バイブル・エッセイ(1144)イエスと共に働く

イエスと共に働く

 そのとき、イエスは十一人の弟子に現れて、言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。(マルコ16:15-20)

 今日は主の昇天の記念日です。主の昇天というと、イエスが弟子たちのもとを離れて天に上げられた、遠くに行ってしまったと考えがちですが、マルコ福音書は、イエスが天に上がった後、「彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」と書き記しています。イエスは弟子たちから離れたわけではなく、常に弟子たちと共にいて、共に働いたというのです。
 天に上がったのに共にいたとは、いったいどういうことでしょう。それはきっと、イエスの体は天に上がっても、イエスの愛は弟子たちの心に生き続けた。弟子たちの心を喜びで満たし、あらゆる困難を乗り越える力を与えた。さらにいえば、イエスこそが、弟子たちの命そのものだった。弟子たちにおいて、イエスが確かに生きていたということでしょう。弟子たちは、もはや生きているのでは彼らではなくイエスであるというくらい、イエスと固く結ばれていたのです。
 そのことは、周りの人たちにもわかる「しるし」を伴っていました。「悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る」というのです。「さすがにそこまではないだろう」と思うかもしれませんが、このような言葉で表現される変化が弟子たちに起こったことは間違いないと思います。
 まず、「悪霊を追い出し、新しい言葉を語る」ということですが、これは、弟子たちが、悪魔の誘惑や罠を暴き、人々の心から悪魔を追い出した。神の愛を力強く語ったということでしょう。悪魔が人間の心に入り込んで、「お前なんか何もできない価値のない人間だ。生きていても仕方がない」と囁き、その人を絶望の闇に落とそうとするとき、弟子たちは、「そんなことはない。たとえ何もできなかったとしても、神はあなたを愛している。あなたは、かけがえのない神の子だ」と力強く語ることで、悪霊をその人の心から追い出したのです。
 「手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず」ということですが、これは、弟子たちがどんな相手も恐れなかったということでしょう。どんな相手でも、その人の中に必ずイエスが生きている、神の愛が宿っていると信じ、救いの手を差し伸べたのです。彼らが放つ毒のある言葉は、決して弟子たちの心に入りませんでした。イエスの愛で満たされた弟子たちの心は、毒のある言葉を聞いても、「この人は、こんなことをいわざるを得ないほど追いつめられ、悪魔に苦しめられているのだ」と受け止め、毒を無力にしてしまったのです。「病人に手を置けば治る」というのは、弟子たちからあふれ出す愛が、病人の心から絶望の闇を取り去り、病人たちの心を生きる力で満たしたということでしょう。
 イエスが「神の右の座」に着く方であると同時に、わたしたちと共に働かれる方であることは、「しるし」によってはっきり示されます。イエスの愛に満たされた心で、イエスの愛を人々に告げられるように。日々の生活の中でイエスの愛を生きられるように、心を合わせて祈りましょう。

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こころの道しるべ(216)整理整頓

整理整頓

思った通りにならないことばかりで
ストレスが溜まったときは、
思った通りになることを
増やしましょう。
例えば、部屋を整理整頓すれば、
思った通り物を取り出せるようになります。
心を整理整頓すれば、
苛立ちを取り除くこともできるでしょう。

『やさしさの贈り物~日々に寄り添う言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセイ(1143)愛の中にとどまる

愛の中にとどまる

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(ヨハネ15:9-17)

「わたしの愛にとどまりなさい。…わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」とイエスが弟子たちに教える場面が読まれました。イエスの掟は「互いに愛し合いなさい」ということですから、イエスは、「互いに愛し合うことによってわたしの愛にとどまりなさい」といっていると考えてよいでしょう。互いに愛しあうとき、わたしたちはイエスの愛の中にいるのです。

 幼稚園でときどき、子どもたちから「神さまは目に見えないけど、どこにいるの」と聞かれることがあります。そんなときわたしは、「目には見えないけれど、みんなの中にやさしい心があるよね。そのやさしい心の中に、神さまがいるんだよ」と答えることにしています。「神は愛」だとすれば、そのやさしい心そのものが神さまだといってもいいかもしれません。そしてこう続けます。「みんなが誰かにやさしくしてあげるとき、その子とみんなのあいだにも神さまがいるんだよ。目にはみえないけれど、みんなが誰かにやさしくしてあげるとき、神さはま、にっこりほほ笑みながらみんなを見ているんだ」。そんな風に説明すると、子どもたちは「ふーん」といって、ちょっと納得したような顔をしてくれます。大人向けにいうなら、神さまはわたしたち一人ひとりの心の中にいる。互いに愛し合うとき、わたしたちは神さまの愛の中にいるといっていいでしょう。

 では、どうしたらいつもイエスの愛にとどまることができるのでしょう。互いに愛し合うことができるのでしょう。イエスは、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」といっていますが、この言葉の中にヒントがあるような気がします。イエスは十字架上で人々のために自分の命を差し出しましたから、文字通りこの言葉を実践したのですが、わたしたちとしては、日々の生活の中で相手のために自分を捨てることから愛が生まれると理解したらいいでしょう。「こうなって欲しい」という思いや、「なんでわたしの思った通りにならないんだ」という怒りを捨て、相手のために自分を差し出す。無理に自分の思いを通すよりも、相手の幸せのために自分を捨てることを選ぶ。それが、相手を愛するということであり、日々の生活の中で愛を生きるということなのです。

 幼稚園の子どもたちは、これがとても上手です。お友だちと喧嘩をしても、すぐにけろっとした顔でお互いにゆるしあい、仲よくなってしまうのです。喧嘩を続けるより、仲よくした方がずっと楽しいと、本能的に知っているからでしょう。いつまでも根に持って、「あいつだけはゆるさない」というようなことが起こりがちな大人は、子どもたちから学ぶべきかもしれません。自分の思いよりも、愛を優先することができるよう、相手のために自分を捨て、いつもイエスの愛の中にとどまることができるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

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こころの道しるべ(215)祈りは愛

祈りは愛

愛する誰かが苦しんでいるのに、
自分には何も
してあげられることがない。
そんなとき、わたしたちは
その人のために祈ります。
誰かのために祈るとは、
祈らずにはいられないほど、
その人を愛しているということなのです。

『やさしさの贈り物~日々に寄り添う言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセイ(1142)イエスとつながる

イエスとつながる

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」(ヨハネ15:1-8)

「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」とイエスはいいます。日々の生活のなかでイエスとしっかりつながり、イエスからあふれ出す喜びと力に満たされているならば、わたしたちは豊かな実を結ぶことができる。いや、結ばずにはいられなくなる。イエスは、わたしたちにそう語りかけているのです。
 イエスとしっかりつながるというのは、聖書を開いてイエスの言葉を読むというだけでなく、イエスがいま目の前にいてわたしたちに語りかけてくださっているのを聞き、すべてを包み込むようなイエスのやさしいまなざしを感じ取り、イエスのぬくもりにふれるということ。イエスの愛を全身で感じるということだといっていいでしょう。「イエスは、わたしのことをこれほどまでに愛していてくださる。こんなに弱くて、欠点だらけのわたしを、あるがままに受け入れてくださる」、そのことを全身で感じとるとき、わたしたちの心は喜びと力で満たされます。そして、このすばらしい福音、すべての人間をあるがままに受け入れ、愛し、見守っていてくださる神さまの愛を、一人でも多くの人に伝えずにはいられなくなるのです。
 いま教会はさまざまな困難に直面していますが、このようなときこそ、イエスにしっかりつながるべきでしょう。困難に直面したとき、わたしたちはつい目先の問題にばかり気をとられ、イエスのことを忘れてしまいがちだからです。イエスのことを忘れると、わたしたちの心はどんどん喜びと力を失い、嘆きとあきらめに支配されていきます。「困ったな。もうどうにもならない。わたしたちにできることは何もない」と考え、未来への道を自分で閉ざすようになるのです。絶望がわたしたちの心を閉し、イエスとの交わりを断ってしまう。そういってもいいかもしれません。
 さまざまな困難に直面したいまこそ、イエスとの交わりをしっかり守るべきときです。困難な情況に置かれたわたしたちを、イエスがやさしく見守っていてくださることを思い出し、「何も恐れることはない。わたしがいつも、あなたたちと共にいる」と語りかけるイエスの声に耳を傾けるときなのです。イエスのまなざしに触れ、やさしい言葉に癒されるとき、わたしたちの心は喜びと力で満たされます。「あれもないし、これもないからもう駄目だ」という考えはどこかに消え去り、「まだあれもあるし、これもある。できることはいくらでもある」とか、「あの人が苦しんでいる、この人も苦しんでいる。何かせずにはいられない」といった気持ちに駆り立てられるようになるのです。
 わたしたちが活き活きと実を結び始めるなら、父なる神は、「いよいよ豊かに実を結ぶように手入れ」をしてくださいます。さらに豊かに肥料を与え、伸びすぎた部分を整えて、より活き活きとした教会にしてくださるのです。さまざまな困難に直面しているいまだからこそ、イエスとしっかりつながり、豊かな実を結ぶことができるように祈りましょう。

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こころの道しるべ(214)よい香り

よい香り

謙虚さは、よい香りとなって
周りの人をよい気持ちにします。
傲慢は、嫌な臭いとなって
周りの人を不愉快にします。
外見をどんなにきれいにしても、
ひどい臭いがすれば台無し。
心を清め、いつもよい香りを
漂わせることができますように。

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バイブル・エッセイ(1141)愛の響き

愛の響き

「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」(ヨハネ10:11-18)

「わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる」というイエスの言葉が読まれました。「命を捨てる」というと、何か命を粗末に扱っているようにも聞こえますが、イエスがいうのは、自分の羊、自分に委ねられたかけがえのない大切な人々のためには、自分の命を捨ててもかまわないということ。それほどまでに誰かを愛することこそ、本当の意味で生きるということであり、命を捨てるほど誰かを愛したとき、わたしたちは永遠の命を与えられるのだということです。肉体の死など恐れる必要はない。愛することによってのみ、わたしたちは永遠に生きる。イエスは、この言葉を通してわたしたちにそう語りかけているのです。
「羊は、わたしの声を聞き分ける」ともイエスはいいます。神の愛を伝えるためならば、その人のために命を捨ててもかまわないというほどの思いが込められた言葉は、相手の心に必ず届くということでしょう。わたしたちの声を聞く人は、その声の中に込められたわたしたちの深い思いを必ず聞き取るのです。わたしたちが本気かどうかを、声から聞き分けることができるといってもよいでしょう。
 それは、皆さんもよく分かるでしょう。たとえば、わたしが説教台から話すときに、わたしがその言葉を本気でいっているのか。「わたしたち一人ひとりがかけがえのない神の子だ」と本当に信じているのかを、みなさんはその声から聞き分けることができるはずです。わたしたちには、イエスの愛を感じ取り、聞き分ける力が与えられているのです。
 わたしたちが教会に集まっているという意味で「囲いの中の羊」だとすれば、「囲いに入っていないほかの羊」もいます。教会に来ることがない人たち、日本社会の中でわたしたちが出会うほとんどの人たちのことです。その人たちにも、イエスの声を聞き分ける力があります。たとえば、友人から相談を受けてわたしたちが話すとき、キリスト教徒でないわたしたちの友人は、わたしたちの中に、本当に相手を思う愛があるか。その人のために、自分を差し出すだけの覚悟をもって話しているかどうかを、はっきりと聞き分けます。もしわたしたちの中にイエスの愛がないなら、相手は、わたしたちの話をただの「きれい事」としてしか受け止めないでしょう。しかし、もしわたしたちの中にイエスの愛があるなら、その愛は、必ず相手の心に届き、相手の心によい変化を引き起こすのです。すべては、わたしたちの心に愛があるか、相手のために自分を差し出す覚悟があるかにかかっているといっていいでしょう。
 イエスの声を聞いたとき、当時のパレスチナの人々はその中に神の愛の響きを感じ取り、イエスの後に従いました。もしわたしたちの心に、相手のために自分の命を差し出してもかまわないというほどの愛、イエスの愛があるならば、わたしたちが出会う人たちも、必ずイエスの声を聞き分けるでしょう。まず、わたしたち自身がイエスの愛と出会い、心を愛で満たして頂くことができるように、そして、イエスの愛に満たされた心で人々のもとにでかけていくことができるように祈りましょう。

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