漂流日誌

札幌のNPO「訪問と居場所 漂流教室」のブログです。活動内容や教育関連の情報、スタッフの日常などを書いています。2002年より毎日更新

遊の話

■昨日の自由学校「遊」での講座「学びをあきらめない」は、札幌自由が丘学園の亀貝さんとぼくで、フリースクールについて話をした。参加者は10名強のこじんまりした会場で、元教師や子育てを終えた人が中心。アウ・クルの知り合いや遠友塾の人もいた。最初に司会と話をして、それぞれのフリースクールがどんな活動をしているか知ってもらってから、会場の参加者から出た質問や考えについて話していく形で行った。

■会場からは、ちょうどあるブログを読んで自分が考えていたこととシンクロした話が出ていて、面白かった。
グレーゾーンへ(16) 普通学級の呪縛�@ 森口奈緒美の問題提起 障害者と生産性の過去・現在・未来/ウェブリブログ

 ここで、森口が教育に望んでいたことが何であったのかをはっきりさせておく必要がある。森口が望んでいたことは、多様な子どもとの「共同生活保障」ではないし、「発達保障」でもない。あくまで、「教科学習保障」であったということに留意しておく必要がある。

これは自閉的な傾向を持つ人の話だが、診断が無くてもこういうことを望む人は多いだろう。会場から出た話でも「学級の中でみんなで一緒に、というのは学びづらい」とか「教科学習したかった」という話が出ていた。これが子供の思いだとすれば、他方大人目線からは自殺やうつの増加、いじめや個人主義の話をベースに、「日本の学びが昔のような共同体を形成する力を失っている」とまとめられる話が出ていた。これは「共同生活保障」や「発達保障」をひっくるめた話だろう。

■こうした話をすると「世の中全体が変わらなきゃならない」と語る人が出てくる。でも、それは極論だと思う。変わればいいのは、学校制度におけるマイノリティの扱いだろう。教科学習のみを求める人も学級の共同生活で問題になっている人も、学校制度の中だけでマイノリティといわれる存在でしかない。学校制度は社会全体と比較すると、かなり特殊な状況だ。学級という仕組みは生年月日で限定された30〜40人が集まり少数の統率者の下で動く共同生活だ。その中で目的とされる教科学習以外にも、明示されない様々なことをできるように要求される。社会の中で人が集まる多くの場は、もう少し緩やかで多様であるが故に生きていき易い。マイノリティとつき合う時には、学校制度ではない、通常の社会の有り様を少し持ち込めば楽にできそうだ。それは「勉強だけしたいのね。じゃあ、学級行事の参加は無しでいいよ」だったり、「同年代より年上の方がつき合いやすいなら、6年生のクラスで過ごしたら」という感じだったりするのではないか。世の中全部を変えなきゃならん、くらいの意気込みがある人が教師になったなら、これくらいのことは自分の判断でやっちゃえばいい。まあ、それが出来ないのが現状だとわかって書いているんだけどね。

■漂着教室に自分が作って食べる時間が無かった鍋を持っていったら好評。手羽先をやわらかく煮込んだやつ。

■夜、二年近くぶりのお宅にスタッフ迎え。久しぶりに会った訪問先の子は、すらっと背が高くなっていてびっくりした。