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片柳神父のブログ「道の途中で」

2016-05-29

バイブル・エッセイ(508)裂いて与える

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裂いて与える

 わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。(一コリ11:23-26)

 ガリラヤ湖のほとりで、イエスがパンを裂いて与えたとき、5000人の飢えが満たされました。最後の晩餐の食卓で、イエスがパンを裂いて与えたとき、弟子たちの心は愛で満たされました。今日は、「裂いて与える」ということの意味を考えてみたいと思います。

 裂いて与えるとき、自分の分はなくなってしまうことが多いようです。例えば時間。わたしたちは、自分のために使うことができたはずの時間を、家族や友だちのために裂いて与えます。一日があっという間に終わってしまい、自分のために使う時間はほとんど残りません。ですが、そのことを残念に思う必要はないのです。裂いて与えた時間は、愛に変わったからです。愛とは、自分の時間を、大切な誰かのために裂いて与えること。自分のために使ってしまった時間は、跡形もなくどこかに消えてしまいますが、愛はいつまでも消えることがありません。たとえば、家族のためのお弁当作りや掃除、洗濯、子育てなどに費やされた時間は、「お母さん、お父さんから愛されて育った」という確かな実感として、子どもたちの心に一生残ります。自己満足のためだけに使った時間は、どこかに消えてしまいますが、裂いて与えることで愛に変わった時間は、お互いの心にいつまでも残り続けるのです。

 裂いて与える時に大切なのは、喜んで与えるということです。ケチケチして「本当はあげたくないんだけど、仕方がないからこれだけ」という風に差し出すならば、愛ではなく、「あなたは迷惑な存在です」というメッセージを相手に伝えることになってしまいます。気前よく「いいですよ、これを持って行ってください」と差し出すときにこそ、「本当は自分のために使ってもよかったのだけれど、あなたのためならば喜んで差し出します」という愛のメッセージを相手に伝えることができるのです。裂いて与えることが苦しかったとしても、喜んで差し出すならば、その苦しみは愛に変わります。

「今日も、雑用をしているうちに、自分がやりたいことができないまま一日が終わってしまった」という嘆きをよく聞きます。わたし自身も、そういうことが多いです。さまざまなところから頼まれる小さな用事や、大きな仕事のための細かな準備が際限もなく湧いて来て、時間を奪い取っていくような感じです。「自分のために使うはずの時間を、誰かに奪われた」と思って腹が立つこともあります。ですが、本当にそうでしょうか。パンを裂いて与えながら、「これは、あなたがたのためのわたしの体」とイエスは言います。そもそも、わたしたちの時間は、自分のものではなく、「あなたがた」、つまり家族や友人たちのためのものなのかもしれません。わたしたちの時間、わたしたちの人生は、愛し合うために神様から与えられたものなのです。自分のために使えると勝手に思い込めば腹が立ちます。ですが、この人生を神から与えられたことを感謝して分かち合うなら、そこに幸せが生まれるでしょう。裂いて与えることによって、わたしたちの人生は少しずつ愛に変わってゆきます。

 自分で裂くことができないときには、イエス様の手に委ね、イエス様に裂いて頂けばよいでしょう。イエス様の手の中で、わたしたちの人生は裂かれ、愛に変えられてゆくのです。愛する誰かのために自分を裂いて与える勇気、イエスの手に自分の人生を委ね、イエスに裂いて頂くための勇気を、神に願いましょう。

2016-05-28

フォト・ライブラリー(478)松山講演旅行

松山講演旅行

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 聖カタリナ学園の「聖母を讃える集い」でお話しするため、愛媛県松山市に行ってきました。前日、早めに入って松山を観光したときの写真をお届けします。

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 生まれて初めて訪れた松山市、とりあえず、街の真ん中にそびえる松山城に行ってみました。小高い丘の上の本丸まで、長い石段を登ってゆきます。

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 青空に向かってそびえる松山城。三重の天守閣が印象的です。

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 創建当時の面影を残す城内。お侍たちの息遣いが聞こえてきそうです。

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 天守閣から見た松山の街。遠くに瀬戸内海も見えています。

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 がっちりとしたお城の石垣。ドラマ『坂の上の雲』のオープニングのシーンを思い出します。

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 お城から下りて、街のメインストリート「大街道」へ。『坂の上の雲』の主人公、秋山好古・真之兄弟の生家を目指します。

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 大街道から少し脇道に入ったところにある、秋山兄弟の生家。中学生の団体が見学に来ていました。近くに、『坂の上の雲』のミュージアムもあります。

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 伊予電鉄の路面電車に乗って、道後温泉を目指します。夏目漱石の小説『坊ちゃん』の主人公が、毎日通っていた温泉です。

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 温泉街の中心部にある、道後温泉本館。道後温泉と呼ばれる温泉が湧いているのは、ここと近くの「椿の湯」だけ。宿泊設備はなく、温泉客は近隣のホテル等に泊まってこの施設に通います。

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 隣接する広場に、小説『坊ちゃん』の登場人物たちの人形が置かれていました。主人公の坊ちゃんや山嵐、赤シャツ、マドンナなど、おなじみの面々です。

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 松山市内を走る、名物の『坊ちゃん列車』。明治期の汽車をイメージして作られたディーゼル車両です。

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 松山市の中心部にある聖カタリナ学園。古い伝統を持つ、松山屈指の名門校です。「聖母を讃える集い」の様子は、学園のHPでご覧ください⇒ http://www.catalina.ed.jp/?p=36785

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 松山港の入り口に浮かんだ九十九島。松山港のシンボルと言っていいでしょう。

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 連絡船から見た四国の峻険な山並み。松山港から広島港までは、呉港経由で1時間半ほどです。

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 新幹線や路面電車、連絡船を乗り継いでの松山旅行。久しぶりに旅気分を満喫することができました。またいつか訪れたい街です。

2016-05-27

バイブル・エッセイ(507)共に喜び、共に苦しむ

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共に喜び、共に苦しむ

★このエッセイは、5月25日に松山市の聖カタリナ学園で行われた「聖母を讃える集い」での説教に基づいています。

 そのころ、マリヤは立って、大急ぎで山里へむかいユダの町に行き、ザカリヤの家にはいってエリサベツにあいさつした。エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、その子が胎内でおどった。エリサベツは聖霊に満たされ、声高く叫んで言った、「あなたは女の中で祝福されたかた、あなたの胎の実も祝福されています。主の母上がわたしのところにきてくださるとは、なんという光栄でしょう。ごらんなさい。あなたのあいさつの声がわたしの耳にはいったとき、子供が胎内で喜びおどりました。主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」。するとマリヤは言った、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救主なる神をたたえます。この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう、力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。そのみ名はきよく、そのあわれみは、代々限りなく/主をかしこみ恐れる者に及びます。主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。主は、あわれみをお忘れにならず、その僕イスラエルを助けてくださいました、わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とを/とこしえにあわれむと約束なさったとおりに」。マリヤは、エリサベツのところに三か月ほど滞在してから、家に帰った。(ルカ1:39-56)

「愛には偽りがあってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」とパウロは言います。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」(ローマ12:15)、この言葉の中に愛とは何かが要約されているようです。誰かを愛するとは、その人をまるで自分自身のように大切に思うということ。相手にうれしいことがあれば、心の底から一緒に喜び、悲しいことがあれば涙をこぼして一緒に泣く。それが愛なのです。

 聖母マリアとエリザベトのあいだに、確かにこの愛があります。親戚のエリザベトが歳をとって身ごもったと聞くと、困っているに違いないと思ってすぐに駆け付けました。マリアはエリザベトをまるで自分自身のように大切に思っていたので、そうせずにいられなかったのです。マリアは、エリザベトの苦しみをまるで自分のことのよう感じ、エリザベト共にその苦しみを担ったのです。エリザベトも、マリアをまるで自分自身のことのように大切に思っていました。だからこそ、マリアが「神の母」として選ばれたことを、まるで自分のことのように心の底から喜ぶことができたのです。この世の中、人の不幸を喜ぶ人はたくさんいますが、人の幸せを喜ぶ人はあまりいません。どうしてもひがみが生まれてしまうからです。相手を本当に大切に思っていなければ、自分のことのように喜ぶことはできないのです。相手の幸せを心の底から喜ぶことができるなら、それは確かに相手を愛しているしるしだと言っていいでしょう。(自分が成功したときに、周りの人がどんな態度をとるかによって、相手が自分をどの程度思ってくれているかがわかるかもしれません。失敗した時に同情してくれる人は多くても、成功した時に喜んでくれる人はそれほど多くないのです。)

 今回の熊本地震で、わたしは支援物資を運んだりボランティアをしたりするために、ほとんど毎週のように熊本を訪れています。それは、そうせずにいられなかったからです。熊本の教会のみなさんとは、もう15年以上のお付き合いになります。折にふれて訪ね、今年も2月に行ったばかりでした。わたしにとって、熊本の人たちはとても大切な人たちなのです。だから、震災が起こったと聞くやいなや、すぐに駆け付けずにはいられなかったのです。

 熊本では、地震で壊れた家の後片付けや、ごみの仕分けなどのボランティアをしました。今回の地震では、何千もの家が破壊され、何万トンものごみが出ました。ですが、わたしが手伝えることなどは本当に限られています。十人がかりでやっても、一日で一件の家の後片付けを終えるのが精いっぱいなのです。膨大なゴミの山を前にして、「いったい、いつになったら片付くのだろう」と途方にくれることもありました。ですが、そんなわたしの隣で、家の方々は黙々と家の片付けを続けています。子どもの頃から住み慣れた家が壊され、どんな気持ちで片付けているのだろうと思うと、わたしも手伝わずにいられなくなりました。

 ボランティアでできることは限られているかもしれません。ですが、どんなに小さなことだったとしても、相手の苦しみを自分自身のことのように感じ、自分に出来る精一杯のことをするとき、そこに確かな愛が生まれます。その愛には、限りない価値があるのです。マザー・テレサは「わたしたちのしていることは、大海の一滴にすぎません。ですが、やめてしまえば大海は一滴分小さくなるでしょう」と言いました。大切なのは、ほんの一滴であっても、真実の愛を注ぎ続けることなのです。どんなに小さな一滴であっても、世界中の人々の一滴が集まれば、大きな愛の海が生まれるでしょう。相手のことを考えず、ただ自己満足のために大きなことをしたとしても、そこには愛がありません。そんなことをどれだけしても、愛の海はできないのです。ここにいるわたしたち一人ひとりが、「苦しむ人と共に苦しみ、喜ぶ人と共に喜ぶ」真実の愛を注ぎ続けることができるよう、聖母マリアのとりなしを願って祈りましょう。

2016-05-22

バイブル・エッセイ(506)三位一体の希望

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三位一体の希望

 わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。(ローマ5:1-5)

「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む。希望はわたしたちを欺くことがない」とパウロは言います。イエス・キリストによって示された父なる神の愛が、聖霊によってわたしたちに注がれている限り、わたしたちはどんな苦しみの中にあっても希望を見出すことができるのです。神の愛がわたしたちを裏切ることがない以上、わたしたちの希望が裏切られることもありません。

 パウロの言葉は、自分自身の体験に基づくものに間違いないでしょう。苦しみの中で、わたしたちの心に忍耐が生まれます。忍耐とは、自分の思った通りにならない現実を受け入れるということです。人間の無力さや愚かさ、みじめさをかみしめながら、神にすべてを委ねて苦しみを乗り越えてゆく。それが忍耐です。忍耐の中で、わたしたちの心は磨かれてゆきます。わたしたちの心に、謙そんが深く刻み込まれてゆくのです。練達とは、謙そんの徳をしっかり身に着けてゆくことと考えたらいいと思います。謙遜な心は、ものごとが自分の思った通りにならなかったとしても、決して希望を失うことがありません。謙遜な心は、自分が何もできないけれど、神様には何でもできる。自分が何も知らないけれど、神様はすべてを知っている。どんな苦しみの中にあっても、そう信じて、神にすべてを委ね続けることができるのです。忍耐の中で、あらゆる苦しみを乗り越える強さが与えられると言ってもいいでしょう。

 「聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」とパウロは言います。聖霊は、どんなときにもわたしたちの心をイエス・キリストの十字架に向けさせ、父なる神の愛へと導いて下さる方です。十字架上でのイエスの苦しみは、父なる神の愛の中で大きな喜びに変えられました。イエスのみじめさは、父なる神の手の中で輝く栄光に変えられたのです。どんな苦しみも、神の愛の中で喜びに変わる。どんなみじめさも、神の手の中で栄光に変えられる。聖霊は、わたしたちの目を十字架に向けさせ、そのことを思い出させてくれるのです。そこに、わたしたちの希望があります。わたしたちの希望は、父なる神から与えられ、イエス・キリストによって示され、聖霊によって支えられる、三位一体の希望なのです。

 この希望は、決してわたしたちを裏切ることがありません。なぜなら、神はわたしたちを決して見捨てることがないからです。神の愛がわたしたちを裏切ることがない以上、希望も決してわたしたちを裏切りません。三位一体の希望を信じ、あらゆる困難を乗り越えてゆくための力を願い求めたいと思います。

2016-05-21

【マザー・テレサ列聖記念講演会】

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マザー・テレサ列聖記念講演会

 「いつくしみの特別聖年」の恵みの中で、9月4日、マザー・テレサが列聖されることになりました。この特別な機会に、皆さんとご一緒にマザーの生涯と教えを振り返り、心にしっかり刻みたいと思います。お近くの方は、ぜひご参加ください。(※9月以降にも各地で講演させて頂きます。)

【聖イグナチオ教会】

日時/ 7月2日(土)13:30-16:00

場所/ 東京・四ツ谷 カトリック麹町教会(聖イグナチオ教会)

※地図はこちら⇒http://www.ignatius.gr.jp/annai/access.html

★入場無料、キリスト教徒でない方もお気軽に。

主催/ カトリック麹町教会 メルキゼデクの会

連絡先/ 090-4959-0652

★チラシはこちらからPDFでダウンロードできます⇒

マザー・テレサ列聖記念講演会in四ツ谷.pdf 直

【カトリック徳島教会】

日時/ 7月18日(月・海の日)10:00-12:00

場所/ カトリック徳島教会

※地図はこちら⇒ http://www.cath-tokushima.pages.jp/Map.html

★入場無料、キリスト教徒でない方もお気軽に。

主催/ カトリック徳島教会

連絡先/ 088-626-2060

★チラシはこちらからPDFでダウンロードできます⇒

マザー・テレサ列聖記念講演会in徳島.PDF 直