灰野敬二氏インタビュー

 法政大学学生会館でのライブ出演が最多を誇る、ミュージシャンの灰野敬二氏にインタビューを行いました。
 灰野氏のプロフィールは、(公式サイト→ http://p.tl/Ptt3 WikiPediahttp://p.tl/PXd9 )を参照。

2011/07/17 池袋の喫茶店にて

――法政大学学生会館の解体について

(灰野氏)まずね、僕の方から言わせてもらうと、単刀直入に言ってしまうけど。あの素晴らしい空間があったのに、みんなが油断したからとられちゃったんだよ。ある時期に、あそこは学校側に管理されるのではなく、学生のものにできたわけじゃない? 僕は、勝ち取った、時代のせいで、という言い方をするけど。それもシビアに言うけど。あんな良い場所があったのに、そこにいる人間が「24時間居られる」って事に対して。なんでもそうだけど、モノがあるのは自分が求めたからあるのか、与えられているのか、意味違うじゃない? それこそ受動的になるのか、能動的にものを考えるのか、って事と全く一緒で、はじめに、勝ち取った、という言い方をあえてするね、学生はやっとあそこを手にいれられたわけじゃない?あそこをどんな思いで(時代のせいにすると言うけど)手に入れたのか、時には手に入れるために怪我をしたやつもいるかもしれない、殴られたやつがいるかもしれない。そして、手に入れたら、すごく大事にしなきゃならないと思う。ところが、大変な思いをして手に入れたのに、一旦、手に入ってしまうと、人って、油断が生じやすいよね。時間が経つにつれて、自由にできる空間がある、あそこにいれば一日ぼうっとしてられる、まあ、言ってしまえば、怠けてられる。そういう、だらしない空気が流れていたから――つぶれたんだよ。あそこを「自主管理」のもと、っていうことで、きっちりやっていれば(もう7年経ってるか)あんな結果にはならなかったと思う。ある時期から(建物が古いとか消防法とか以前に)だらしない奴が、君の先輩たちが、あそこに居るようになったから、学校側としては非常に侵入しやすくなったんだよ。結局、入っていけない場所があるっていうことは、誰かが管理している訳でしょ。管理している人間達にとっての、自分達の部屋をちゃんとしておけば、何も入ってこられなかったんだよ。

(続き)なぜ、こういう事を言うかっていうと、(聞いた話っていうことにしておくけど)君が憧れているようなライブをあそこでやったと、お客さんがたくさん入ったと、ものすごい入ったと、その時にバンドに払うギャラはある程度で済んだと、それでも相当な額はでたらしい。学館のライブって利益にしてはいけないっていう、利潤を追求してはいけないっていうことで(この言葉がすごい罠なんだが)、聞いた話だけど、君のOB達がその日タクシーで何人かが高級バーで金を使ったと。闘う、とかなんだかわからないスローガンを掲げてる人間が、隙をみせる。(警察や学校に対してではなく)自分自身が隙をみせてしまう。隙って楽なんだよ。24時間使えるって事は、24時間をどう使うかを、ちゃんと自分自身でコントロールする事。それができる人間なんていないって。だとしたら、どうすれば凝縮した時間の使い方ができるかを考えるのか、怠惰な方向にいくのか。そこで、闘ってる、っていう、スローガンばかり掲げてる。すると、(解体のきっかけとなった館内でのボヤの件で)お前たちで管理できないじゃないか? お父さんに返しなさいってことになる。子供が親に対して何かを言いたいのならば、親以上にしっかりしてなければダメってことよ。それを学生ができなかったんだよ。できなかったってことは、自分の不満を言ってただけ、ってことなんだよ。世の中を変えたいとか、変えようとか、不満を言ってるくせに、酒とか煙草とかだらだらして、君たちのOBが今、何をしているか、見つけてみたら面白いと思うよ? 結局そこで、闘い方を学んだんじゃなく、反対に、資本主義のあり方を身につまされたんだよ。あと、立ち位置としてはっきりしておきたいのは、僕は、決して、過去の人間、ではないから。ここが、みんなと立ち位置が違うからね。「昔そうだったよね」っていう人がいて、そういう人達が学館を美化するのよ。悲しいかな、ちゃんとしていないモノはなくなるんだよ。何かを打ち立てた者、運動をしていた者、色々な事を(過去ね)「していた」者が、現在どうしているか、を見た方が良いよ? 10年ぐらい前の先輩が当時、学館でどんな運動をやってて、そいつらが現在何をやってるか。(そいつらが)途中で、もういいや、ってなって、ある種の、作り上げた祭り、が美化された。法政の学館で起きていたコンサートを、そういうものだと、僕は思ってる。

――それでも、個人的にはとっても楽しい思いをさせてもらった。学館で。

 毎回、僕が学館でやる時、それも1年に1回、10年ぐらいやった不失者で、毎回実行委員が僕のところへわざわざ来て、「どうしてやりたいんですか?」って言うの。そういう事をいうのは、はっきり言って、あそこしかなかった。ただやらせるんじゃなく、何でやりたいのか。僕がやりたい事を、面白いと思ってくれたら、やるって事は、僕との関係においては、はっきりしてた。今までボロクソに言ったけど。僕が音楽・コンサートをやる事において、一番緊密な関係でやれた。殺し文句だけど「僕の遊び場」と毎回言った。ある時期から、予算が大学側から下りなくなった、けれど、彼らは運営を実行した、僕に知らせずに。不失者の最後の3、4年は実費でやってくれた。僕のやる意義に対して、リスクを背負ってくれた。今でも僕は仲間だと思ってる。最後の頃なんてスタッフが1人とか、あったと思う。あれは良くやったよ。(スタッフが)東京中の馬鹿でかいアンプを揃えるのに2日かかって、トラックにアンプを全部つめこんで、法政に持っていって、3日、4日徹夜なんじゃないかな。1人だよ1人。彼には今でも感謝してるし、敬意を払ってるよ。

――80年代、法政学館ではパンクミュージックが盛んでした。

 パンク馬鹿って言ってた頃だね(笑)。メディア的には僕たちは「その裏」って扱いをされてたと思う。法政が何か共感を持って、それを「政治的」とみなそうとして、そういうイベントをやったと。パンクって言葉のイメージに関しては、俺たちの方がパンクだと思ってた。「おまえら頭が悪いよなぁ」って、法政にも思ってたけど、何が「政治的」なんだよ。(80年代は学館でのライブ出演が)少ないというか、全然ない。本当にライブに呼んでくれるようになったのは、95年以降とかじゃないかな? 本当にパンクには何にも興味なかったから。

――客として学館でライブを見たことはありますか?

 あるある。お客さんなのか対バンで見てたのか。舞踏とか芝居とか見に行ってたんじゃないかな。あの空間でそんな事やるかみたいな。いやもう、個人的には大好きなところだね。悔しいのよ、何で、残せなかったのか、ちゃんと管理できなかったのか。

――怒涛のような出演数の90年代〜00年代の話へ

 その時の僕のマネージャーが、ロックよりもジャズの方が好きだった。それでそういう人を招聘したから、ピーター・ブロッツマンとかバール・フィリップスとか。今でも海外で一緒に演ってる。「僕の遊び場」っていう言葉は、ものすごく深い意味があって、何をやっても許される場所だから。実験であり、エクスペリメンタルであり、人からみるアバンギャルドであり、ロックであり。俺もそういう場所だから、毎回演ったのよ。俺も(当時)40近いわけだから、40近い人間が「遊び場」として認めるっていう所は、(自由って言葉を使うと不自由さが生まれるから嫌だけど)わかりやすく言うとものすごく自由空間だから、だから、演らせてって言ったの。法政大学学生会館大ホールが、狭っ苦しいカテゴリーがあるような場だったら、俺は演らせてって言わない。そこで意志疎通ができるのよ。毎年不失者でやる時に。

――ロックス・オフの呼ぶ側のセンスも独特ですよね?

 それが、アナーキー気取り。音楽センスは他のところに比べれば良いでしょ。個人的な趣味・主義でロックス・オフはやっていた。だから信用できた。個と個の繋がりでできるから。(学館で)80年代はパンクを演ってた訳じゃない? そこに不失者を演らせろってのは大変だったんだよ。俺たちの方がどれくらいパンクで、俺たちの方がどれくらいアナーキーだ、っていう事をしゃべり続けたよ、確か。それで、わかりました、ってことで始まったと思うよ。音楽好きな連中、ではあったと思う。ただ、みんな、パンクのメッセージ性に騙されてた、ってだけでしょ。メッセージ性ってのは、うさんくさいんだって。自分が被害者だと思っちゃってるから、加害者に向かって、メッセージを放ち続ける訳じゃない?

                          

――俺が未だに音楽をやってるのは、人よりも音楽が1億倍好きだから

 音楽が好きだから、どんどんいっぱいやりたいから、色んな事をやってるように思われてる。「灰野さん何でもできますね」って言われるけど、違う違う。俺は好きなの。まぁやる側としては(学館に)やっと呼んでくれたっていう感じだよね。今まであまり声がかからなかったのに。音楽をずっとやっていると(言葉の説明では足りないけれど)好きが加速するの。もっと自由になりたくなる。客観的に今見ると、法政の学館の中においては、そういう風に加速していって、音楽じゃなく、メッセージとか行動とか、言葉じゃないモノが、違うモノに変わった時に、「通常にはあまりないモノ」に転換していくんだと思う。やりやすくなっていった、のは確かだね。

――「最後の砦」

 自分の音楽を始めた時期、っていうのが、具体的に言うと1970年。その時に、「ごっこ」は、いっぱいあった。「ごっこ」は、あったの。ところが「ごっこ」さえも、なくなった。っていう意味で、「最後の砦」。闘っている、と思い込みたい人間達の、砦。で、たぶん、比較される「西にあるあいつ」(京大西部講堂)。たぶんすごく憧れていると思うけど、ロクなもんじゃないよ。自由を謳うから、70年代の変な部分についての自由、を謳っているから、ミュージシャンには「ノーギャラでも文句ないでしょ」みたいな感じになるの。ここで寝せんのか! みたいな感じもあったし(笑)、そういうのが隙をみせているって事。自由ってものは、ものすごくちゃんとやらないと、手にいれることはできないと思うよ。

――「それぞれ個人でやっていく事の確認の機会」

 そこに居て、何かをやっているつもりの人達が、組織が解体された後。場所があって組織が成立していたのか。保険の場所が奪われてしまった訳だから、個人が何をやりたかったのかが出るはずだよね。それが、何も出てこないじゃない。あそこは何度も言うけど、学校が入ってこられない、学校側が管理できない場所だから、でき得た訳だよね。だから、そこにおごりがあり過ぎたんだよ。絶対に、あそこのままでいられる、っていう。一言で、権力に対する反逆という意味では、貫いていたと思うよ。

――灰野さんの音楽キャリアにとってライブハウス「法政大学学生会館大ホール」とは

 好きなことを本当にやらせてくれた。それは言い切れる。それが時に迷惑をかけたことも認めて、反省してる。本当に好きな事をやらせてくれた。何をやってもいい、ってことを証明させてくれた。自分自身が、ある時から開放されていくから、いくらでもできちゃう。それと、社会との接点ってことで話し合いをして、昼間からやろうってことで落ち着けた。法政が無かったら、不失者の7〜8時間のコンサートっていうのは実現しなかったと思う。今、僕が活動していなければ、素晴らしい思い出だけど、10時間演ろうと思ってるし、現在、演っている訳だから、それを美化する気はない。ただ感謝はしてる。それはもう言い切れるから。8時間演奏できるなんていうのは、ライブハウスではできない事だから。僕が僕自身を確認できた場所でもあるよね。俺、こんな音楽好きなんだ、みたいな。法政大学学生会館大ホールに行くと空気が違うんだよ。行くと「うわぁ」って、寒々するけど、決してネガティブじゃない。頭の中にあるだけで、現実にどうするかわからないけど、「法政大学学生会館大ホールのように」っていうコンサートをやろう、と今思っている。とてもシンプルだけど、「場」とか「場を作ってくれた人達」には敬意と感謝を。これは一生変わることのない。ただ、法政の祭りに足りなかったのは、自分より大きいものに対しての畏怖、畏敬の念が無かったからダメなんだよ。何かに対する感謝が足りなかったからダメなんだよ。

――今後、オファーがきたら法政大学でライブをやりたいですか?
 
 全然やるよ。断る理由が何もない。「昔は良かった」っていう言葉は使いたくない。

――長い時間ありがとうございました。