味がありません。「神様のみ旨にかなったものであれば、神様がすべてをよくしてくださる。何も心配することはない」。そのように考えるのが、「神のことを思う」生き方なのだろうと思います。

 サタンは、わたしたちがとっさに神様のことよりも、人間のことを思うように仕向けます。なぜなら、人間のことを思うとき、わたしたちの心は心配や恐れに取りつかれるからです。「ああなったらどうしよう」「こうなったら困る」と先のことを心配させる。周りの人達に対して猜疑心を抱かせ、苛立ちや憎しみ、争いによってわたしたちを滅ぼす。それがサタンの作戦なのです。この作戦に陥らないために最も有効な対策は、どんなときでも真っ先に「神様は、わたしに何をすることを望んでおられるのだろう」と考える習慣を身に着けることでしょう。神様のみ旨のままに行動し、すべてを神様の手の中に委ねるとき、あらゆる心配や恐れは消え去ります。「神様のみ旨であれば、神様がすべてをよくしてくださる。何も心配がない」と考えられるようになるからです。人間のことを思わず、まず神のことを思う。そのことを習慣にできるように祈りましょう。

2018-09-09

バイブル・エッセイ(820)再会の日まで

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再会の日まで 

 イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。(マルコ7:31-35)

「そのとき、見えない人の目が開き聞こえない人の耳が開く。そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」というイザヤの預言の通り、イエスが人々の目や耳を開いてゆく場面です。いまこのとき、人々に救いが訪れたのです。この喜びは、わたしたち自身の喜びでもあります。いつの日か天国でイエスと出会うとき、イエスはこの人にしたのと同じように、わたしたちの目や口を開いてくださるでしょうし、弱ってしまった足を元通りにし、口に喜びの歌を取り戻してくださるに違いありません。

 敬老の日ということで、20年前に亡くなった祖母のことを思い出しました。わたしの祖母は、40代で夫を事故で亡くし、その後、わたしの父である長男にも病気で先立たれています。晩年は、脳梗塞で体が不自由になり、ベッドに横たわっていることが多かったように思います。わたしは「おばあちゃん子」だったので、祖母についての思い出は尽きないのですが、いまでも印象にはっきり残っていることの一つは、毎朝、仏壇の前で一生懸命に祈っている祖母の姿です。杖をついて仏壇の前まで行き、震える手で線香をあげると、手を合わせて祈り始めます。そして、仏壇に向かって話し始めるのです。まるで、亡くなった自分の息子、わたしの父が目の前にいるように、「お父さん、今日はこんなことがあった。あんなことがあった」というようなことを、延々と1時間以上も話し続けるのです。きっと、祖母には、仏壇から語りかける息子の声が聞こえていたに違いありません。もしかすると、顔さえも見えていたのかもしれません。愛する人たちに先立たれて孤独な日々を過ごす祖母の耳を、目を、神様が開いて、死者たちと話ができるようにしてくださったのではないかとも思います。

 病気や老化によって見えにくくなった目、聞こえなくなった耳が、いますぐ元通りに戻ることはないかもしれません。ですが、天国でイエスと出会うとき、イエスはわたしたちの目と耳を開いてくださいます。そして、わたしたちは、イエス様やマリア様、ヨセフ様、すでに世を去った愛する夫、妻、子ども、友人たちの姿をはっきりと見、その言葉を耳で聞くことができるのです。そのときには、きっと、この地上では見えていなかった相手のよさも見えるようになるでしょうし、地上では照れくさくて口にすることができなかった優しい言葉も聞くことができるでしょう。ここに大きな希望があると思います。天国でわたしたちは、再び力を取り戻した足、腕で、その人たちと再び固く抱き合うことができるのです。

 その喜びは、いますでに実現したとも言えます。もしわたしたちが天国に待っている喜びを信じることができるなら、待っているこの時間も、喜びに満ちた時間になるからです。クリスマスを待っているあいだも、すでにクリスマスの喜びが始まっているのと同じように、もう天国の喜びは始まっているのです。聖書で語られた喜びを、自分自身の喜びとして味わうことができるように祈りましょう。

2018-09-02

バイブル・エッセイ(819)愛の実り

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愛の実り

 そのとき、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」(マルコ7)

「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている」というイザヤの言葉を引用しながら、イエスが律法学者たちに間違いを指摘する場面が読まれました。神を愛すると口先では言いながら、実際には自分のことばかり考え、自分の利益を守るために神の教えをゆがめることさえ平気でする律法学者たち。貧しい人たち、弱い人たちを「罪びと」と呼んで見下し、自分たちだけが神に選ばれたものだと主張する律法学者たちを見て、黙っていられなくなったのでしょう。もし本当に神を愛し、讃美しているならば、そんなことはできないはずなのです。

「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です」とヤコブは言っています。もし本当に心が神の愛で満たされているなら、わたしたちは誰かが苦しんでいるのを見て、放っておくことができなくなるでしょう。神を愛しているなら、当然、「みなしごや、やもめが困っているときに世話を」するようになるのです。もし本当に神から愛されていることを実感し、そのことを神に感謝して生きているならば、世の悪に染まって神を悲しませるようなことは決してしないでしょう。神を愛しているなら、当然、「世の汚れに染まらないように自分を守る」ようになるのです。

 このヤコブの言葉は、確かに真実だと思います。神の前に跪いてゆるしを願い、心が神の愛で満たされるとき、わたしたちは人を見下したり、裁いたりすることができなくなるのです。もし、人の悪口を言ったり、周りに迷惑をかけたりするような人がいたとしても、「この人はダメな人だ。いなくなればいい」と思う代わりに、「この人はなぜ、こんなことを言わなければならないのだろうか。この人のために、自分は何をしてあげられるだろうか」と考えられるようになるのです。自分自身も、これまでたくさんの人に迷惑をかけてきた。それにもかかわらず神様は自分のことをゆるしてくださった。そのことを骨身にしみて知っているので、腹が立つよりも先に、相手へのあわれみ、慈しみが湧き上がってくるようになるのです。

 また、神から愛されていることを実感し、心の底から神に感謝して喜びに満たされるとき、わたしたちは神を裏切るようなことが決してできなくなります。欲望に負けて何か悪いこと、してはいけないことをしたくなっても、「こんなことをすれば、きっと神様が悲しまれるに違いない」と思えば、それができなくなるのです。もちろん、神様はわたしたちの弱さを知り、罪を赦してくださる方です。ですが、だからこそ、わたしたちとしては、それほどまでに愛して下さる方を悲しませたくないと思うのです。

 口先で神を讃美するだけでなく、神の愛を心の底から実感し、神を讃美することができるように。言葉だけでなく、愛から自然に湧き上がる行いによって神を讃美することができるように、共に祈りましょう。

2018-08-27

フォト・ライブラリー(591)熊本YMCA「あそぼうキャンプ」2018

熊本YMCA「あそぼうキャンプ」2018

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熊本地震や九州北部豪雨、東日本大震災などの自然災害で被災した子どもたちの心の癒やしを願う、熊本YMCA「あそぼうキャンプ」が、今年も阿蘇YMCAキャンプ場で開催されました。

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今年は、子ども40人とスタッフ50人が集結。カトリック山口・島根地区からは、萩光塩学院とサビエル高校の高校生ボランティア計12名と引率の教員2名、そしてわたしが参加しました。

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グリーン・バレー牧場で、ホースセラピーを体験する子どもたち。大自然との一体感を味わいながら、馬の大きな背中に揺られているうちに、心がほっこりほぐれてゆきます。

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さわやかな風が吹き抜ける阿蘇の草原。熊本地震からもう3回目の夏を迎えましたが、いまだに3万人以上の方々が仮設住宅で暮らしておられます。

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参加者の中には、東日本大震災で熊本に避難中に熊本地震に被災した子や、九州北部豪雨と熊本地震で続けて家を失った子も。子どもたちの気持ちを思うと、胸が痛みます。

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牧場の片隅に咲いたカワラナデシコ。人知れず、ひっそり咲いていました。

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かわいらしい花を咲かせたメマツヨイグサ。夏の牧場は、花たちの宝庫でもあります。

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ミソハギの群落。訪れる人のほとんどいない、山の中のお花畑です。

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阿蘇の大自然の中を流れる、マゼノ渓谷のせせらぎ。川底の黒い岩は、9万年前の阿蘇山の噴火で流れ出した溶岩だそうです。

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湧水が多く、豊かな水に恵まれた阿蘇。ひんやり冷たい水に癒やされます。

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水遊びを楽しむ子どもたち。タオルを水につけて首にかけると、熱中症の予防にもなります。

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阿蘇の外輪山に残された、江戸時代の参勤交代の道。熊本のお殿様は、阿蘇を通って大分に向かい、そこから江戸を目指したそうです。

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グループワークの一つとして、この道を歩き、阿蘇の湧水を探しに出かけた子どもたちもいました。

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汗だくになって、ようやく探し当てた湧水。冷たくておいしい水でした。

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2日目の晩に行われたキャンプファイヤー。歌って踊って、本当に楽しいひと時でした。

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キャンプファイヤーの最後は、静かに生命の神秘について考えて終わりました。この場面でのお話と、最終日の祈りの集いが、今回のわたしの主な役割でした。

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閉会式の一コマ。今年も全国から、PTSDの治療を専門としているお医者さんたちや、児童心理学の専門家のみなさんが集まり、スタッフとして大活躍しておられました。病院の院内学級の教師としてNHK『プロフェッショナル仕事の流儀』で紹介されたこともある副島賢和先生や、不登校の子どもたちの心のケアをしておられる東京学芸大学の小林正幸先生の姿もありました。

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風にたなびくYMCAの旗。山口・島根から参加した高校生たちにとっても、今回のキャンプは素晴らしい体験になったようでした。

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雄大な阿蘇の大自然。お母さんたちのお話では、夜中に地震が起こったときにいた部屋に、夜になる入れないなど、子どもたちの心には震災の傷が残っているとのこと。子どもたちの心が、一日も早く癒やされるよう、これからもできる限りの支援を続けてゆきたいと思います。