拓殖のあと

はてなダイアリーから引き継ぎました。(2018年8月31日)

クマソタケルの末裔

クマソタケルの末裔

「野性よ、疲弊した文明を撃て――」とカバーに書いてあるが、その通りの小説。十勝毎日新聞に小説を連載している立松和平さんの作品が好きな人はどうぞ。私は、ちょっとねえ・・・。
主人公慎次が都会人川島を殺害して「クマソタケルの末裔」と一緒に暮らしてゆくことを決心する場面など、野性の文明に対する勝利ということだが、それでいいのかと言いたい。「野性」や「自然」がそういうものとして我々に認識される時点で、すでにそこには人の手が、アートが介在している。アート(技、技術)があるからネイチャーがあるという認識から出発しないと不毛な二項対立を繰り返すだけ。小檜山さんは本当に「自然」を信じているようで、こういう人は貴重だとは思うが、しかしなあ・・・。
ちなみにこの小説には「アイヌ」は登場しない。北海道は雑種だ、だから自由なんだ、内地が何だ!と説く小檜山さんのアキレス腱が「アイヌ問題」だろう。雑種といったって、自由といったって、アイヌもウイルタも自由意志から「和人」と交わったわけではないのに、ぜんぶごちゃまぜにして「道産子」なる主体を立ち上げるのは、今は「内地」と悪魔化できるからいいけれど、そのうち「道産子」の内部の差異を抑圧する方向に向かう可能性がなきにしもあらず。

『文学』5/6月号(岩波書店) 特集=いま英文学とはなにか
といったって、「かつて英文学とはなんだったのか」をきちんとやっていないんだから、こういう特集をくんだってたかが知れている。とはいえ、富山論文は、過去30年間の日本の英文学研究なるものを徹底的に批判的に読み抜くことで、異様なまでに先鋭化した英米批評に対処する――抵抗、とは安易に言えない――手がかりが見えてくるのではないかと指摘している点、読むに値する。
巽論文「米学事始」は、とっかかりとしては優れた論文だが、でも巽さんがこういう仕事をやっちゃ独占禁止法違反だと思う。