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片柳神父のブログ「道の途中で」

2016-12-07

【クリスマス講演会in益城町】

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クリスマス講演会in益城町

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 震災発生後、初めての冬を迎えようとしている熊本県益城町で、マザー・テレサのお話をさせて頂けることになりました。神戸から、音楽家のこいずみゆりさんも駆けつけてくださいます。「苦しんでいる人がいれば、放っておけない」という一心で世界を駆け回ったマザー・テレサの愛を、言葉と音楽で皆さんの心にお届けできれば幸いです。主催は、益城町総合体育館避難所の管理運営を終え、現在は木山仮設団地、木倉仮設団地の管理運営をしておられる熊本YMCA。参加無料。キリスト教には縁がないという方も、ぜひお気軽にお立ち寄りください。

日時/ 2016年12月23日(金・祝日)14:30-16:00

場所/ 益城町情報交流センター「ミナテラス」

主催/ 熊本YMCA

連絡先/熊本YMCA本部事務局 096-353-6397

★チラシはこちらからPDFでダウンロードできます⇒

161223益城町講演会.pdf 直

2016-12-04

バイブル・エッセイ(754)人生のまっすぐな道

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人生のまっすぐな道

 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」(マタイ3:1-12)

 「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」という言葉が読まれました。イエスがわたしたちのもとにやって来るための道、わたしたちがイエスに向かって進んでゆく道を、まっすぐにせよというのです。ですが、どうしたら人生の道を、迷いなく、まっすぐに伸ばしてゆくことができるのでしょう。

 大切なことが二つあると思います。一つは、進んでゆく先にある目標を、しっかりと見据えることです。わたしたちの進んでゆく先にある「神の国」という目標をしっかり見据え、わき目も振らずに進んでゆくとき、わたしたちの人生はまっすぐになるでしょう。

「神の国」とは、具体的に言えば、すべての人が「神の子」として大切にされる世界。神様の愛の中で、すべての人が人間らしく、幸せに生きられる世界のことです。「自分たちさえよければいい」という考え方や、「難民のことなんか自分とは関係ない」というような考え方をするとき、わたしたちは人生のまっすぐな道から外れてゆきます。自分たちだけでなく、世界中のすべての人が幸せに生きてゆくためにはどうしたらいいか。難民の人たちを救うため、自分に何ができるのか。そう考える人の前には、「神の国」へとまっすぐに続く道が開かれるでしょう。

 もう一つの大切なことは、手元にしっかりとしたコンパスを持っているということです。いつも進むべき正しい方向を示してくれるコンパスがあれば、仮に遠くにある目標を見失うことがあったとしても、わたしたちはまっすぐに進んでゆくことができるでしょう。人生の道をまっすぐに進んでゆくためのコンパス。それは、「いつくしみ」です。

 「いつくしみ」とは、具体的に言えば、苦しんでいる「神の子」、兄弟姉妹を見たときに、放っておくことができないということです。「苦しんでいる人を見たら放っておけない」という気持ちを、コンパスとして心に持っている人は、どんなときでも迷わず、イエスに向かって進んでゆくことができます。道端で倒れている人を見かけたとき、「今は忙しいから」と言い訳して通り過ぎるなら、わたしたちはイエスから遠ざかりますが、その人のそばに行って手を差し伸べるとき、わたしたちはイエスに近づくのです。心の中にある「いつくしみ」というコンパスが指し示す方向に向かって進んでゆくとき、わたしたちの人生の道のりは、イエスに向かってまっすぐに伸びる道になるでしょう。

 「神の国」という目標を見定め、わき目も振らずに進んでゆくこと。「いつくしみ」というコンパスを懐に入れ、いつもその指し示す方角に向かって進んでゆくこと。この二つを忘れないようしたいと思います。まっすぐに伸びた人生の道は、そのまま「神の国」に続く道であり、その道のりの至るところで、わたしたちはイエスと出会うことができるのです。その道を歩むことこそが、わたしたちの幸せだと言っていいでしょう。

2016-12-03

【熊本復興支援from宇部・小野田8】

熊本復興支援from宇部・小野田8

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鹿児島での講演会からの帰り道で、益城町・木山にある仮設住宅を訪ねました。220戸の仮設住宅が立ち並ぶ、大規模な仮設団地です。

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仮設住宅が完成してから熊本を訪ねるのは、今回が初めて。東日本大震災の被災地でたびたび目にした光景でしたが、熊本にもまったく同じ現実がありました。現在、4,300戸の仮設住宅があるとのことです。

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避難者の皆さんからもお話を聞きました。「プライバシーがほとんどない避難所よりはましだけれど、これから先のことが不安」というのが、一番よく聞かれた声でした。仮設住宅に住めるのは2年。終の棲家と思っていた家を失い、再建のめども立たないという状況の中で、将来への不安を感じている方が多いようでした。

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木山仮設団地に3カ所設けられた集会所の一つ。住民相互の交流を図るため、住民の心のケアや独居老人の見守りなどのために、フルに活用されています。アロマテラピーやマッサージのサービスが行われたり、ときには外部からの支援団体による「だご汁」などの炊き出しが行われたりすることもあるそうです。

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木山仮設団地を管理しているのは、熊本YMCA。9人の職員が、子どもからお年寄りまで数百人が暮らすこの仮設団地のために懸命に働いています。わたしたちも、熊本YMCAと協力しながら、12月23日にこの仮設住宅と益城町「ミナテラス」でクリスマス集会を開催し、宇部・小野田ブロックからのクリスマス・プレゼントをお届けしようと思っています。避難者の皆さんが、仮設住宅で迎える初めてのクリスマスとお正月を少しでも暖かな心で迎えることができるよう、全力を尽くしたいと思います。

2016-12-01

フォト・ライブラリー(502)鹿児島・熊本出張

鹿児島・熊本出張

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学校での講演会のため、鹿児島と熊本に行ってきました。旅の途中で写した写真、まずは錦江湾に浮かぶ桜島から。

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1549年、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸したときから、日本におけるキリスト教の宣教が始りました。上陸の地に建てられた、ザビエルの記念碑です。

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薩摩藩の殿様、島津家の菩提寺だった福昌寺の跡地。ザビエルは、鹿児島上陸後、福昌寺を訪ね、忍室という僧侶と語り合いました。明治期の廃仏毀釈で完全に破壊され、いまは墓石が残るばかりです。

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明治政府によるキリシタン弾圧「浦上四番崩れ」で鹿児島に流され、この地で亡くなったキリシタンたちの合同墓碑。福昌寺跡地の一角にあります。

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鹿児島市の中心部にあるザビエル聖堂。帆を立てて海を行く、船の姿をイメージしているそうです。

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紫色の光に包まれたザビエル聖堂の内部。このような聖堂は初めて見ました。幻想的な美しさです。

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美しい光に包まれた聖母子像。鹿児島上陸が「聖母被昇天の祭日」であったことから、ザビエルは日本を聖母マリアに捧げました。

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ザビエル聖堂の向かいの公園に建てられた記念碑。ザビエルが日本人の弟子、ヤジロウとベルナルドを従えています。

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鹿児島純心学園から見た桜島。街のすぐ近くに巨大な火山がそびえているのは、鹿児島ならではの光景でしょう。

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熊本に移動。仕事の合間に水前寺公園を散策しました。

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熊本藩の藩主、細川家が築いた美しい庭園。ちょうど紅葉が見ごろでした。

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真っ赤に染まった紅葉。葉脈が透けて見えます。

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黄色やオレンジ、赤、緑が入り混じったモミジの枝。うっとりする美しさです。

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美しい紅葉と八代白百合学園の校舎。一日修養会を指導させていただきました。生徒の皆さんがとてもよく話を聞いてくれるのに感心。すばらしい学校です。わずか3日間の九州出張でしたが、恵みにあふれた日々でした。神に感謝。

2016-11-28

バイブル・エッセイ(753)最後の日まで

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最後の日まで

「人の子が来るのは、ノアの時と同じである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」(マタイ24:37-44)

 世の終わりがどのようにやって来るかが、ノアの洪水を例にして語られた箇所です。洪水がやって来るまで、人々は「何も気がつかなかった」とイエスは言います。人々は、明日も、あさっても今日と同じ日がやって来ると信じて疑わず、漫然と日々を過ごしていたのです。ですが、ある日、突然に洪水がやって来てすべて奪っていきました。世の終わりも、そのように突然やって来るのだから、いつも「目を覚ましていなさい」というのです。

 世の終わりが近いうちにやって来るとわかったら、わたしたちはどう行動するでしょう。わたしが知っているある信者さんは、とても熱心な学校の先生でした。授業の準備を完璧にするだけでなく、生徒のために絶えず小テストを行い、それを丁寧に採点していましたから、一日のほとんどの時間を生徒のために捧げていたと言っていいでしょう。生徒たちからも信頼され、好かれていました。

 そんなすばらしい先生が、40代である日突然、癌を宣告されたのです。難しい癌で、もっても半年だろうということでした。そんなとき、わたしたちだったらどうするでしょう。もしわたしだったら、残りの人生に悔いを残さないようにと仕事を辞め、おいしいものを食べたり、旅行をしたり、欲しい物を買えるだけ買ったりするかもしれません。ところが、彼は仕事を最後まで続けることを選びました。一通りの治療を終えて退院すると、亡くなる直前まで教壇に立ち続けたのです。病床についてからも教師であることをやめず、意識不明になる直前までテストの採点を続けていたそうです。

 自分の命があと半年とわかったとき、彼は神様から与えられた自分の使命を最後まで果たし抜くことを選びました。愛する生徒たちや家族のために、最後まで働き続けることを選んだのです。与えられた使命をすべて果たし終えた彼は、まるでマラソンを走り切ってゴールのテープを切るランナーのように、天国に入ったに違いないと思います。神様は、すべての使命を立派に果たした彼を抱き留め、栄光の座へと案内したことでしょう。神様から与えられた使命を、最後の最後まで果たし抜いて天国に入る。それこそ、キリスト教徒としての理想的な最後の迎え方だと思います。

 世の終わりは、実際、いつやって来るかわかりません。もしかしたら明日かもしれないし、ひょっとしたら今日かもしれません。もし明日、世の終わりがやって来ると告げられたなら、わたしたちは一体何をするでしょうか。それぞれが考えてみる必要があると思います。神様から自分に与えられた使命、最後の瞬間まで果たし続けるべき使命は、いったい何なのでしょう。残された一日をそのために使ってしまっても悔いがないと思えることは、いったい何でしょう。

 いつ終わりが来てもいいように、「目を覚ましていなさい」とイエスは言います。神様から与えられた使命に目を閉ざしてはいけない。いつも自分の使命を自覚していなさいということです。自分に与えられた使命を見分けるための知恵と、その使命を最後まで果たし抜くための力を神様に願いましょう。