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片柳神父のブログ「道の途中で」

2017-06-19

【講演会in沖縄】

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講演会in沖縄

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「貧しい人たちに神の愛を伝えたいなら、まず自分自身が神から愛されていることを信じなさい」とマザー・テレサは修道女たちに語りかけました。自分が信じていないことを、人に信じさせることはできないからです。「すべての人は、神から愛されたかけがえのない存在」、わたしたちは心からそう確信して生きているでしょうか。マザー・テレサの帰天から20年の節目にあたって、その言葉にもう一度耳を傾けたいと思います。キリスト教徒でない方も大歓迎。どなたでもお気軽にご参加下さい。

日時/ 2017年7月28日(金)19:00-20:30

場所/ 那覇市・カトリック開南教会

主催/ 那覇教区カトリック学園園長会

連絡先/ 学校法人カトリック学園クララ幼稚園・砂川 098-945−2188

★チラシはこちらからDLできます⇒170728カトリック開南教会講演会_01.JPG 直

【マザー・テレサの言葉シリーズ公式HP】http://ubecat.jp/hiroshisj/

【写真集『にっぽんスズメ散歩』発売】

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写真集『にっぽんスズメ散歩』発売

 日本各地のスズメ愛好家5人が撮影した、かわいらしいスズメの写真で構成された写真集『にっぽんスズメ散歩』が、本日発売されました。よく知っているようで、意外と知らないスズメたちの素顔を満載。無邪気で健気なスズメたちの姿が心を揺さぶる、癒やしの一冊です。いつもブログでご紹介しているカトリック宇部教会の庭のスズメたちの写真も掲載されています。どうぞよろしくお願いします。

撮影/ 中野 さとる , 宮本 桂 , 熊谷 勝 , 井川 祥宏 , 片柳 弘史

編集/ ポンプラボ 発売元/ カンゼン 定価/ 1400円(税別)

にっぽんスズメ散歩

にっぽんスズメ散歩

★本書で紹介して頂いた写真の一部です。

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2017-06-18

バイブル・エッセイ(785)キリストの命を宿す

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キリストの命を宿す

 そのとき、イエスはユダヤ人たちに言われた。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」(ヨハネ6:51-58)

 御聖体について子どもたちに話すたびごとに、「なんでパンとぶどう酒がキリストの体になるの?」という質問を受けます。なかなか手強い質問です。ただのパンとぶどう酒が、キリストの体に変わるということがどうしても受け入れられないのです。そんなとき、「わたしたちが心を合わせて祈るとき、パンとぶどう酒に聖霊が注がれ、御聖体になるのだ」などと答えるのが一般的でしょう。ですが、もう一つの答え方が可能だと思います。パンとぶどう酒がキリストの体になったと考えるのではなく、キリストがパンとぶどう酒になったと考えるのです。パンとぶどう酒がキリストになるというのは大それたことですが、キリストがパンとぶどう酒なることはそれほど不自然ではないでしょう。なぜなら、キリストはかつて、神でありながら貧しい人間の姿になられたことがあるからです。わたしたちがミサで祈りをささげるたびごとに、聖霊が下り、パンとぶどう酒にキリストの命が宿るのです。御聖体は、キリストの遺体ではありません。キリストの命が宿った、生きた体なのです。御聖体をいただくとき、わたしたちは、キリストの命、永遠の命を宿したキリストの体をいただくのです。

 これは子どもを納得させるためにわたしが考えた説明なので、大人の皆さんには納得してもらえないかもしれません。いずれにせよ、御聖体の神秘を、人間が完全に理解するのは不可能なことです。御聖体をいただくときに大切なのは、頭で理解しようとすることより、御聖体に宿ったキリストの命を感じ、キリストの命を受け止めることでしょう。「結局のところパンとぶどう酒に過ぎないが、まあ神父さんがそう言ってるからわたしも信じよう」というようなことでは、キリストの命をいただくことはできません。頭で考え、思い込んでいるだけではだめなのです。大切なのは、御聖体に宿った、目には見えないキリストの命を心から信じること。キリストの命を心の奥深くでしっかり受け止めることなのです。

「キリストの命」というとちょっとわかりにくいかもしれませんが、神の愛と言い換えればもう少しわかりやすくなるかもしれません。命とは人間を生かす力。キリストからあふれ出す神の愛こそ、まさにわたしたちの命なのです。愛は、頭で考えて理解するものではありません。心で感じ取るものです。相手の深い愛に触れ、心が震えるほどの感動を覚えるとき、わたしたちの心に愛が宿るのです。喜びと感謝、相手を大切に思う気持ちが、わたしたちの心にあふれ出すのです。神の愛に触れるとき、わたしたちの心に命の力が溢れ出します。神の愛に触れて、永遠の命をいただく。それが、御聖体をいただくということなのです。

 キリストの命がわたしたちの内に宿るとき、わたしたちの体はキリストの命を宿した体、すなわちキリストの体になります。マザー・テレサが、貧しい人たちの体を「もう一つの御聖体」と呼んでいましたが、わたしたちの体も、キリストの命を宿した、キリストの体になるのです。わたしたちの心に宿った神の愛が、わたしたちの体を通して、笑顔や優しさ、親切な行いを通して、この世界に広がってゆくよう、心を合わせて祈りたいと思います。

2017-06-16

フォト・ライブラリー(533)教会の庭の花々〜紫陽花の季節

教会の庭の花々〜紫陽花の季節

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空梅雨が続いていますが、カトリック宇部教会ではいま、紫陽花が見頃を迎えています。やさしいパステルカラーの世界を、写真でお楽しみください。

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色づき始めたガクアジサイ。一雨ごとに、少しずつ色づいてゆきます。

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鮮やかなピンク色の紫陽花。「シティーライン」という品種だそうです。

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こちらは「ダンスパーティー」という品種。花の一つひとつが、ドレスを着た踊り子のようです。

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花びらが何枚も重なり合った紫陽花。「十二単」と名付けられた品種です。

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真っ白な西洋アジサイ、アナベル。まるでお姫様のような名前です。

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はじめは緑色のアナベルの花。一雨ごとに、だんだん白くなってゆきます。白く「色づいてゆく」こともあるのですね。

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可愛らしいピンク色のガクアジサイ。「ハイジ」という品種です。

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深いブルーの紫陽花。まるで吸い込まれそうな神秘的な色です。

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こちらは、まだ色づき始めたばかりの紫陽花。やさしいパステルカラーです。

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花の中心部分だけがブルーに色づいた紫陽花。「墨田の花火」という品種です。

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名前も涼やかな「墨田の花火」。川風に吹かれながら、花火を見ているような雰囲気です。

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美しく咲いた「墨田の花火」。日本の種苗業者が品種改良した品種だそうです。

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こちらは「歌合せ」という品種。「ダンスパーティー」の改良品種だそうですが、名前はぐっと和風です。

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見頃を迎えた、カトリック宇部教会の紫陽花たち。毎朝、庭に出るのが楽しみです。

2017-06-15

【公開対談in大阪・堺】

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公開対談inカトリック堺教会

 世界中に笑顔を広げるアーティストRIEさんの出身教会であるカトリック堺教会で、ついに公開対談が実現することになりました。最新刊『ほんとうの自分になるために〜マザー・テレサに導かれて』(PHP研究所刊)に込めた思いを語り合います。RIEさんの鋭い質問で、講演会ではお話しないようなことまで話すことになるかもしれません。お近くの方は、どうぞお立ち寄り下さい。

日時/ 2017年7月17日(月・海の日)14:00-16:00

場所/ カトリック堺教会(三国ヶ丘駅より徒歩5分)

【教会HP】http://casakai1924.la.coocan.jp/

★入場無料、予約不要。キリスト教徒でない方も、お気軽にお立ち寄り下さい。

主催/ カトリック堺教会

連絡先/ カトリック堺教会  072-252-1498

★チラシはこちらからDLできます⇒170717カトリック堺教会公開対談.JPG 直

【マザー・テレサの言葉シリーズ公式HP】http://ubecat.jp/hiroshisj/

2017-06-11

バイブル・エッセイ(784)ゆるし合って生きる

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ゆるし合って生きる

 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。(ヨハネ3:16-18)

 父なる神が自分を遣わしたのは、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とイエスは言います。一人として、見捨ててもいい人、滅びてもいい人などいないということです。わたしたちが互いに受け入れ合い、愛し合って一つの共同体を築き上げてゆくこと、この世界に生きるすべての人が、一人残らず永遠の命を得ることこそ、イエスの望みだと言っていいでしょう。

 三位一体の神のように互いに愛し合い、受け入れあって、一つの心で生きてゆくために必要なのは、互いを裁かず、ゆるし合う必要があります。イエスでさえ、「わたしは裁くためではなく、救うために来た」とおっしゃっています。その弟子であるわたしたちが、誰かを裁いて切り捨てるようなことがあってはならないのです。

 ゆるすとは、どういうことでしょうか。それは、相手をあるがままに受け入れるということだと思います。自分の思ったとおりにならない相手、自分の期待通りに行動してくれない相手を、あるがままに受けいれることこそ、ゆるすということなのです。逆に裁くとは、自分の思ったとおりにならない相手に腹を立て、「あなたはどうしてそうなの」と相手の人格を否定することです。裁くなら、わたしたちの共同体、教会や家庭、学級などは分裂し、崩壊してゆくでしょう。ゆるすことによってしか、わたしたちは一つになることができないのです。

 ゆるしの一つの具体的な例は、子どもをゆるすということです。幼稚園の若い先生たちから、「ゆるしや愛について学んだけれど、どうしても教室では子どもたちをガミガミ叱りつけてしまう。どうしたらいいのでしょう」という相談を受けることがあります。若い先生たちが陥りがちな間違いは、子どもたちを自分の思ったとおりに動かし、教室を支配しようとすることです。子どもたちを自分の思ったとおりに動かしたいと思っているからこそ、思った通りにならないと腹が立ち、つい厳しいことを言ってしまうのです。先生が感情的になれば、子どもは萎縮したり、反発したりしますから、その教室の雰囲気はどうしても重苦しくなります。

 ベテランの先生には、そういうことがありません。「子どもたちが自分の思ったとおりに動かなかったとしても、そんなのは当たり前」と、よくわかっているからです。ベテランの先生たちは、どんなことが起こっても感情的になることがありません。冷静に受け止め、問題を解決するために一番適切な声かけをしてゆきます。そのような先生の教室は、先生の温かな愛の中で、一つに結ばれていることがはっきりとわかります。

 これは、幼稚園の教室に限らないでしょう。家庭でも、職場でも、教会でも、どこでも当てはまることだと思います。大切なのは、家族や部下、仲間などが自分の思った通りに動かなくても、そんなことは当たり前だ思えるようになることです。自分の思ったとおりにならない相手をあるがままに受け入れ、相手のために何ができるかを考えること。それこそ、相手をゆるすということであり、相手を愛するということなのです。ゆるすこと、愛することを実践し、一つになってゆくことができるよう神様に助けを願いましょう。

【マザー・テレサの言葉シリーズ公式HP】http://ubecat.jp/hiroshisj/