イロニーとしての月と星 稲垣足穂『一千一秒物語』

ある夜倉庫のかげで聞いた話
「お月様が出ているね」
「あいつはブリキ製です」
「なに ブリキ製だって?」
「ええどうせ旦那 ニッケルメッキですよ」(自分が聞いたのはこれだけ)
                          (「一千一秒物語」)
 星新一のエッセイを読んでいて、稲垣足穂という作家の名前と「一千一秒物語」の存在を知った。学生時代だからもう20年以上前のことになる。で、そのとき足穂の「一千一秒物語」を読んでみた感想は一言で言えば「なんじゃこりゃ、ぜんぜんわからん」だった。「一千一秒物語」は「お月様とけんかした話」とか「星を食べた話」とか「ガス燈とつかみ合いをした話」といったコント風の断章七十編から成る。大正12年(1923年)に刊行されたことを考えても、稲垣足穂の作風がいかに特異だったかがわかる。ブログ「千夜千冊」で松岡正剛は、「自分が生涯かけて書くものは『一千一秒物語』の脚注にすぎない」という足穂の言葉を紹介している。
 確かに、「一千一秒物語」は何かのエッセンスのようなものが詰まっているのだが、それをつかまえるのは至難の業と言えそうである。そう、月でも星でもやつらはすぐ形を変え逃げてしまうのである。「ポケットの中の月」に至っては、自分をポケットに入れて歩いていたお月様が、うつむいたはずみに自分をポケットから落としてしまって、転がっていく自分をおいかけたが靄の中へ自分を見失ってしまうのである。
「……それはどう云いましょうか? その性質として伝統を持っていないもの。たとい伝統はあっても、それがしきたりの附随感を与えないような類を指しているのでした。だから一面に、それらは虚無的であり、機械的だとも云えます」
「天体嗜好症」はこんな一見不可思議な一節から始まるが、「一千一秒物語」の脚注だとすればなるほどと腑に落ちるところがある。星や月といった天体、飛行機、模型、少年、A感覚など足穂が偏愛するものは、地上との断絶を感じさせるものばかりだ。「美のはなかさ」の中で語られる記憶についての一節はとてもおもしろい。既視感は同時にこれからさきに経験することなのかもしれないし、自分ではなく他人の記憶かもしれないというのである。記憶が人の主体性を補完する重要な要素とするなら、足穂は記憶を「永遠癖」とか「宇宙的郷愁」といった表現に置き換えることによって、地上に縛り付けられることを拒否しようとする。
「依って彼は、彼が『本体なく』『純粋な現象』即ち形而上学冒険者であり、このようなものとしてあらわにされたものであることを知っている。彼の存在は同時に仮象であり、かつ真である。それはイロニーである」(「美のはかなさ」)
 芸術家の存在様式をこのように述べる足穂は、半自伝的小説「弥勒」でもわかるように、自身が「一千一秒物語」の脚注であろうとしたかのようである。