バイブル・エッセイ(755)救いの訪れ


救いの訪れ
 ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ。はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」(マタイ11:2-11)
 「あなたは救い主なのか?」というヨハネの弟子たちの問いに対して、「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」と答えました。起こっている事実が、すべてを語るだろうというのです。見えなかった人の目が開き、聞こえなかった人の耳が聞こえ、倒れていた人は立ち上がり、話せなかった人が口をきき始める。そのようなことは、救い主がやって来たのでなければ起こるはずがあるでしょうか。
 救い主がやってきたという何よりの証拠は、救い主でもやって来ない限り起こり得ないような奇跡が起こることです。救い主の到来を告げるわたしたちの教会で、そのようなことが起こっているでしょうか。わたしたち一人ひとりの身に、救い主との出会いによって奇跡が起こっているでしょうか。
 例えば、人生に絶望し、闇の中に倒れていた人が、希望の光を見出して立ち上がったなら、それは救い主が訪れたしるしです。会社や家庭で大きな失敗をしてしまい、自分は誰からも愛されていない、生きている価値がないと思いこんでいる人が暗い顔で教会に入って来たとしましょう。その人が、聖堂で祈り、教会の人々と出会う中で「自分は愛されている」と実感し、再び立ち上がるための力を得たなら、それは奇跡です。途方にくれたような暗い顔が、希望に満ちた笑顔で輝き始めたなら、それはその人に救いが訪れたしるしだと言っていいでしょう。
 あるいは例えば、これまでの人生で不平不満ばかり言っていた人が、急に感謝の言葉を語り始めたなら、それは救いが訪れたしるしです。家族や世の中の悪いところばかり見て、不平不満ばかり言っている人が、教会にやって来たとしましょう。その人が教会で神様の大きな愛の前にひざまずき、自分のことを棚に上げて家族や世の中にばかり多くのことを求めていた自分の傲慢さに気づいたなら、与えられたものに満足して感謝の祈りを捧げるようになったなら、それは奇跡です。「あれもだめ、これもだめ」「あそこが気に入らない、ここが気に入らない」と言っていた人の口から、「ありがとう」という言葉が出てきたら、それはその人に救いが訪れたしるしだと言っていいでしょう。
 あるいは例えば、長いあいだ憎み合っていた人たちがついに仲直りしたなら、それは救いが訪れたしるしです。誰かに激しい憎しみを抱いた人が教会にやって来たとしましょう。その人が、神様の前で自分の行動を謙虚に振り返っているうちに自分の落ち度に気づき、すべてを相手のせいにしていた傲慢さを反省したなら、相手をゆるすばかりか謝罪したいと思うようになったなら、それは奇跡です。相手の悪口ばかり言っていた人の口から、「自分にも落ち度があった」という言葉が出てきたら、それはその人に救いが訪れたしるしだと言っていいでしょう。
 疲れた暗い顔で教会に入っていった人たちが、きらきらと輝く顔で出てくる。その人たちの口からは、不平不満がまったく聞かれない。喧嘩していたはずなのに、もう仲直りしている。それこそ、この教会に救いがあることの何よりの証拠です。救いの訪れを、起こっている事実によって伝えられるように、そのための恵みを願いましょう。