10-二二八の悲劇

台北にニニ八和平公園という公園がある。
私は前回の台湾旅行でも、ここを訪れていたので、
もう訪れなくてもいいだろうと思っていたのだが、
初めて台湾総督府に行き、あまりの観光客の多さに
少し疲れたので近くにあったここに少し寄って
休憩でもしようかと、ふらっと公園に入ってみることにした。

その公園内では木々が生い茂り、鳥が好き勝手に歌を歌い
親子が楽しそうにシーソーなんかをしていた。
あぁ、のどかだなぁと思って近くの建物を見てみると
そこには、ニニ八記念館と書かれた建物があった。
そういえば、私は2年前もここに来たっけ。

懐かしいなぁ、そう思い建物の付近をふらりと歩いてみた。
いや、二回目だし、もう入らなくていいだろう。
正直そう思ったのだが、台湾を本当に知る上で
この記念館の意義は大きい。
聞くと最近リニューアルして新しくなったというし、
入場料も20元(50円)と安いし、昼まで2時間ほど
暇だったので、私はもう一度入ってみることにした。

中に入ると机の上にパンフレットが置いてあった。
英語、中国語、日本語のパンフレットである。
私が日本語のパンフレットを手に取ると、
一人のおじいさんが私のところにゆっくりと寄って来て
「日本からですか?」と流暢な日本語で言った。
日本語世代だというこのおじいさんは張 文隆さんといい
ここでボランティアガイドをしているという。

張さんは何か分からない事があったら、
なんでも私に聞いてください、
私はこの事件を経験した一人ですから、と静かに言った。
私は、はい、そうしますと答え中に入った。

おじいさんの言うこの事件とは
もちろん「ニニ八事件」のことである。
ニニ八事件と聞いても日本人の多くはよく知らないと思う。
台湾人ですら、事件が起こった1947年から
40年続いた戒厳令が解除される1987年以降もしばらくは
この事件について詳しく知ることはできなかった。
台湾近代史上の重大事件であるにも関わらず
台湾の教科書に載っていないのである。
この事件は語る事すらタブーだったのだ。

事件のあらましはこうだ。
1945年の日本の敗戦により日本は台湾から去った。
そして、統治者のいなくなった台湾の領有権を主張したのが、
蒋介石率いる大陸の南京国民政府である。
多くの台湾人にとって中国は祖国である。
よって多くの台湾人は喜んで祖国を迎えた。

しかし現実は違った。

大陸からやってきた外省人の兵隊はいたく腐敗していたのだ。
張さんは実際に兵隊を見たといい、こう証言した。
「彼らは腐敗していました。まるで敗走兵のようでした。
汚い服を着て、だらだらと歩きました。
金を盗むし、女を見つけたら乱暴します。
彼らが持ってきたのは賄賂という文化だけですよ。」

日本時代に賄賂はありませんでしたか?
私がそう聞くと、張さんは答えた。
ありました。しかし、そこまでひどくはなかったです。

生活が改善されるとばかり期待していた台湾人は
これにひどく落胆した。
ただでさえギリギリの生活がさらに苦しくなるのである。
庶民は我慢の生活を続けたが、それも限界に近づいていた。
しかし政府は、そうした台湾人の感情を無視し、
追い討ちをかけるかのように砂糖・塩等の生活必需品や
大陸では自由に販売されているタバコ等の嗜好品を
政府の専売制にし、台湾からさらに利益を得ようとした。

そして事件は起こった。

1947年2月27日、台北市で闇タバコを
密売していた林 江邁という中年女性が
専売局の役人に見つかり摘発されたのである。

土下座をし、許しを請う林を役人は銃剣の柄で殴り、
商品と所持金を没収した。

それを見て怒った台湾人の民衆は林に同情し、役人と衝突した。
すると焦った取締官は民衆に発砲し、たまたま居合わせた
陳 文渓を射殺し逃亡したのである。

この事件をきっかけに台湾人の怒りは爆発した。
彼らは台北の怒りを台湾全土に伝えるため、
ラジオ局を占拠し、日本語で「台湾人よ!立ち上がれ!」と
呼びかけたのである。

台北の怒りは瞬く間に全国に飛び火し、
全国で政府へのデモが起こった。
彼ら台湾人は日本語か台湾語のどちらかを話せるため、
そのどちらも話せない者を見つけると
外省人(中国人)であるとし、暴行した。

劣勢を知った行政長官 陳儀(ちんぎ)は
台湾人達と対話の姿勢を示した。
台湾人達は交渉担当者数人を用意し、
政府との対話に応じようとした。

しかし、それは陳儀の周到な計画だった。
陳儀は対話で解決を図るように見せかけ、時間稼ぎをし、
大陸の蒋介石に援軍を要請していたのである。

そして大陸からやってきた援軍により台湾人の
交渉担当者全員が殺されてしまう。
張さんは私の手をひき、これですよ、と像を指差した。
張さんによると、ニニ八記念館に入ってすぐにある銅像
その交渉担当者達であるという。

彼らの殺戮はこれだけでは止まらなかった。
デモを引率した裁判官・医師・役人などの日本統治時代に
高等教育を受けたエリート層は次々と逮捕・投獄・拷問され、
その多くは殺害された。

張さんはその時どうしていましたか?
私は思い切って聞いてみた。
張さんはゆっくり口を開いた。

私も役人に捕まりました。
そして手と足に針金を刺されました。
分かりますか?何人もの人間の手や足に
針金を通してつなぐのです。
そしてトラックに載せられ海に連れて行かれました。
そうして順番で前の人から拳銃で撃たれました。
彼らは自分の重みで海に沈みます。
私は列の最後の一人でした。
私の前の人は拳銃で撃たれ海に倒れました。
私は前の人が撃たれ、海に倒れこんだとき
その重みで私も海に落ちました。
そして私は必死に逃げて、助かりました。
私はあの時、助かった、たった一人の人間です。

張さんの恐怖が目に浮かぶようである。
この事件により28000人もの台湾人が殺害されたといわれているが
正確な死者や行方不明者は現在も明らかになっていない。

私はひとつ疑問があった。
私はその疑問を張さんに聞いてみることにした。

台湾には蒋介石を祭った中正紀念堂があります。
とても多くの観光客が行きますよね?
でも蒋介石はニニ八事件で多くの台湾人を殺害しました。
多くの台湾人にとって蒋介石は悪者のはずです。
どうして蒋介石をいまだに祭っていますか?
それに対する張さんの答えはいたくシンプルだった。

それは国民党が勝手に作ったのですよ。

そうか。現政権も考えてみれば国民党だった。
私は色々親切に教えてくれて張さんにお礼を言って館内を出た。
小鳥達がのんきに鳴いているココこそ、60年以上前、
民衆が占拠したラジオ局の跡地であるという。
ここから政府に対するデモが台湾全土に広まったのである。
台湾がアジアでも有数の民主国家となった裏では
とてつもなく多くの人の血が流れているのである。
そう考えると、さっきまでの、のどかなこの公園が
どこか、とても尊いものに見えてきた。

私は手をあわせて公園を出た。
その傍で、小鳥達はいつまでも、いつまでも鳴いていた。

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台北ニニ八記念館

住所:台北市凱達格蘭大道3号
詳細は以下のサイトに詳しい
http://www.taipeinavi.com/miru/34/