HELLOGOODBYE このページをアンテナに追加

2013-12-24

[][]『ゼロ・グラビティ『ゼロ・グラビティ』を含むブックマーク

ゼロ・グラビティ 国内盤

ゼロ・グラビティ 国内盤

ゼロ・グラビティ』 監督:アルフォンソ・キュアロン 出演:サンドラ・ブロック ジョージ・クルーニー



ネタバレ。



(世界はいとも簡単にあなたを殺す)。(あなたはあなたの意志で世界と自分を切断することができる)。(であるならば)。スイッチを切れば終わることができる世界で、何故生まれ落ちたのか。娘は何故生まれ落ちて、バカみたいと思えてしまう理由で死んでしまったのか。何故誰でもなく娘だったのか、何故死んだのは自分ではなく同僚なのか、そのことと、重力のある場所へ、大気圏に突入し、水から這い上がり、大地を踏みしめることと何が違うのか。(違わない)。宇宙で漂流することと、あてのないドライヴ。宇宙を漂流しながら彼らは、向かうべき方向を定め、果てのない世界に消える前に、向かうべき軌道に自らを修正した。重力とは何か。私たちは何に引っ張られているのか。何もない世界=重力のない世界で、突き出した足の先に、方角はあるのか。乱暴に言うのであれば、踏み出した足の先に、「行き先」を生むものがたぶん重力なのだ。世界は私が生きようと死のうと関心ないように、私は世界の非情を無視できる。無常を笑うことができる。私が生きようが死のうが、私は歩むべき道をつくりだせる。それは、生命の始まりが突き進むべき道であるように、あるいは赤子が生まれ落ちるように、自明なのだ。自明であるべきだと私たちは「帰還」する。発進と着地、生まれ出る場所と死に行く先。私たちは生まれたその瞬間から死に向かっているように、私たちは帰還しながらここに生まれたのだ。

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2013-10-23

[][]『クロニクル』 『クロニクル』を含むブックマーク

Chronicle [DVD]

Chronicle [DVD]

『クロニクル』 監督:ジョシュ・トランク 出演:デイン・デハーン アレックス・ラッセル マイケル・B・ジョーダン マイケル・ケリー


(ネタバレ)

誰にも頼ることもなく、誰であっても行くことができない場所に、3人は行くことができる。彼らが獲得した自由であるはずの場所が、こんなにも窮屈に見えるのは何故だろう。彼らが過ごす学校のルールからは遠く外れた上空で、何もないはずの空においても、そこには関係が持ち込まれる。干渉し合わなければならない。どこまで行っても、1人を失っても、彼らは空で対峙させられる。終盤、彼らは自ら人前に現れたのかもしれないが、空であっても、地上にいたときと同様に「さらされる」のである。

差し出された手を標であると思うことができない、きっかけに気づいてそれを信頼を持って掴み取ることができなかった主人公は、未熟で、やはりどうしようもなく愚かなのだろう。超能力は突飛かもしれないが、それによって出会う世界というものの普遍性は変わらない。新しい場所に踏み出すことへの、「発見」の驚きと怖れ、「共有」する喜びとわずらわしさが、あたりまえに混在し反響しあっている。時にうるさいほどに。ゆえに豊かな映画であると思うが、どうしたって悲しい物語なのだ。だけども彼らを想う。何ら顧みることなく、憂いもなく思い切り踏み出せる時間が、たった僅か、期間としては一瞬だったかもしれないが、それでも確かに在ったのだと。結末を知った後も思い出せることができる。

映画を観る者はこの記録をひとつの連なりとして観ることができるが、主人公が撮り続けている間は、撮り貯めている段階では、単なる断片であったということ。自分が何であるか知ろうとする前に押し固められ身動きができなくなるような窮屈で不可解で理不尽な世界に、視点をもって臨むこと。そこに自分が記録されること。それはまだ断片であったが、彼が混乱から何かを掴みとろうとする、何らかの連なりを見出そうとする意志があったことが分かる。これらの記録を、誰がどんな意図をもって繋いでいったのかは分からないが。

あるいは、ここに視点をおくという意識が存在し、または記録するためにカメラと向き合う(語りかける)ことで貫かれているもの。後半の展開での、その外から向けられる「視点」の距離。映画の始まりと終わりが繋ぐのは、「すべてを撮る」という意志と、そのカメラが収めるべき場所。

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2013-10-07

[][]『オブリビオン『オブリビオン』を含むブックマーク

オブリビオン』 監督:ジョセフ・コシンスキー 出演:トム・クルーズ モーガン・フリーマン オルガ・キュリレンコ


(ネタバレ)

ジャック(トム・クルーズ)はジュリア(オルガ・キュリレンコ)を見ていた。ジュリアもまたジャックを見ていたのだろう。そしてヴィクトリアアンドレア・ライズブロー)も。映画を観る者は、ジャックと同じように冒頭以前の記憶を知ることはできない。映画を観ることは、彼と同じようにかつてに出会い、顧みていくこと。誰かが何を見ていたのかは知ることはできないが、ただひとつ言えるのは、クローンとして目覚めたそのときにヴィクトリアはジャックを確かに見たのだろうということ。(冒頭の説明で、記憶を消されたとあったが、おそらくクローンとして目覚めてからの時間が5年しかないのだろう。)

「テット」は捕獲した人間をもとにクローンを製造し地球に派遣する。クローン製造の目的は、地球の監視であり、海水を吸い上げる巨大プラントを「異星人スカヴ」の残党(本当は人類の生き残り)から守ることであった。フライトレコーダーで、ジャックは過去を再生する。そこで、(調査船での)かつてのヴィクトリアの視線に、映画を観る者も気づくのだ。いや確かめようとしたのか。いつかの彼女もジャックを見ていたのだと。観る者は再び冒頭に立ち返る。彼女を想う。ジャックがジュリアを見ていたように、ヴィクトリアはジャックを見ていたのだということ。彼女は、ジャックよりずっと先に、自らの呪われた運命に気づいていたのかもしれない。

フライトレコーダー。ジャックは過去を顧みる。地球が破壊される以前、彼が乗る調査船は土星に向かっていた。テットに遭遇し、ジャックとヴィクトリアは捕らわれ、睡眠状態にいるジュリアは船から切り離されることでテットから逃れるも宇宙を漂うこととなる。そこは自分を失ってしまった場所、かつての軌道上に、時間や存在を超えて再び乗ろうとすること。いつかの過去と乗り合わせる感覚。

かつての自分が解き放った(切り離した)夢の、その軌道上に、過去を失った現在の自分が再び遭遇し、それを(半信半疑ながらも)掴みとることの奇跡。いや奇跡というのか。それは神が生んだ「自分」の誰かがいずれどこかで成し遂げること。この「自分」が死んでも、誰かがその先を歩むことの希望。ラストにフライトレコーダーはいらない。

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2013-09-18

[][]『ウルヴァリン SAMURAI』 『ウルヴァリン SAMURAI』を含むブックマーク

Wolverine

Wolverine

ウルヴァリン: SAMURAI』  監督:ジェームズ・マンゴールド 出演:ヒュー・ジャックマン TAO 福島リラ 真田広之


あらすじ:カナダの山奥で隠遁生活を送るウルヴァリンことローガンのもとに、彼の旧友でもある日本の大物実業家・矢志田の使者が現われる。余命わずかの矢志田は、命の恩人であるローガンに最後に一目会いたいと願っていた。日本を訪れ、病床の矢志田と再会したローガンだったが、矢志田はまもなく“君の永遠の命を終わらせてあげる”との謎の言葉を残して息を引き取る。その後、葬儀に参列したローガンは、謎の武装集団に狙われた矢志田の孫娘マリコを救い出す。執拗な追っ手をかわし、一緒に逃避行を続ける2人はいつしか恋に落ちる。またやがて、戦いの中で、自らの不老不死の肉体を支えていた驚異的な治癒能力が失われていることに気づくローガンだったが…。

<allcinema>


  • 誰かが見ていてくれていることの、世界の外側から見られるということへの希求。自分が生きてきたことの連続性なんて、あやふやで確かさを持ち得ないし、いとも簡単に断ち切られるものではないか。例えば個人が帰属する場所において、そうした枠の中からでは常に覚束ない、危うさを持ってしまう感覚。冒頭、ローガンが捕らわれている穴から見える光景、爆弾が落ちる場所と、間にはハラキリの日本人。再び訪れた日本で、マリコとの逃亡先で、彼はまた同じ場所に立つ。そこから見えるのは、焦土から回復した町と、間には、あの時に失われなかった命が繋ぐ新しい生命があるという。ローガンは我々とは生きる時間が違う部外者、世界の外側に近い者。ローガンが見た光景は、誰かから見る世界ということ。ローガンが目撃したことによる過去と現在の連続は、彼によって行われる反復は、たとえデタラメであっても、まったくの無意味であっても、ただ単純に、お前は生きてきたんだということを告げられるようで、ああ確かにあったんだというような感覚を持ち得てしまう。
  • またそれ故かどうかわからないが、映画に出てくる忍者たちにすごく惹かれてしまう。内側からは幻の中に生きていたものが、外側からは確かに存在するということ。東京のビル群に潜んだり、屋敷を音もなく制圧したり、距離を取って集団でローガンを仕留めるところとか、同じ世界の中で忍者が堂々と忍者であったのが、とても良かった。
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2013-09-10

[][]『ローン・レンジャー『ローン・レンジャー』を含むブックマーク

ローン・レンジャー』 監督:ゴア・ヴァービンスキー 出演:ジョニー・デップ アーミー・ハマー



ツイートを纏めたものですが、後半(その他)のは長いのでこっちに書きます。

https://twitter.com/hke1120

  • コマンチ族は、我々はすでに亡霊であると武器を手にする。トントは悪霊と契約したのだと、さまよい続ける。運命の重さと選択の鈍い音。だが主人公(アーミー・ハマー)が無法者になろうと決意する時の、まるで手にする武器を変えただけかのような身軽さは何であろう。運命に捕らわれない故にヒーローなのだ。
  • ヘレナ・ボナム・カーターも良い。主人公とトントの道中に彼女を加えた方が華があった気もするが、そうはいかない。彼女は主人公達の背中を押すだけ。 その関わらなさと、一瞬の派手さと、直後の飄々とやり過ごす姿と。そこには彼女の強さと気高さがあり、とてもかっこ良かった。
  • 逆襲のはじはりが、ゆるやかに動き出す。したたかな合図から、もう動き出してしまったことに迷いはいらない。列車の上、橋までの間。アドリブの中で過去との決別が軽やかに行われることが素晴らしい。
  • 登場人物たちの向かうべき時の独特のしなやかさは何だろうか。『3時10分、決断のとき』でもそうだった。ラストにラッセルの、それまでの道のりの重さを引き受けたまま置き去ることなしに、勇むことも躊躇することもなく平静に踏み出す「出発」の軽妙さよ。
  • 悪が運び込まれる(キャベンディッシュ)、不吉を呼び込む(少年トントと白人)ことで始まった物語は、自らが運び出すこと(機関車)で追い払うという。運命にケリをつけることが、ゆっくりと動き出す鉄の塊の、その重さの確かさによって果たされるのだ。ここすごく良い。
  • あと、なぜ語り部が必要なのかは少し考えてみるべきだろうか。『パイレーツ・オブ・カリビアン』3作において(特に2作目だが)、オーランド・ブルームキーラ・ナイトレイが選び取るものってジャック・スパロウが持ってきたものの中からなんだよな。世界と彼らが接続するには?間には常にスパロウがいる。世界はスパロウを通してしか見えないということ。

その他

  • わかりやすく対立の図式ができてて、それは世界と、目的と手段についてのそれぞれである。
  • 住民と鉄道会社またはコマンチ族と騎兵隊から見える世界に、トント対ラスボスの「目的を持つ者」としての対比と、アーミー・ハマー対キャベンディッシュの「行使する者」あるいはそれぞれの信念にもとづいて選び取られる「手段」の対比。
  • それは、過去−現在−未来についてでもある。例えばコマンチ族の言葉が立つ場所、女達の見る景色、その地点【現在】から振り返れば、そこにはトントの背負うもの、またはある男の呪われた意志が見える。2人はつまり【過去】である。【過去】と【現在】を繋ぎ、そこから指し示す先には何があるか。ローン・レンジャーは死なない男とされ、彼が選び取る手段こそが、【未来】に向かうための唯一の方法のよう。我々を目的地に運ぶために、そこに向かう意思の具現である故に、彼はヒーローなのではないか。
  • ではキャベンディッシュはどうか。彼もまた【未来】を向いている。ヒーローはそれだけでは存在しない。
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