「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない」 夏目漱石『道草』

 新潮文庫の解説で柄谷行人が『道草』を評して「ネガティヴな面を集中的にとりあげている」というのも納得の重苦しい空気に満ちた小説。主人公の健三は留学先のイギリスから帰国して、大学で教鞭をとっている。そんなある日、かつての落ちぶれた養父母が現れ、生活費を要求する。妻の父親や姉夫婦にもお金を用立てている健三は、金をやる義理はないと思いながらも、かつての養父母の要求を断りきれない。健三と妻の関係も冷え切っており、お互いに口を開けばいさかいが起こる。健三はそうした日々寸暇を惜しんで机に向かう。
 際限のない鬱屈した心情が健三の心のうちに居座っている。例えば、妻との不和の原因に言及した次のような場面。

「あらゆる意味から見て、妻は夫に従属すべきものだ」
 二人が衝突する大根は此所にあった。
 夫と独立した自己の存在を主張しようとする細君を見ると健三はすぐ不快を感じた。動(やや)もすると、「女の癖に」という気になった。(…)細君の腹には「いくら女だって」という挨拶が何時でも貯えられてあった。(七十一)

 フェミニストでなくても眉をひそめそうな夫の傲慢さに驚かされるが、考えるべきことは、夏目漱石の自伝的要素の色濃い『道草』において、ここまでネガティブな側面をさらけ出すことの意味である。『道草』は、かつて健三の養父だった島田と道で行き会うところから始まる。島田は「健三の心を不愉快な過去に捲き込む端緒になった」男であり、「正しく過去の幽霊であった」。
「何処までこの影が己(おれ)の身体に付いて回るだろう」そう考える健三の胸は「不安のさざなみに揺れた」。確かに今はひげを生やし、山高帽にステッキで往来を闊歩する身分なのかもしれない。しかし、一皮むけば、そこにいるのは無教養で吝嗇な養父母に育てられたわがままな子供の自分である。『道草』の健三は屈託の人であると同時に、記憶をたどる人でもある。養父母は自信のなさから、ことあるごとに「御父ッさんが」「御母さんが」と自分たちが「親」であることを強調したが、健三の心はそのたびに養父母から離れていき、「己れ独りの自由を欲しがった」。健三の歓心を金品で買おうとする養父母によって、健三は強情でわがままなモンスターのような子供になった。
 健三にとって、過去を追憶するというのは、往時のモンスターである自分が今も自分の心の中に棲んでいることを確認する作業である。金の無心に訪れたかつての養父母は、健三の姉の夫らのおかげで来なくなった。片が付いてよかったと安心する妻に健三は言う。
「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない」