未来のいつか/hyoshiokの日記

hyoshiokの日々思うことをあれやこれや

社内公用語を英語にすること

最近楽天の社内会議を英語でやっているということをおもしろおかしく伝えられているが、中の人として一言ふたこと。http://mainichi.jp/select/biz/news/20100513mog00m300020000c.html

まあ、言うまでもないことだけど、日本のGDPが今後全然増えないなかで企業が成長していくとしたら、海外にでなければいけないことは火を見るよりもあきらかなので、外に出て成長するか、外にでないで成長を放棄するか極端に単純化するとそのようなお話になる。いやいや、日本国内でも十分成長余力はあるという立場ももちろんあるが、それ以上に海外の成長が大きかったとしたら、限りある経営資源を有効活用するために、どっちの方に投資するかということである。

日本のサービス業で海外で成功した事例というのはほとんどない。製造業であれば、SONYトヨタなどいくらでもあるし、かつての日本のお家芸だったと言っても過言ではない。ユニクロが積極的に海外展開を図ろうとしているのは小売業として日本だけでは限界があると言う問題意識だが、その問題意識はまるっきり同じである。

商売の軸足を、どんどん海外に置いていく。それをするというコミットメントに他ならない。それ以上でもそれ以下でもない。

ちょっとエキセントリックな印象を与えたのは、社内公用語を英語にするというキャッチーなところだろう。しかし、考えてみればSONYも日産も社長は日本人ではない。社内公用語は英語である。会議を英語でやっているのである。

SONYでも日産でも出席者がたまたま全員日本人であったら、例外的に日本語を使うことはあるだろうが、基本的には資料、文書は英語だろうし、外国人がいれば当然英語になるだろう。それ以上でもそれ以下でもない。

社長が出席する会議(取締役会とか経営会議)は、ほとんど英語になったが、下々の日々の会議までが英語というわけではない。

細かいことを言えばキリがない。英語にアレルギーがあって、わたしは日本だけでいいです、というマインドの人は、別に楽天に入社しなくていいのである。そのようにはっきり白黒を言うというのは伝統的な日本的な企業ではなかなかないが、明示的に会社がそれを宣言するというのはフェアだと思う。いろいろ議論はあると思う。だけど、それを外野があれやこれやというのは、お門違いかとも思う。わたしは、このような、ある種極端な実験をする会社は、リスクをとるが故に先行者利益を得る可能性が高いと思う。

まあ、TOEICがどうだとか、そーゆー話が一人歩きする危険性があるけど、そのくらいのショック療法がこのぬるま湯の日本には必要だと三木谷さんは判断したんだと思う。わたしは、その判断は正しいと思うがそれは誰にもわからない。わたしは黒船で夜も眠れぬ人々である。

Asianux

Miracle Linux時代、2004年に中国のRed Flag社とAsianuxのプロジェクトを始めたときのことを思い出した。北京で共同開発をしたのだが、技術的な議論をするときの言葉をどうするかというとき、一つは、通訳を置いて、日本語中国語が堪能なブリッジエンジニアを駐在させて行う案と、もう一つは、片言だけど、双方にとっての外国語の英語で会話をする案とがあった。

正直行って、日本から行った某エンジニアも英語はぼろぼろで何度も日本語通訳をつけてくれと泣きつかれたが、英語で押し通した。中国側のエンジニアも英語はボロボロでぼろぼろ同士どうやって意思疎通を図るのだというと、通訳がいない分、相手が自分の言っていることを理解していないということは、はっきりわかるので、極めて単純に物事を伝えようと努力するし、分かるまで、いろいろな角度から何度となく説明し、何度となく確認をするくせがついた。

時間はかかったが、必要なことはしつこく確認する。そのようなくせがついた。

ソフトウェア開発において、自分の伝えたことが正しく伝わっているかということをしつこく確認することは基本中の基本である。しかし、その基本中の基本ができないので、ソフトウェアプロジェクトは失敗するのである。はじめっから、双方の理解に差があるという危機感をもっているので、極めて単純なことから、これはイエスなのかノーなのかをなんどとなくしつこく確認するくせがついてそれが結果として相互理解につながり、何度も飲み会に行ったりしながら、技術的なところ以外のところでも、腹を割って話ができた。同じ釜の飯を食ったという一体感ができあがった。

逆説的になるが、双方にとって母国語ではないが故に、誤解や曲解もあったと思うが、それが生じることが前提で、自分の言っていることを相手はどのように理解したかを相手に語ってもらうことで、その理解を共通のものにするという手間暇がかかることをやったおかげで、双方の距離は縮まり、相互理解は深まったと思う。

通訳をつけていれば、最初のハードルは低いが、通訳がどのように伝えたか確認しようがないが故に、誤解は誤解として訂正されないままプロジェクトは進行し、あるとき、取り返しのつかない時点でそれが発覚するというようなリスクがあったのではないかと想像する。

英語はわれわれにとって母国語ではない。同様に世界の多くの人にとっても母国語ではない。それが故に共通語として育って行っているではないだろうか。

おそらく、日本企業がオフショアとして中国、インドのソフトウェアハウスを使うことが今後増えてくるだろうが、日本語を公用語にすることはやめたほうがいいと思う。

われわれ自身が変わらない限り、世界との競争に打ち勝つことはできない。というかわれわれ自身が変わらない限り、そのスタートラインにも立てないような気がする。

英語くらいでビビることはない。世界を相手にする。楽しいではないか。おもしろいではないか。外資系に勤めなくても世界の企業と競争できるおもしろい時代になった。*1

*1:日本発のインターネットサービスで世界で成功した例はまだない