なぜ名前を、顔を、忘れるのか−「君の名は。」と「この世界の片隅に」(3)
【このエントリは、(1)( http://d.hatena.ne.jp/hrhtm1970/20170724/1500893086 )、(2)( http://d.hatena.ne.jp/hrhtm1970/20170827/1503842260 )の続きになります】
17.重ね合わせること(3)
ぼうっとした自分にぼうっとした自分のままではいられなくなった自分を重ね合わせ、失われた右手に、残った左手に、帰ってきた右手を重ね合わせ、すずは生きていく。重ね合わせるものは、目に見えるものでなくともよい。だからすずは刈谷さんと一緒に服を物資に替えに行くとき、椿模様の着物も処分している。もう椿模様の着物はなくても、哲への思いは、すずの身体に、「この世界」に、重ね合わせられている。着底した青葉、左手で描かれた青葉に、空に浮かぶ青葉、右手で描かれた青葉を、重ね合わせているのは、すず一人ではない。ほほえみとともに空を見上げる哲がそこにいる。
漫画版で言う記憶の器、アニメ版で言う笑顔のいれもん(そして涙のいれもん)になることは、「この世界」のようでなかったかもしれない世界を、その可能性が、すっかり過ぎ去ったものとして、「ありうる」可能性から「ありえた」可能性になってなお、「この世界」に重ね合わせ続けるということだ。
だから、すずと周作のところに現れた少女は、晴美の身代わりとして、晴美の喪失を埋め合わせるのではない。その少女に晴美が、重ね合わせられるのだ。少女は少女であり、晴美は晴美であり続けながら、「この世界」の中で重ね合わせられる。少女もまた、すずが母でないことを知りながら、すずに母を重ね合わせながら、彼女なりの「この世界」を生きていくだろう。
「いれもん」としてのすずは、いずれ死ぬ。漫画版の「しあわせの手紙」も言っている。「いま此れを讀んだ貴方は死にます」。「この世界」は、「世界」を右手でなぞって「私の世界」を重ね合わせて、かろうじて成り立つ、引き裂かれたり歪んだり、思いのままにならなかったりする世界に過ぎない。だから、その中ですずは、決してその中心に君臨し、何もせずとも世界が自分のために回る奇跡的な運命を享受してきたわけではない。右手のたたかいによってかろうじて成り立つ「この世界」の「ほんの切れっ端にすぎない」私として、生きている。
「この世界の片隅に うちを見つけてくれてありがとう」と言うすずの言葉は、本当は「この世界」の中心にいるのにそのことに気づかない、無邪気で受動的でけなげな存在の発したものではない。すずは本当に、「この世界」の「片隅」に、生きている。そしてそのすずが死んだあとも、おそらくは広島で出会った少女の、あるいはすずと関わった人々の「この世界」の中に、「懐かしい切れ切れの誰かや何かの寄せ集め」の一つとして重ね合わせられていくのだろう。いずれそう遠くない時間の先に、すっかりその名前も顔も忘れられてしまうのだとしても、「それはそれでゼイタクなことかも知れんよ」というリンの言葉が、その名前も顔も失った「切れっ端」に、与えられるだろう。
私たちのたどたどしい歩みは、「君の名は。」と「この世界の片隅に」はしばしばそういわれるほど違った物語ではないという認識をつかみ直すところまで、来たようだ。
瀧と三葉が互いの名前を忘れてしまう理由と、すずが周作の顔を忘れてしまうかもしれんという理由は、同じではなかった。けれど、この二つの作品が、大切な人が、自分(たち)が生きている世界が、失われてしまう可能性をめぐる物語であることは共通していた。自分たちが生きている世界に、その世界がそのようでない世界になってしまう/なってしまっていたかもしれない可能性を、重ね合わせてしまうこと。
「リトライ」が行われて(おそらくは繰り返されて)いる「君の名は。」では、実際に少なくとも一度大切な人とその人が生きる世界は失われていて、そのことを身体が記憶している。「リトライ」が行われているわけではないが、様々な「選ばんかった道」の可能性が示されている「この世界の片隅に」では、ありえた可能性は、過ぎ去ってしまうことなく「この世界」に重ね合わせられ、やはり「いれもん」としてのすずの身体に記憶されていく。
すずがそうであるように、瀧も絵を描く人である。「あんたの描いた糸守、あれはよかった」とラーメン屋の店主が言う瀧の絵が、糸守そのものではなく、糸守をなぞって、瀧の心象を重ね合わせた「この糸守」であることは、店主にも瀧にも理解されているだろう。破滅的な悲劇をもたらす彗星の落下を「ただひたすらに、美しかった」と言い切る若い二人が見ている世界が、美しすぎることにおいて「世界」そのものでないこと、そのような世界が、明らかに他のBGMや効果音とは異なるレベルの音量の、ピアノの鍵盤を激しくたたきつけたような音響とともに、一瞬で吹き飛ばされてしまう可能性につきまとわれていることは、アニメ版の「この世界の片隅に」の「リアル」な背景を、「絵に過ぎない」ことが強調されていると言える視点からなら、読み取れてしまうのではないか。
建築関係の仕事に就こうとしている瀧は、「この東京」の風景も、一瞬にして失われる可能性を訴えている。「美しい」「リアル」な背景が「現実を覆い隠す欺瞞」に、瀧が無自覚だとは考えにくい。
いつか消えてなくなる君の全てを
この目に焼き付けておくことは
権利なんかじゃない
義務だと思うんだ
誰もがいずれ死ぬ。何十年か何百年か何千年か何万年か、いずれにしてもその名前も顔もすべて忘れられる。君の全てを焼き付けたその目も、笑顔と涙のいれもんも、いずれ失われる。それでも、もう少しだけ、あと少しだけ、記憶したいと願い、記憶しなければならないと感じてしまうのが、瀧であり三葉であり、すずである。わずかな違いは、「忘れられる」ことの「ゼイタク」を知りながらなお、やはり記憶することも「ゼイタク」であると知っているすずの方が、瀧と三葉より、少し大人だということだろう。
この二つの作品について、私たちがさしあたり議論したかったことは、いったん尽きたようだ。だがここで展開された読解が、「この解釈」に過ぎず、他の解釈の可能性を忘れ去るものではないことは、言うまでもない。
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